第126話 二枚目の壁の奥
奥当番が初めて回った夜はよく晴れていた。
谷の刻は脈動がいちばん緩む頃合いを言う。腹の満ちた獣が寝返りを打つあの間延びした拍だ。その刻を狙ってドルクと若い作業員が二人縦坑を下りていった。レインも少し離れて後ろに立った。指図するためではない。回るところをこの目で一度見ておくためだった。
深層第一区画の機構の前で若者は膝をついて耳を澄ませた。夜通し弁の握りを握らされたあの当番だ。今夜は聴く側に回っている。
「ざらついてるか」
ドルクが低く訊いた。
「……分かりません」
若者は正直に答えた。
「分からねえなら通すな」
ドルクは事もなげに言い自分の耳を管へ寄せた。節くれだった指が三本目の弁へ伸びる。あの夜四半周だけ回した弁だ。
「今夜はほどけかけの手前だ。溜まりが濁る一歩前。……ここでひと息だけ垂らす」
弁が指の幅ほど動いた。桶を空けるのではない。細く垂らす。管の奥でざらついた水がすっと通っていく音がした。若者にはまだ聴き分けられない音を、ドルクの耳だけが拾っている。
「聴こえたか」
「……いいえ」
「半年だ」
ドルクは弁から手を離した。
「半年毎晩ここに座れば今の『いいえ』が『たぶん』になる。天才はいらねえ。要るのは毎晩の耳だけだ」
レインはその背中を後ろから見ていた。かつて深層へ下りる当番を勘の鋭い一人に背負わせないと決めたときと同じ光景だった。一人の耳が少しずつ砦の中へ移し替えられていく。派手なところは何ひとつない。
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地上へ戻ると、ベルダが受付の卓で台帳を開いて待っていた。
「回った?」
「回りました。今夜のところは」
「なら、これで三本目よ」
ベルダは台帳の余白を指で叩いた。深層へ下りる当番が一本。曝露を数える鈴が一本。そこへ奥のなだめ当番が一本。どれも終わりの日付のない列だった。
「隠さず書くのはいい。書いたところで、重いものは重いままだけどね」
「重いから書くんです」
レインは列を見下ろした。
「隠せば次の受付が知らずに潰れます。書けば少なくとも誰かが引き継げます。……問題は、これを外へどう伝えるかです」
ベルダの手が止まった。責任を分け合う話は暫定の合意までは漕ぎ着けている。固定費の一部は領が持つ。世話を負う者に運用の決めごとが伴う。だがその合意は、奥をなだめ続ける当番が増えることまでは勘定に入れていない。
「頼る手にも握る手にも言わなきゃならないわね。……重さがまた一段増えたって」
「言います。ですが」
レインは開示の棚の奥へ目をやった。
「奥の重さは伝えます。奥の中身は伝えません。……分けてほしいのは負担です。渡していいのは鈴の数と当番の頭数だけです。奥に何がいるか、それだけはこちらが握ります」
「矛盾してるわよ、それ」
ベルダは口の端を上げた。責める笑いではない。厄介ごとの形を正しく見抜いた者の笑いだった。
「重さは分けろ、中身は渡さねえ。……向こうが素直に呑むと思う?」
「思いません」
レインは正直に言った。矛盾はそのまま次の交渉の火種になる。だがその火種は今夜のうちには消せない。
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昼の上層はいつもの賑わいだった。
簡易市の炊き出しから湯気が上がり、荷捌き場では札を持つ者たちが列をなしていた。夜のうちに誰かが谷の刻に下りて細く弁を垂らしていたことなど、この明るさの中では誰も知らない。知らないままでいい。守れているうちはその必死は誰の目にも映らないほうがいい。
縦坑の口ではリナが夕方の締めの段取りをもう手元の帳面で回し始めていた。奥当番が下りる夜は上層の退避も早めに寄せる。命じられたからではなく夜に上を空ける仕事があると知っているから先に動いているだけだった。
その脇へ恰幅のいい影が寄ってきた。指輪の並んだ手で髭を撫でながらバロスが市を見渡している。
「レインさん。あんた、そろそろ困ることになるぜ」
「困りごとならいくつも抱えていますが」
「人が多すぎる」
