第132話 街の隙に手が伸びる
朝のうちにレインは新しい区画へ下りた。
骨組みだけの宿棟が三つ並んでいる。屋根はまだ半分しか葺けていない。それでも柱と柱の間には筵が敷かれ寝床として貸し出されていた。壁のない宿に人が眠る。それが今この街の形だった。
棟の親方は帳面をすぐ出してくれた。ベルダが指で名を追っていく。
「三日前の入りがこれね。……見て。ここが空いてるでしょ」
名の脇の欄には何も書かれていない。
「砦のころは空欄なんて通さなかったのよ。採りに来たのか商いに来たのか訓練に来たのか。何をしに来たか言わない者は門で止めた。……今は止められない。ここへ来る人の半分は暮らしに来てるんだから。暮らしに来た人へ何しに来たと訊く筋がどこにもないの」
レインは頁をめくった。名と日付だけが並んでいる。荷の中身も連れの数も書かれていない。書かせる欄がそもそも無かった。
「砦の受付は用のある人を数える作りでした」
「そう。町の帳面は暮らす人を数える作りにしないと回らない。……作り替えてる最中よ。間に合ってないだけ」
ベルダは帳面を閉じた。
「間に合ってない隙にあの男が一人入ってる。それだけの話」
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その隙の形を、ガルムは足で測って持ってきた。
昼前に管理棟へ上がってきた男は一枚の走り書きを卓へ広げた。新区画の縁をなぞった線と、線が途切れた三箇所に打たれた丸。
「東の土塁がここで切れてる」
太い指が丸を叩いた。
「石畳のほうが先に伸びちまった。人の歩くところを先に敷けと言ったのはあんただ。おかげで道だけは区画の端まで通ってる。……縁の土塁がまだ追いついてねえ。壁より先に道が出来上がるのが町ってやつだ。砦じゃありえねえ順だぞ」
「回しきるのにどれくらいですか」
「あんたの敷く速さ次第だろう。十日と聞いてる。だが十日のあいだ口が三つ開きっぱなしになる」
ガルムは丸の一つを爪で囲った。
「昼は職人の出入りで人の目がある。夜は減る。減った夜にここを通る奴を数えるには俺の目が足りん」
「夜だけ絞りましょう」
レインは走り書きの上へ指を置いた。
「日が落ちたら通れる口を一つにします。残りの二つは材木を渡して塞いでください。朝になれば外す。……職人の仕事は止めません。止めれば十日が二十日になります」
「それでいい」
ガルムは走り書きを畳んで懐へ入れた。
「壁が追いつくまで、俺の頭数で仮の縁を引いとく」
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ヴェッセンは隠れなかった。
昼を過ぎたころ自分の足で管理棟の戸を叩き、案内を待ってから卓に着いた。旅塵のついた地味な外套も柔らかい物腰も以前と変わらない。変わったのは切り出しの一言だった。
「まずお祝いを申し上げます。町になさるそうですね」
「まだ土台を敷いている途中です」
「その土台の上に建つものが要り用でしょう」
ヴェッセンは膝の上で手を組んだ。
「石を敷き土を盛るところまでは灰霧殿の御力かと存じます。ですが宿も市も工房も、銭と職人でしか建ちません。宿を三倍にするとなれば、木も瓦も釘も、この辺りの商いだけでは到底足りますまい。……中央の商流も、街の発展にお力を貸したいと申しております」
「足りない分はバロスさんの筋で手当てが付いています」
「ええ。ですが荷は数が多いほど安く付きます」
男は押さなかった。押さないまま次の一手へ移った。
「不躾を承知で一つだけ伺います。……夜ごとの当番は、今も同じ刻限で回っておいでですか」
レインは表情を動かさなかった。動かさないようにした。
「なぜそれをお尋ねになるのですか」
「灰霧殿は開けておられない。開けずに世話をしておられる。……止めれば数日おいて荒れる相手だと伺いました。ならば刻限がずれれば街の下の落ち着きもずれる。町を建てるのに、そこが揺れては困りましょう」
卓の下でレインは指を組み直した。
当番があること自体は先の卓で開いている。頭数も費えも開いた。だが刻限は開いていない。止めれば数日おいて荒れることも、開けずになだめていることも、どこの紙にも書いていない。
「どちらでお聞きになりました」
「使いの身ですので」
ヴェッセンは軽く頭を下げた。
「私は使いに過ぎません」
「どなたの使いですか」
「申し上げられません。……ただ、私の後ろにおられる方は、値の付くものにはさほど御関心がない。値の付かぬものを長くお探しの方です」
男は立ち上がり、戸口の手前でこちらを振り返った。
「街が大きくなるのは良いことです。人が増えれば目が減る。……ああ、失礼。増えた人を見る目のほうが足りなくなる、という意味です」
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ガルムがヴェッセンを門まで送っていった。討たず押さず、退避線の外まで丁寧に。
残された卓でレインはしばらく黙っていた。
『開示の記録を照合しました』
ノアの光が硬く灯った。
