第135話 人混みの下を手が回る
朝いちばんに上がってきたのはルカの回した一覧だった。
宿の帳面と受付の帳面で名の合わない者が十一人。ベルダが横に立って頁を追い、指を止めるたびに余白へ理由を書き足していく。
「これは字よ。書き役が耳で写したから字だけ違うの」
「これもですか」
「これもね。……九人まではそう。残りの二人は違う」
二人は同じ口入れの紹介で入っていた。宿では東の棟の名を告げ、受付では西の普請場で働くと告げている。どちらの紙にも嘘は書かれていない。二枚を並べたときにだけ立っている場所が合わなくなる。
「ずれてるだけじゃ止められないわよ」
「止めません。名を控えて、寝ている棟の親方に顔だけ覚えてもらってください」
「それだけ」
「それだけです」
ベルダが一覧を持って出ていってから、レインは自分が椅子から立っていないことに気づいた。先の月なら棟まで見に行っていた。
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昼前に事務の枠から届けが回ってきた。今夜、材木と瓦の荷が着くという。
「夜に荷が着くの」
ベルダは読み上げてから顔を上げた。
「普請の荷は昼に着くもんよ。夜に降ろせば人足の飯も灯りも余計にかかる。誰が得するのそれ」
「荷の話はバロスさんです」
「回してある。気に入らないから耳に入れとくだけ」
バロスは日の傾く前に戻ってきた。卓に着くなり指輪を親指でこすった。
「荷は本物だ。注文したのは西の普請場の親方で、紙も値も揃ってる」
「では何が」
「人だ」
太い指が二本立った。
「あの量の材木なら車は六台。降ろす人足は二十人で足りる。ついてきてるのが四十二人だ。残りの二十二人ぶんの手間賃を誰が持つ。親方じゃねえ。……荷の顔をした人が来てるのさ、管理人」
「止められますか」
「止められねえ。紙の揃った荷を夜だからで止めたら、明日から誰もこの街へ材木を出さねえよ」
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その晩、四つの光が卓に並んだ。
『東の口を通る予定の者は四十二です』
セレスが先に灯った。
『降ろしに要る手は二十前後。差の者が新区画の内側へ散ります。散ったあとは追えません。街の内側には数える場所がありません』
『辻に灯りを立てましょう』
ミストが広がった。
『夜を昼と同じ明るさにすれば隠れる場所が消えます』
「油が足りません。それに明るくすれば人は明るいところへ寄ります。暗い場所が減るのではなく、残った暗い場所が濃くなるだけです」
『ならば全ての口を閉じます』
ノアが硬く灯った。
『夜のあいだ人の移動を禁じ、朝まで棟から出しません』
「四十二人ぶんの荷が降ろせません」
『では、どうなさいます』
レインはガルムの走り書きへ手を置いた。土塁の切れ目に打たれた三つの丸。塞ぎかけの縁。骨組みの下の四十を超えた灯。
散った人の居場所が分からないことが困るのだ。ならば探す必要はない。
「退避の触れを回します」
光が四つとも止まった。
「有事の段取りは逃がすためだけのものではありません。全員が決められた場所へ集まって、そこで数えられる形をしています。……今夜は数えるために回します」
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卓に人を集めるまでに半刻もかからなかった。
「夜に人を動かせば怪我人が出ます」
エルメアが真っ先に言った。
「梯子も足場も出したままです。病んでいる者を暗い中で起こして歩かせれば、それだけで死ぬ者が出ます」
「動かさない棟を決めてください。そこはエルメアさんの領分です」
少しの間があった。
「療治小屋の二棟は動かしません。あそこを集まる先の一つにします」
言ってから、エルメアは短く付け足した。
「もう訊きませんよ。訊いている間に夜が明けます」
「私、新しい人たちが心配です」
リナが手を挙げた。
「みんな逃げる場所を知らないと思うんです。今日入った人なんて、自分の棟の名前も覚えてないと思います」
「だから今夜やります。知らないまま本当の日を迎えるほうが危ないです」
リナは口を開きかけて、閉じた。それから頷いた。
「私、東側の棟を回ります」
最後にガルムが腕を組んだまま言った。
「縁の頭数は減らす」
レインは息を一つ分だけ止めた。増やして退いた相手だ。減らせば来る。来られる場所が奥へ通じている。
「……縁はガルムさんが決めることです」
「案ずるな。薄く見せるのと薄いのは違う」
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触れは日が落ちて一刻の後に回った。
棟ごとに声が渡っていく。板を打つ音が新区画の端から端へ順に流れた。訓練を受けた古い利用者は迷わず動いた。新しく入った者は戸口で立ち止まり、隣の者の背を見てからついて行った。
レインは管理棟の窓辺にいた。降りて行きたくなる足を椅子に留めた。
最初に上がってきたのはリナだった。
「三つとも集まりました。東の集まり場だけ、みんな西へ行こうとしちゃって。石畳が西に伸びてるから、暗いとそっちが道に見えるんです」
「明日そこへ杭を打ちましょう」
「もう打ってあります。ガルムさんの人が縄を張ってくれたので、そこからは早かったです」
息を継いでから、リナは帳面を差し出した。
「数が合いません。十二人足りないです」
