第127話 砦の器が軋む
夜明け前の谷の刻に、その夜も誰かが縦坑を下りていった。
当番の若者はもう一人で歩けるようになっていた。深層第一区画の機構の前で膝をつき管へ耳を寄せる。溜まりの濁る一歩手前をじっと待った。今夜のドルクは後ろに立っているだけだ。若者の指が三本目の弁へ伸びて指の幅ほど動いた。ざらついた水がすっと通っていく音を老人は目を閉じて確かめた。
「聴こえたか」
「……たぶん」
若者の答えは半年前の「いいえ」から一つだけ前へ進んでいた。ドルクは何も言わずに頷いた。地の底で回っている必死は今夜も派手なところが何ひとつない。誰にも見えず誰にも褒められず、ただ毎晩そこにあるだけの世話だった。
その真上で砦は目を覚ましつつあった。
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地上へ戻ったレインが見たのは、まだ日も昇らないうちから膨れ上がった人の群れだった。
荷捌き場の前では札を持つ者の列が壁沿いに折れ曲がっていた。後ろのほうは門の外へまではみ出している。簡易市は割り当てた区画をとうに越えて通路へせり出し、露店の布が退避線の白い印を半分覆っていた。宿舎区画の脇では宿に入れなかった者たちが荷袋を枕にして地面に転がっている。炊事の煙があちこちから細く立って、朝の冷えた空気に脂の匂いが混じっていた。まだ暗いうちから水を汲む桶の音と、子どもの泣き声と、荷を負う男たちのだみ声が、砦の狭い喉のなかで一斉に鳴っていた。
人が戻ってきた。かつて誰も寄りつかなかった廃迷宮に、今では下手な町より多くの人が動いている。それ自体は一年前なら泣きたいほどの光景だったはずだ。
だがレインの目には賑わいの下でひび割れていく何かが見えていた。
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受付の卓では、ベルダが台帳を三冊も開いて額を押さえていた。
「あなた、ちょうどいいところに来たわ」
顔も上げずにベルダが言った。指が宿舎の割当表を叩く。
「宿はひと月先まで埋まってる。荷捌きの札は昨日ぶんが半分しか捌けてない。市の区画料はもう誰がどこを使ってるか台帳が追いつかないの。……人手が足りないんじゃないのよ。足しても足しても、足した人の寝る場所と食う場所と用を足す場所が先に無くなる」
「増やした人手が、次の負荷になっているんですね」
「そういうこと」
ベルダは三冊目を閉じて卓の端へ寄せた。
「この台帳はね、砦に何人詰めるかを数えるために作ったの。何人が暮らすかを数えるようにはできてないのよ。詰める人間は日が暮れれば減る。暮らす人間は日が暮れても減らない。……そこがまるきり違うの」
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衛生棟から回ってきたエルメアは、開口一番に顔をしかめていた。
「野宿の火が近すぎます。炊事の水を汲む場所と、用を足しに行く場所が、もう混ざり始めています」
「便所が追いついていないと」
「掘っても掘っても足りません。人が地面で寝てそこで煮炊きをして、すぐ脇で用を足す。賑わいというのは放っておけばそのまま腐敗です」
エルメアの声は淡々としていたが、その淡々が一番重かった。腐れ谷へ落とす排水はかつて衛生の危機を一度しのいだ仕組みだ。だがそれは砦に暮らす人数を前提に組んである。想定の外から人が流れ込めば、組んだ仕組みのほうが先に溢れる。数を超えた賑わいは、水と汚れの境目からまず崩れていく。
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昼になると、ガルムが渋い顔で降りてきた。
「壁の外に居ついた連中と、中の常連が揉めてる」
ガルムは顎で門の方角を指した。
「食い詰めて流れてきた者が壁沿いに小屋を掛け始めた。火を焚く。荷を積む。だがそこは区画でも何でもねえ。誰の目も届かねえ場所に人が住み着いてる。……昨夜そこの一角でぼやが出た。火の始末を叱ろうにも、そもそも誰がそこにいるのか俺たちの帳面に載ってねえ」
「区画の外は、守る線の外だと」
「守れねえ線に人がいる。それが一番まずい」
