第120話 読むほど向こうも動く
谷がずれているかどうかを確かめる方法は一つしかなかった。
もう一度覗くことだ。
『四つでは足りません』
朝の卓で、セレスの光は昨夜と同じ場所に灯っていた。
『覗いた翌日にずれ、覗かない日はずれない。四つの点がそう並んでいるだけです。あと四度覗けば八つになります。八つ揃えば、これが癖なのか偶然なのかを申し上げられます』
『確かめるために覗くのですか』
ノアの光が硬く差し込んだ。
『あなたが確かめたいのは「覗くと向こうが動く」ことです。それを確かめるために覗く。……確かめたい当のものを、自分の手で四つ増やす手続きです。減点です』
『では、どうやって確かめるのですか』
『確かめずに、あるものとして扱えばよろしい』
レインは二つの光の間で黙っていた。
黙りながら、自分の頭がセレスの側に立ちかけているのに気づいた。八つ。あと四度。四度なら払える。払えば分かる。分かれば手が打てる――そこまで並べて、レインは指を止めた。
その並べ方に、覚えがあった。
深層第一区画を初めて読んだ日、レインは同じ順序で自分を説き伏せていた。もう少し読めば全部分かる。全部分かれば安全にできる。あのときは、その先に終わらない支払いが待っていただけだった。
今度は支払いだけでは済まない。
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五度目の覗きは、その日の午後の谷に当てた。
下りたのは当番の若い作業員で、レインは締めの手前に立った。ガルムが背を向けて足場の後ろに構え、エルメアが締めの外で鈴の紐を握っている。取り決めどおりだ。自分が下りない、という取り決めもその一つだった。
結晶が据えられ、セレスの光が細く灯った。
『読んでいます。管の束――本数を数えます。一、二、』
言葉が途切れた。
『レイン』
「どうしました」
『返ってきました』
レインは締めの縁へ半歩出た。ガルムの背が動いてそれを塞いだ。
『こちらが数え始めた拍に合わせて、奥の脈が一度だけ返っています。……申し上げ方を選びます。奥の拍がこちらの読みの拍と重なりました。一拍だけです。偶然と申し上げるべき数です』
鈴が鳴った。
当番の若者は迷わなかった。灯りを落とし、まっすぐ後ろへ下がり、締めをくぐって戻ってくる。訓練どおりの、何ということもない三歩だった。
レインはその三歩を見ながら、自分がそこに立っていなくてよかったと思った。自分なら、あと一拍だけ聞いていた。
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卓へ呼ばれたドルクは、話を最後まで聞かずに顔をしかめた。
「返ってきたって言ったな」
「一拍だけです」
「一拍で充分だろうが」
老坑夫は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「淵を覗くってのはな。水に顔を映すってことだ。こっちが覗き込みゃ、向こうにもこっちの顔が映る。映ったもんは向こうから見える。……返ってきたんなら、そりゃもう映ってんだよ」
「見られている、ということですか」
「見てるかどうかは知らん」
ドルクは卓の縁を指の背で二度叩いた。
「だが数えてはいる。溜まりってのは頭がなくても数えるんだ。同じ刻に同じ手で同じとこを突かれりゃ、水面が覚える。覚えた水は、次に突かれる前に動くようになる」
「谷がずれたのは、それですか」
「そうは言わねえ。わしは水番だ。水の癖しか言えねえ」
ドルクは立ち上がった。出ていきしなに、振り返らずに付け足した。
「ただな、管理者さん。今のあんたら、突くたんびに向こうへ拍子を教えてやってる」
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その夜、レインは一人で地下へ下りた。
次の谷は明け方だ。それまでに帳面を締めるつもりだった。締めながら、指が勝手に動いた。あと三度読めば束の本数が出る。本数が出れば太さが推せる。太さが推せれば、奥が求めている量が数で出る。量が出れば、なだめる算段が立つ。
なだめる算段。
それは正しい理屈だった。正しい理屈だから怖かった。
気づけばレインは締めを一つくぐっていた。手には中継結晶の予備がある。二つ目をくぐれば足場だ。谷までは、まだ少しある。
足場の手前で、ノアの光が灯った。
『レイン』
「……起きていましたか」
『中枢の制御はあなたが握っています。あなたが動けば、私はどこにいても灯ります』
光は硬いまま、それ以上近づかなかった。
『申し上げます。あなたが今から読もうとしている一度は、これまでの五度と性質が違います。谷の刻に当てていない。当番の紙に載っていない。鈴もありません。……あなたが決めた覗き方の、どれ一つ守っていません』
「一度だけです」
『五度目もそう聞きました』
