第125話 覗き方を決めておく
奥が鎮まって、五日が過ぎた。
境界の網は落ち着いていた。相変わらず半拍ぶんはみ出しはするものの、あの夜のような跳ねはない。腹の満ちた獣が寝床で寝返りを打つ、その程度の脈だ。セレスの列にも、赤い数字は戻ってこない。
卓に集まった顔は、どこか緩んでいた。危機が去ったあとの、力の抜けた静けさだった。
「もう、元どおりでよさそうですね」
当番の若い作業員が、誰へともなく言った。悪気のない言葉だった。夜通し弁の握りを握らされた本人だ。
「境界で数えて、いつもの刻に光石が灯る。……それを見張ってれば、当分は」
「元どおりには、しません」
レインは静かに遮った。
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言い方が硬すぎたかもしれない、とレインは思い直した。若者が悪いのではない。灯りの下で、レインは奥の機構の図をもう一度広げた。
「元どおり、というのは、あの夜の前へ戻すことです。あの夜の前、奥は境界の外で勝手に滞って、勝手に跳ねました。……私たちは、跳ねてから慌てて上を空けました。もう一度あれをやるなら、次は間に合うとは限りません」
『滞る前に通す、ということですね』
セレスの光が灯った。
『手入れの記録を見るかぎり、流れを絞ってから二日か三日で跳ねます。跳ねてから動くのでは遅い。跳ねる前、滞りが溜まりかけた頃を狙って、先にひと息通す。……そう組めば、あの夜のように上層を赤へ差し出さずに済みます』
「それを、決まりにします」
レインは図の弁の一点を、指の背で軽く叩いた。あの夜、四半周だけ回した三本目の弁だ。
「一度うまくいったから終わり、ではありません。奥は満ちればまた減ります。減れば滞ります。……この砦がある限り、誰かが谷の刻に下りて、音を聴いて、ひと息ぶん通す。それを続けます」
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『では、続けるための決まりを、私が明文にします』
ノアの光が硬く灯った。厳しい声だが、今夜のそれは反対ではない。決めるべきことを決めろ、という声だった。
『一つ。奥の壁は、開けません。覗き穴を広げることも含みます。二つ。奥を、力で閉じることもしません。緩衝を厚くして押さえ込むのは、あの夜、持たないと分かりました』
「三つ目を」
『三つ。滞りは、こちらの側の弁で最小限だけ通す。桶を空けるのではなく、細く垂らす。……四つ。覗くときは一点のみ。退避線を必ず添え、読み取りは境界で止める。奥そのものは、読みません』
「五つ目は、私が言います」
レインはノアの列に一行を足すように言った。
「奥に関わる言葉は、灰霧が握ります。中枢の制御、退避の判断、地下への立入。……あの三つと同じ棚に、奥のことを記した紙を綴じます。誰の目まで届かせるかを、こちらが決めます」
五つの決まりが、灯りの下に並んだ。開けない。閉じない。細く通す。一点だけ覗く。言葉は握る。派手なところは一つもない。守れるものだけを、守れる形で並べた五行だった。
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「決まりはいい。だがな、坊主」
それまで卓の端で目を閉じていたドルクが、口を開いた。
「その『音を聴いて通す』ってのを、いったい誰がやるんだ」
卓が、わずかに静まった。
あの夜、濁った水が動き出す音を聴き分けたのはドルク一人だった。ざらついたものが、すっと通る。通ったら止めろ――そう言えるのは、この砦でこの老坑夫だけだ。
「あんただけです。今は」
レインは正直に答えた。
「だから、決まりにはできても、当番にはまだできません。あなたが下りられない日が来たら、その日は誰も音を聴けない。……聴けないまま弁を回せば、あの夜、私が回しかけて止められたのと同じことを、止める者なしにやります」
「なら、教えるしかねえな」
ドルクは事もなげに言った。
「川の世話に、天才はいらねえ。要るのは、毎日聴いてる耳だけだ。……こいつと、あと二人ばかり、谷の刻に俺の横に座らせろ。半年もすりゃ、ざらつきと、ほどけかけの違いくらいは分かるようになる。俺みてえには聴けねえ。だが、俺一人が倒れて全部止まるよりゃ、よっぽどましだ」
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教える側に回る、と聞いて、若い作業員が身を固くした。ドルクはその肩を、節くれだった手で軽く叩いた。
「怖がるな。分からねえ夜は、分からねえと言えばいい。……分からねえのに分かったふりをして回す、それだけが罪だ」
レインは、この光景に見覚えがあった。かつて深層へ下りる当番を、勘の鋭い一人に背負わせない、と決めたときと同じ形だ。記録の付け方をそろえ、聴ける者を少しずつ増やし、一人が倒れた日にも回るようにする。ドルクの耳は、いま同じやり方で、少しずつ砦の中へ移し替えられようとしていた。
「エルメア。当番が増えるなら、鈴も増えます」
「もう数え直しました」
衛生を預かる女は、帳面から顔も上げずに答えた。
