第131話 重さは渡す 中身は握る
卓が開く朝、レインは管理棟へ上がる前に一度下へ降りた。
谷の刻はとうに過ぎている。深層第一区画へ下りる保守通路の壁に昨夜の当番札がそのまま吊るされていた。弁を開いた幅。息を数えた回数。脈が戻るまでの間合い。どの欄も一昨日と同じ数字が並んでいる。同じであることがこの札のいちばんの成果だった。
通路の奥から足音が上がってきた。ドルクだった。
「変わりねえよ」
こちらが訊く前にそう言った。
「上でお偉いさんが何人並ぼうが谷の刻は勝手に来る。来たら垂らす。それだけだ」
「助かります」
「礼を言われる筋じゃねえ」
ドルクは札の列を親指で弾いた。
「ただ一つだけ言っとく。上で何を決めるにしろ、この一垂らしを止める話にだけはしてくれるな。止めた晩に何が起きるかは俺にも読めん」
レインは頷いた。卓へ上がる前にその一言を耳へ入れておきたくて下りてきたようなものだった。
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地上へ出ると東から槌の音が響いていた。
新しく石畳を敷いた区画に材木が積み上がっている。バロスの手配した職人たちが宿の骨組みを起こしている最中だった。土台はこちらの権限で敷き、上物は人の手で建てる。決めたとおりの順で街の形が伸び始めていた。柱の脇では小さな子が削り屑を集めて遊んでいる。荷車の合間を縫って炊き出しの湯気が流れていく。
賑わっている。その賑わいの真下でいま見てきた一垂らしが今夜も垂れる。
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管理棟の卓にはこれまで別々に来た二つの手が初めて並んで座っていた。
右に辺境伯ハルドレイと代官補佐。左に主席評価官コンラート・ドレファスとエイク。頼る手と握る手。空けてあった中央の席にはベルダが立ち、台帳を三冊重ねて置いた。
レインは腰を下ろす前に一言を置いた。
「今日はこちらから先に方針を申し上げます」
卓の目が集まった。
「灰霧が抱えている重さを分けていただきたい。治安。衛生。街の暮らしの費え。中枢の魔力の持ち出し。夜ごとの当番。……これらは全部この卓に開きます。数も費えも頭数も一枚残らず」
息を継いだ。
「そのうえで一つだけ握らせてください。この砦の底に何がいるのか。それだけは申せません」
しばらく誰も口を開かなかった。ベルダが台帳をめくる紙の音だけが卓を渡った。
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「順に読むわよ」
ベルダが最初の頁を押さえた。
「治安。壁の内の見回りが日に三巡から七巡へ。門の立ち番が二人から六人。揉め事の届けが月に四件から三十一件」
頁をめくる。
「衛生。便所の穴が十二から二十九。汲み取りの回数が倍。洗い場の水量が三倍。療治小屋の寝床が四つから十四」
もう一枚。
「宿と市と荷はここから先。商いの側の勘定だから額は分けて書いてある。……そして最後の頁ね」
ベルダの指が終わりの日付のない列で止まった。
「深層の当番。曝露を数える鈴。それからもう一本。……この三本には終わりの欄がないの。来年も再来年もおなじ数字が並ぶ。街が二倍になろうと一垂らしも減らないよ」
ドレファスは長いこと数字を追っていた。それから顔を上げた。
「よく開いてある。ここまで開いた例を私は他に知らん」
だが声はそこで止まらなかった。
「最後の一本には名前がない。何のための当番かが書かれていない。……分担というのは分ける対象を互いに見せ合って初めて成り立つ。重さを分けろと言うなら中身も開くのが筋だろう」
「筋としては仰るとおりです」
レインは退かなかった。
「認めるのか」
「はい。外から見れば身勝手に映るのは承知しています。重さだけ押しつけて中身は渡さない。……そう聞こえる言い分を今日ここへ持ってきました」
ハルドレイが低く笑った。
「面白い男だ。自分の弱いところを先に卓へ置く」
だが辺境伯の目は笑っていなかった。
「では領の側からも先に置こう。重さを恒久に負うなら街の運用に相応の決定権をもらう。兵を出し銭を出し流民を引き受けて口は出すなというのは通らん。門の出入りも徴募も、領の名で数える以上は領の采配が要る」
「委員会の言い分も似ている。ただし向きが逆だ」
ドレファスが引き取った。
「中身を握るというなら国家の管理の下で握れ。辺境の一存で名も知れぬものを抱え、その費えだけ国庫から引くのでは、これは分担ではない。……寄付だ」
二方向から同じ一点を突かれていた。
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レインは最後の頁へ手を置いた。
「なぜ中身を握るのか。そこからお話しします」
卓を見回した。
「独り占めのためではありません。開けば欲しがられます。欲しがられれば近づかれます。近づかれれば、いつか誰かが確かめようとして開ける。開ければ起きる。……ここまでは順番が決まっています」
「決まっていると言い切る根拠は」
「その順を途中まで、これまでに三度見ています」
レインは指を折った。
「採集者を装って下を覗きに来た者がいました。こちらの控えの束から、奥のことを書いた紙が一枚、外の目の届く卓へ紛れ込みかけたこともあります。つい先ごろには、まだ誰にも話していないはずの奥のことを、こちらの見立てとほとんど同じ言葉で語る商人が卓に座りました」
ドレファスの眉が動いた。
「どれもこちらが中身を開いた覚えのないうちに起きています。開いてもいないのにこれです。……開けば的が増えるだけだと私は考えます」