『当番の刻限を記した控えを外へ出した記録はありません。谷の刻の弁の扱いも同様です。……つまり漏れたとすれば紙ではありません。人の口か、目です』
『数を出します』
セレスの光が並んだ。
『先の月と比べて新区画へ入った者は三倍。うち紹介の筋をたどれない者が三割。砦の頃は一割を超えたことがありません』
『宿帳と受付の台帳を突き合わせる仕組みを組みます』
ルカの光がせわしなく段を刻み始めた。
『名寄せを自動で回せば、申告と行動のずれた者を朝までに一覧で出せます』
「照らし合わせを呼び出すところまでで止めてください」
レインは段を手で押さえた。
「ずれが出たとき、それが怪しい人なのか字の書けない人なのかを分けるのは人の目です。……仕分けまで機械に回せば、字の書けない人が先に締め出されます」
レインは卓を見回した。
「街を大きくするなら縁も同じ速さで大きくします。賑わいを広げたぶんだけ、ああいう手の入る隙も広がる。宿帳に欄を三つ足してください。誰の紹介か。どの棟で寝るか。どこで働くか。……それから、奥のことを口にした相手の名を控える欄を一つ」
「三つ目は書きにくいよ」
ベルダが眉を寄せた。
「書きにくくても書きます。壁は物の道しか塞げません」
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夕方にはバロスが商いの筋から拾ったものを提げてきた。
「値が跳ねてる」
卓に着くなり言った。
「灰霧の底の話だ。前は酒の席の与太でしかなかった。今はちゃんと銭が付いてやがる。西の口入れが紙一枚に金貨で値を付けたって話まで回ってきた」
「紙一枚に、ですか」
「そこがおかしいんだよ」
バロスは指輪を親指でこすった。
「商人が銭を出すのは、その先で売れるものにだ。灰霧の底の話は誰に売れる。買い手が一人しかいねえ話に金貨は出ねえ。……出てるってことは、売って稼ぐ気のねえ奴が買ってるってことだ。商いの値じゃねえんだよ、これは」
レインは卓の木目をしばらく見ていた。
商いの値ではない銭が、商いの道を通って動いている。それを運んでいる男が今この街の宿で寝ている。
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その夜、東の切れ目に人が来た。
三人。職人の下働きの触れ込みで、昼のうちに新区画の棟へ名を入れていた者たちだった。材木の陰を伝って土塁の切れ目を抜け、深層通路の認証門から二十歩ほどの位置で足を止めた。
ガルムの手の者は先に立っていた。
「道を間違えたな」
ガルムは灯りを一つ持っただけで前へ出た。
「この先は職人の寝床じゃねえ。連れて出る」
三人は逆らわなかった。押し合いも起きなかった。手の者が名と刻限と歩いてきた道筋を控え、退避線の外を回って新区画の入口まで送り届けた。それだけで終わった。
控えを読んだレインは一箇所で目を止めた。
三人の紹介元は同じ口入れだった。その口入れが材木を入れている先の一つに、ヴェッセンの泊まる棟が並んでいる。重なっているだけだ。それ以上のことは何も言えない。言えないまま帳面へ綴じた。
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夜半、レインは下へ降りた。
保守通路の壁に当番札が吊るされている。今夜のぶんはもう書き込まれていた。弁を開いた幅。息を数えた回数。脈が戻るまでの間合い。昨夜と寸分違わない数字が並んでいる。
通路の奥から足音が上がってきた。
「上は騒がしいな」
「お騒がせしています」
「詫びる話じゃねえ」
ドルクは札の列を親指で弾いた。
「騒がしかろうが谷の刻は勝手に来る。来たら垂らす。上の景気で俺の仕事は変わらん。……変わらねえもんが一本通ってりゃ、上がどれだけ広がろうと下は落ち着いてるもんだ」
レインは札の数字をもう一度見た。街の縁は破られかけ、値の付かないものに金貨が動き、卓は何一つ決まっていない。そのどれとも関わりなく、この一垂らしだけが昨日と同じ幅で垂れていた。
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翌朝、委員会の事務を仲立ちする窓口から一枚の書き付けが届いた。
次の卓への同席願いだった。商流の代理として卓の隅に席を一つ設けてほしい、とある。名はヴェッセン。
「断れないの」
ベルダが低く訊いた。
「事務の枠を通っています。断れば、こちらが商いの筋を締め出したことになります」
レインは書き付けを卓へ置いた。
重さは一枚残らず開くとあの卓で言った。数も費えも頭数も開いた。誠意のつもりだった。だが開いた勘定をいちばん熱心に読んでいたのは、卓に着いていた二人ではないのかもしれない。卓の外にいて、開かれた紙をあとから写していた誰かだ。
その誰かが次は席に着く。
「あの人、何しに座るんだろうね」
「こちらが開いたものを、こちらへ向けて使うためでしょう」
レインは窓の外へ目をやった。骨組みだけの宿棟に朝の煙が上がり始めている。壁のない宿の下で人が眠り、その真下でひと息ぶんの水が細く垂れる。開いた重さと握った中身のあいだに引いた細い線を、明日の卓で誰かが指でなぞろうとしていた。