「奥に近い刻に下りる者は、境界の当番より曝露が重いのよ。同じ列には綴じない。……『奥当番』として別の列を立てて、一人あたりの下りる回数を、境界の当番より少なく切ります。二人で回すつもりでいたけど、三人にして。一人が休める余地を、初めから帳面に残しておくの」
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昼過ぎ、ベルダが受付から台帳を運んできた。
「その『奥当番』、固定費のほうにも書くわよ」
「ええ」
「深層へ下りる当番が一つ。曝露を数える鈴が一つ。……そこへ、奥のなだめ当番が一つ。ぜんぶ、終わりの日付のない列よ」
ベルダは台帳の余白に、三つ目の列の見出しを引いた。抱えたものを隠さずに書く、というのは、この砦がずいぶん前に決めた作法だった。
「これで、あなたが倒れても、次の受付が『こんな費用があったなんて』と青くなることはない。……重いけど、隠すよりましでしょ」
「ましです」
レインは台帳の新しい列を見た。列は増える一方で、減った試しがない。それでも、増えた分を帳面に書いてある拠点は、書いていない拠点より、まだ倒れにくい。
縦坑の口では、リナが夕方の締めを回していた。奥当番が谷の刻に下りる夜は、上層の退避も早めに寄せることになる。その段取りを、いつのまにか彼女が回す側に立って捌いていた。誰かに命じられたのではない。夜に上を空ける仕事があると分かっているから、先に動いているだけだった。
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卓が片づいた夜、セレスの光が、二つの列を並べて灯した。
『読まなかった日の列と、通した日の列です』
あの夜以来、二つの列は隣り合って伸びている。読まない、と決めた日の記録と、細く通した日の記録。
『この二つを並べて見ていて、一つ、方向として言えることがあります。……深層第一区画の機構は、私たちがずっと世話をしてきた管と炉と循環路は、それ自体が目的ではありませんでした。奥の何かへ、絶えず流れを配り続けるための、前段の設備です』
「前段」
『本体は、壁の向こうにあります。機構は、その本体が滞って目を覚まさないよう、循環を回し続けるためのものでした。……上層の異常も、緩衝も、あの夜のなだめも、突き詰めれば全部、奥の何かを寝かせ続けるための世話の一部です。この施設はもともと、そのために造られたのです』
レインは、灯りの向こうへ目をやった。壁の向こうの何かの、姿は見ていない。名も形も、帳面の空欄のままだ。分かったのは、この巨大な施設が何のためにあったか、その方向だけだった。眠らせ続けるための、途方もなく大きな世話の仕組み。
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『ならば、いっそ本体を見ましょう』
ミストの光が、抑えた調子で灯った。あの夜、盛らないと自分に誓った設計者の声だ。それでも、未練は消えていなかった。
『前段の輪郭は掴めました。次は本体です。何を寝かせているのか、なぜこれほどの設備で寝かせ続けねばならなかったのか。……それが分かれば、なだめ方も、もっと確かなものにできるはずです。いつかは、奥を全部見たいのです』
「いつか、な」
レインは、ミストの光を否定しなかった。ただ、その一言で先へ進ませなかった。
「見た瞬間、向こうも見てきます。あの夜、ドルクが言いました。ひと息で満たそうとすれば、満ちる前に波が立つと。……知ることも同じです。全部を知ろうとひと息に覗けば、知り終える前に、奥が目を覚まします。今の私たちに、それを受け止める緩衝はありません」
『では、いつまで待つのですか』
「分かりません」
レインは正直に言った。
「分からないから、宿題にします。……付き合い方は、今夜決まりました。開けずに、閉じずに、細く通して、なだめ続ける。それができるうちは、奥の何かを、無理に暴きに行きません。暴かなくても、寝かせておける。それで足りるうちは、それで足ります」
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台帳を閉じて、レインは灯りを一つ落とした。
覗き方は、決まった。奥は、開ける相手でも、閉じる相手でもない。細く通して、なだめ続ける相手だ。そのための当番が増え、鈴が増え、聴ける耳が少しずつ育ち、固定費の列がまた一本伸びた。派手な勝利は一つもない。だが、この砦は今夜、奥と長く付き合っていくための作法を、たしかに一つ手に入れた。
それでも、と、レインは暗くなった卓の隅を見た。
壁の向こうの何かが、何なのかは分からない。なぜ古代の人々が、これほどの設備を組んでまでそれを寝かせ続けたのかも、なぜ寝かせ続けたはずのこの施設を、最後には捨てて去ったのかも――霧の向こうのままだった。付き合い方は決めた。だが、付き合っている相手の顔を、灰霧はまだ一度も見ていない。
境界の網が、今夜も半拍ぶんはみ出しながら脈を刻む。その脈の向こうで、外のどこか遠い懐が、こちらとは別の耳を澄ませている。奥を寝かせておくと決めた灰霧と、奥を掘り起こしたい誰か。同じ壁の向こうを、二つの耳が、別々の望みで聴いていた。