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十二は半刻で減っていった。
三人は窯場で夜通し火を見ていた。七人は遅れて着いた荷車の人足で、まだ東の口の外にいた。一人は耳の遠い老人で、触れに気づかず寝ていた。
残ったのが一人だった。
その一人の名は、朝の一覧で余白に理由の書けなかった二人のうちの片方だった。
「窓口にも来たわよ」
ベルダが管理棟へ上がってきた。
「集まり場が立ってる隙にね。暮らしの窓口に男が一人来て、先の卓で配った写しの残りが欲しいって。委員会の使いだと名乗ったの」
「渡しましたか」
「渡すわけないでしょ。……でもね、止めたのはあたしじゃないの。あの子よ」
ベルダは戸のほうを顎で示した。今月入れたばかりの若い書き役の娘が、卓の外で背筋を伸ばして立っていた。
「受け取る人の名を書いてくださいって言ったんですって。それだけ。名前を書けって言われたら、あの男、いいですと言って帰ったの」
『決める者の名を届けごとに書きます。誰が決めたかを残さない処理は認めません』
ノアの光が灯った。
『あの娘は、渡す側の名しか無い欄へ、受け取る側の名を足させました。……条項には書いていない足し方です。足しておきます』
「足してください」
『本日、奥に関わる紙は一枚も出ておりません。五つの条項はいずれも動いていません』
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ガルムが上がってきたのは、それから半刻ほど後だった。
「一人連れて出た」
卓に灯りを置いた。
「灯りを追ってきた。谷の刻の少し前に、下へ降りる灯りが通路の口へ入っていくのを、材木の陰から見てたんだろうよ。……追ってった先が古い水番小屋だ。行き止まりだぞ、あそこは」
「灯りを提げていたのは」
「俺の若いのだ。当番はとうに降ろしてある。日暮れのうちに降りて、暗いところで座って待たせた」
ガルムは灯りの芯を指で立て直した。
「灯りってのは、提げてる中身が何かまでは照らさねえ。あいつは灯りを見てたんで、人を見てなかった」
「手荒なことは」
「腕は掴んでねえ。道を教えて、退避線の外まで送っただけだ。名も歩いた道筋も控えてある。……向こうも逆らわなかった。逆らう筋の仕事じゃねえからな、下見ってのは」
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下からの札が上がってきたのは、夜が白み始めた頃だった。
弁を開いた幅。息を数えた回数。脈が戻るまでの間合い。昨夜と寸分違わない数字が並んでいる。裏にドルクの走り書きが一行あった。
今夜のはこいつが数えた。俺は横で聞いた。合ってる。
レインは札を裏返してもう一度読んだ。上では板が鳴り、四十二人が動き、集まり場に人が並んでいた。その足音は管を伝って下まで届いていたはずだった。それでも数字は動いていない。
昼前に降りると、ドルクは通路の口で腰を下ろしていた。
「うるさかったろうよ」
「申し訳ありません」
「詫びる話じゃねえ。……あいつは今夜、上の足音を数から除いた。管に響くもんと、川から来るもんを、耳が分けたってことだ」
老坑夫は膝を叩いて立ち上がった。
「四月目でそれができるとは思わなかった。……上が騒いだおかげだな。静かなところでいくら座らせても、こればっかりは覚えねえ」
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朝、集まり場は解かれた。
人的な損なわれはなかった。折れた足も一本もなかった。ベルダの帳面には四百を超える名が並び、そのすべてに昨夜どこにいたかが書き込まれている。街になってから初めて、この場所は一晩の全員の居所を紙の上に持った。
バロスが荷の車を見送ってから管理棟へ寄った。
「材木は本物だったよ。全部降ろして、値どおりに置いてった」
「二十二人は」
「朝には二十二人とも人足の面をして帰っていったさ。誰も咎められねえ」
指輪をこすってから、バロスは低く付け足した。
「あの男は昨夜、ずっと宿の親方と飲んでたぜ。表の卓でだ。うちの荷運びが二度見てる。……いちばん人の目のあるところに座ってたんだ、一晩中な」
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日が高くなる前に、委員会の事務を仲立ちする窓口から書き付けが届いた。
卓の日取りが一日早まっていた。そして議題が一つ増えていた。
――灰霧前砦における夜半の混乱について。
レインは紙を二度読んだ。触れを回したのは昨夜だ。解いたのは夜明けだ。領都までも王都までも、早馬で足りる隔たりではない。
「早すぎるでしょ、これ」
ベルダが後ろから覗き込んだ。
「誰が伝えたのよ。うちからは一枚も出してない」
「出す必要がありません。昨夜のことを見ていた人が卓に着くのですから」
レインは書き付けを卓へ置いた。
奥は破られなかった。紙も出ていない。人も損なわれていない。昨夜のすべてはこちらが凌いだ形をしている。それでも明日の卓では、こう読まれる。灰霧の街では夜半に人が走り、四百人が家を出た、と。
握る手は一組しかない、とあの男は言った。手を潰しに来たのではなかったのかもしれない。潰れかけているところを、卓の全員に見せに来ただけだ。
窓の外で、解かれたばかりの集まり場に朝の煙が上がり始めていた。