「危険だから中央が管理する、という道もあるが」
「そのお申し出は前に一度伺いました」
レインは静かに首を振った。
「中央がお持ちになったところで、寝ている相手は場所を変えません。動かせるのは名義だけです。名義が動けば知る人の数が増えます。知る人が増えれば、そのうちの誰かが確かめたくなる。……相手は確かめられることをいちばん嫌います」
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レインは扉の外へ声をかけた。ガルムとエルメアが入ってきた。二人とも卓の格を気にする素振りもなく壁際に立った。
「起きたらどうなるか。現場の見立てをお願いします」
「逃がせねえ」
ガルムは腕を組んだまま短く言った。
「街の頭数でか」
ハルドレイが訊いた。
「そうだ。退避の線ってのは人が外へ出るための線だ。下から来るものを止める線じゃねえ。砦の頭数なら線は足りてた。今は壁の内で寝てる奴が砦の頃の三倍いる。線の引き直しは今やってる最中で、まだ半分だ」
「療治の側から申し上げます」
エルメアが続けた。
「地下の気に当たった者は鈴の数で区切って三日から五日で戻ります。それは一人か二人の話です。……街の頭数がまとめて当たれば、寝かせる場所も診る手も足りません。今の療治小屋で受けられるのは十四人まで。それを超えたぶんは地面に寝かせることになります」
「地面に寝かせればどうなる」
「賑わいと同じです。放っておけば腐ります」
エルメアの声は淡々としていた。その淡々が卓を静かにさせた。
ハルドレイがしばらく黙った。
「……わしの領民が住むことになる街の下に、名も知れぬものが寝ている。それを名も知らぬまま抱えて暮らせと、お前さんは言うわけだ」
「はい」
「名くらいは知っておるのだろう」
「知りません」
レインは正面から答えた。
「私も知らないんです。何がいるのかは分かっていません。分かっているのは、こちらから覗きに行けば向こうが目を覚ましかけるということだけです。……ですから知る努力そのものを止めています。知らないままなだめる。それが今この砦のやっていることの全部です」
ドレファスが背を椅子へ預けた。
「握っていると言うから、てっきり何かを摑んでいるのだと思っていた」
「摑んでいません。握っているのは知る範囲のほうです」
『線を申し上げます』
卓の端でノアの光が硬く灯った。
『灰霧が分担の対象外とするのは三つです。中枢の制御。退避の判断。地下への立入の基準。……その三つ目の内側に、奥に関する情報の開示の可否を含めます。この三つ以外は一切を開きます。台帳。事故の記録。曝露の帳面。当番の名簿。街の入りと出。監査でも視察でも御随意に』
「四つを外す根拠は」
『安全基準として綴じてあるためです。利権の条項ではありません。いずれも外した瞬間に事故が起きる側の判断です。夜半に脈が跳ねたときに王都へ伺いを立てる余裕はありません』
エイクが小声で主席へ何か添えた。ドレファスは頷きも否定もしなかった。
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レインは台帳を卓の中央へ戻した。
「まとめます。重さは分けます。数も費えも頭数も全部開きます。……中身は握ります。奥に何がいるか。それだけは分担の卓に載せません」
「呑めんな」
ドレファスの返答は速かった。
「少なくとも今日は。委員会の卓へこのまま持ち帰れば、首を傾げられるのは私のほうだ」
「では傾げられる理由をお聞かせください。持ち帰って組み直します」
ドレファスは初めてわずかに口の端を動かした。
「……理屈で押し返さずに理由を訊きに来るか。厄介な相手だ」
ハルドレイが腰を上げた。
「わしは重さの話だけなら明日にも判を押せる。兵も銭も出す腹はもう決めてある。……だが中身の話が残っている限り王都が押さん。押さねば領だけが先に負うことになる。それは領の卓では通らんのだ」
辺境伯は扉の手前で振り返った。
「お前さんの言う矛盾は、わしの判まで止めておるぞ」
代官補佐が一礼して後を追った。去り際に若い実務窓口は小声で付け足していった。領の卓にも中身を知りたがる者はいる。急かされる前に形を作ってほしい、と。
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卓が散ったあと管理棟にはベルダと台帳だけが残った。
「上出来じゃないの」
ベルダは頁を閉じながら言った。
「あんたが矛盾を隠さないで先に置いたから、あの二人も本音を先に置いた。……隠したまま押し切ってたら今ごろ違う卓になってたわよ」
「呑んではもらえませんでしたが」
「一日で呑む相手ならとっくに呑んでるわ」
ベルダは三冊を抱え直した。それから思い出したように別の帳面を卓へ置いた。新しい区画の宿帳だった。
「そうだ。朝のうちに宿の親方が持ってきたのよ。新しい棟は骨組みのうちから寝床に貸してる。名前だけ先に控えさせてあるの」
ベルダの指が一つの行で止まっていた。
「三日前から一人入ってる。荷は少ない。連れもいない。……名の綴りに見覚えがあってさ」
レインは帳面をのぞき込んだ。
旅塵の似合う地味な外套。脅しを一言も使わない柔らかい物腰。いつぞや一度だけこの砦の卓へ座った男の名が、街になろうとしている区画の宿帳にごく当たり前の一行として並んでいた。
ヴェッセン。
「卓の外がもう動いてるってことかね」
ベルダが低く言った。
卓の内では重さと中身の話がまだ一つも決まっていない。決まっていないその隙間の形を、卓の外の誰かはもう正確に測っているらしかった。