バロスは列の伸びた荷捌き場を顎で指した。
「宿は埋まって、市はあふれて、荷は捌ききれてねえ。……この砦、もう砦の器じゃねえよ。前は野営地に毛が生えた程度だったのが今じゃ下手な町より人が動いてる。器を替える刻がそう遠くねえ」
「まだ砦です」
レインは静かに答えた。
「町を名乗れば町の重さを負います。今のうちにできることではありません。……ですが覚えておきます。器が足りなくなってきているというのは」
バロスは肩をすくめ、それ以上は言わなかった。商人の鼻が嗅ぎ当てた渇きを種として置いていっただけだった。奥に何かを寝かせた拠点のその真上で人の暮らしだけが器を押し広げようとしている。
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夜、卓が片づいて、灯りが一つ落ちた。
残った灯りの下で、四つの光が静かに揺れていた。
『前段の輪郭は掴めました』
ミストの光が抑えた調子で灯った。あの夜、盛らないと自分に誓った設計者の声だ。
『次はいつか本体です。何を寝かせているのか、なぜこれほどの設備で寝かせ続けねばならなかったのか。……それが分かれば、なだめ方ももっと確かにできます』
「いつか、な」
レインはその光を否定しなかった。ただその一言で先へは進ませなかった。
『これ以上は起こす側の線に触れます』
ノアの光が硬く灯る。今夜のそれは反対ではない。守るべき線を守るべき線として置き直す声だった。
『開けない。閉じない。細く通す。一点だけ覗く。言葉は握る。……五つの決まりは安全の基準として綴じました。当番が変わっても、この五行は変えません』
『読まなかった日の列も伸びています』
セレスの光が二つの列を並べて灯した。
『読まない、と決めた判断も記録の一部です。……方向として言えるのは、この施設が奥の何かを寝かせ続けるために造られた、ということだけ。何を寝かせているかは空欄のままです』
「それでいいんです」
レインは灯りの向こうへ目をやった。壁の向こうの何かの姿は見ていない。名も形も帳面の空欄のままだ。分かったのは、この途方もない仕組みが何のためにあったか――その方向だけだった。
守りきれる場所、とかつて自分たちは言った。守る範囲を決めて、その範囲を分担して守り続けられる場所のことだと。今夜その言葉は一段だけ意味を深めた。開けずに、なだめて、知る範囲を管理して、奥と長く付き合っていける場所。それがこの砦が新しく手に入れた形だった。
「触れる、というのは」
レインは誰へともなく低く言った。
「開けることではありませんでした。……開けずに付き合い方を決めて、なだめ続けられること。それだけで足ります。足りるうちは」
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台帳を閉じて、レインは最後の灯りを落とした。
境界の網は今夜も半拍ぶんはみ出しながら、止まる気配なく脈を刻んでいる。腹の満ちた獣の、寝返りの拍だ。付き合い方は決めた。だが付き合っている相手の顔を、灰霧はまだ一度も見ていない。見てはいけないと分かっただけだった。
壁の向こうの何かが何なのか。なぜ古代の人々がこれほどの設備を組んでまでそれを寝かせ続け、なぜ寝かせ続けたはずのこの施設を最後には捨てて去ったのか。その霧はまだ晴れない。
増えた固定費を頼る手と握る手とでどう分け直すのか。重さは渡して、中身は握る――その矛盾を、外がいつまで黙って呑むのか。
そして外のどこか遠い懐が、こちらとは別の耳で同じ壁の向こうを聴いている。奥を寝かせておくと決めた灰霧と、奥を掘り起こしたい誰か。値のつき方だけがそこにいると告げる、商いですらない何かの手。その手が次に伸びてくるとき、この砦は砦の器のままでいられるのか。
レインは暗くなった卓の隅を一度だけ見た。それから灯りのない部屋を出た。
脈は止まらない。だが今夜は細く通してある。明日の谷の刻にも、誰かが下りて音を聴き、ひと息ぶんを垂らすだろう。終わりの日付のない、その世話の向こうに――まだ見ぬ何かと、まだ来ぬ誰かの気配が静かに横たわっていた。