ガルムの言葉は短かったが、現場を見てきた者の重みがあった。守る範囲を絞って分担して守る――そう決めた拠点の、その範囲の外側で、人が勝手に暮らし始めている。守ると決めた縁の外へ、暮らしのほうがはみ出していた。
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夜、卓が片づいたあとで四つの光が灯った。
『流入を絞ればいい話です』
ノアの光が硬く灯った。
『許可を得た者だけを入れる。名簿にない者は門で止める。区画の外に住む者は退去させる。それで秩序は戻ります』
「戻りますが、砦が枯れます」
レインは静かに首を振った。
「門を閉めれば市の銭も職人の腕も荷の流れも一緒に止まります。前にそれは学びました。生業を殺して守った秩序は、守るものが無くなった秩序です」
『では数字で線を引きましょう』
セレスの光が二つの列を並べた。
『一日に受け入れられる上限を割り出せます。宿の空きと便所の数と水の量から、砦が抱えられる頭数はこれです』
「その数字には、名簿に載らない者の不安が入っていません」
レインはセレスの列をそのまま採らなかった。数の上で正しくても、締め出された者が壁の外に居つけば結局その負荷は帳面の外で膨らむ。数字で押し切れば押し出された分が見えない場所へ回るだけだ。
『いっそ町の図面を引きましょう』
ミストの光が勢いよく灯った。
『石畳を敷いて区画を切り、立派な通りを一気に――』
「一気には出せません」
レインはそれも止めた。ミストの熱は分かる。だが土台を敷くところまでしか権限は届かない。その先を魔法で建てて維持しようとすれば、地の底のなだめに回すぶんの力まで食い潰す。街を出力した夜に奥が目を覚ます。
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四つの光が沈黙したあと、レインはしばらく暗い卓を見ていた。
継ぎ足しでは持たない。便所を掘り足しても宿を建て増しても札の窓口を増やしても、足した先から次の不足が湧く。これは足りない設備を継ぎ足す話ではなかった。
「器そのものが、砦のままだから軋むんです」
レインは誰へともなく低く言った。
砦は守るための器だ。人が詰めて守ってまた散っていく。だが今この場所に起きているのは、人が暮らし始めるという別のことだった。暮らす人を砦の器で受け止めようとするから、あらゆる継ぎ目が悲鳴を上げている。器を替えるしかない。砦から、人が暮らす町の器へ。
バロスが商人の鼻で嗅ぎ当てた渇きは正しかった。もう砦の器じゃない――あの一言を、レインはもう保留し続けられなかった。第一層を直した頃には、こんな重さを背負う日が来るとは思っていなかった。
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だが器を替えるとは、賑わいを手に入れることだけではない。
レインは開示の棚の奥へ目をやった。台帳には終わりの日付のない列が三本並んでいる。深層へ下りる当番。曝露を数える鈴。そして奥のなだめ当番。
町にすれば治安も衛生も水も、みな町の規模で膨れる。そしてその膨れた重さの一番底に、街の賑わいがどれだけ大きくなろうと決して消えない列がある。谷の刻に誰かが下りて弁を細く垂らす、あの必死だ。
器を大きくするなら賑わいだけでなく、その見えない重さまで町ぐるみで背負うことになる。今の暫定の分け方は、なだめ当番が増えたことすら勘定に入れていない。賑わいの数だけを数えて、その底で回り続ける世話を数えていない帳面だった。
「継ぎ足しでは持ちません。器を替える検討に入ります」
レインは卓を片づけながら、明日ベルダとバロスへ告げる言葉を胸のうちで決めた。それは一年かけて我慢してきた報酬への一歩であり、同時に、これまでで一番重い荷を担ぐという宣言でもあった。
地の底ではその夜も脈が細く通してある。腹の満ちた獣の、寝返りの拍だ。街の器がどれだけ大きくなろうと、この世話に終わりの日付はつかない。
賑わいを町ぐるみで抱えるなら、この終わらない世話もまた町ぐるみで背負わねばならない。それを誰と、どこまで分けるのか。器を替える前に決めておかねばならないことが一つ、暗い卓の上に残されていた。