レインは足場の縁を見た。暗がりの向こうに、据えたままの結晶が微かに灯っている。あの一点へ手を伸ばせば、あと一段だけ読める。
『これ以上は起動条件に触れます』
ノアの声は減点の口調ではなかった。
『根拠を申し上げます。奥は、こちらの流れが細るだけで数日後に荒れます。こちらの読みの拍に一度返しました。翌日の谷を四度動かしました。……これらは全て、向こうがこちらの手つきを拾っているという意味です。拾える相手に、これ以上手を伸ばすのは、触れるではありません。起こすです』
レインは長く息を吐いた。
結晶へ伸ばしかけていた腕を、下ろした。
「……ノア」
『はい』
「止めてくれて、助かりました」
『止めたのはあなたです』
ノアの光がわずかに揺れた。
『私が灯る前に、あなたは足場の手前で立ち止まっていました』
レインは締めのほうへ足を向けた。
『ですが、記録します。当番の紙にない立入が一件。……止まった旨も添えます』
「……お願いします」
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翌朝の卓で、レインは告げた。
「奥を読むのは、今日でやめます」
ミストの光が跳ねた。ルカの光が『えっ』と短く鳴った。セレスの光だけが動かなかった。
『いちばんの見せ場を、見ずに畳むんですか』
「結晶は据えたままにします。引き上げません。……ただし、これから当番がそこでするのは、読むことではありません。数えることです」
『違いが分かりません』
セレスが言った。
「払う額が違います」
レインは帳面を開いた。
「読むというのは、中枢から持ち出して奥の形を解くことです。境界の二十倍。しかも向こうが拍子を覚える。……数えるというのは、耳を当てて拍を書きつけるだけです。持ち出しはほとんど要りません。手つきも残りません」
『数えたところで、輪郭は一つも増えません』
「増えなくていいんです」
レインはセレスの光を見た。
「私たちが奥から知りたかったのは、本当は形ではありませんでした。……奥が循環を求めていて、滞ると荒れる。知りたかったのはそれだけです。それはもう知っています。あとは、いつ滞りかけているかが分かればいい。滞りかけは拍に出ます。拍は数えれば足ります」
卓の光がしばらく黙っていた。
『……つまり』
セレスの光が、ゆっくりと灯り直した。
『奥は分析の対象から外し、監視の対象として残す、と』
「そうです」
『レイン。私は分析の精霊です』
「知っています」
『分からないものを分からないまま置くのは、私の役割の放棄です』
「放棄ではありません。宿題です」
レインは帳面の空欄の頁を開いて見せた。壁の向こうの何か――その一行の下に、何も書かれていない白がある。
「いつか埋める頁です。ただし、今日ではありません。……セレス。今日から帳面に一列足してください。『読まなかった日』の列です」
『読まなかった日を、記録するのですか』
「記録します。何日読まずにいて、その間に谷がどう動いたか。読まない日が積み上がれば、それも点になります。……読まない判断も、あなたのぶんのデータです。ただし、こちらが一文字も払わずに取れるデータです」
セレスの光は長く沈黙した。
『……不本意です』
「ええ」
『ですが、記録します。不本意である旨も、列の脇に書き添えることを認めていただけますか』
「認めます」
レインは少しだけ笑った。
「そこまで書いてあれば、いつか読む日が来たとき、誰が何を我慢したかも残ります」
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線引きの後始末を引き受けたのは、この日もベルダだった。
受付の卓には、奥に関わる控えを抜き出した束が積まれている。ベルダはそこへ、この数日で新しく綴じた紙を重ねていた。前段と本体。配る管と、集める管。灰霧がずっと、いちばん外側の当番をしていたということ。
「これがいちばん厄介ですよ、レイン」
ベルダは紙の角を揃えながら言った。
「奥が『ある』ってだけの噂には、まだ値の限りがある。誰も中身を知らないんだからね。……でもうちは今、中身の一歩手前まで知っちまった。知ってる側から漏れる一言は、知らない側の百枚より高く売れます」
「棚を分けてください」
「もう分けました。奥の帳面は、地下の卓から上へ出しません。写しも取らせません」
ベルダはそこで顔を上げた。
「それと、もう一つ。うちの人間に口止めはしません」
「しないんですか」
「口止めってのは、話しちゃいけないことがあるって教えることでしょう」
ベルダはこともなげに言った。
「奥の話を知ってる者を増やさなきゃいい。知らなきゃ漏らせない。……卓に呼ぶ顔を減らしましょう、レイン。あんたが一人で抱えるって意味じゃないですよ。抱える人数を、こっちで決めるって意味です」
レインは頷いた。守るものの一覧に、また一つ書き足すことになる。人と、拠点と、緩衝と、奥そのものと、奥を知られすぎないことと――知る範囲そのもの。
覗き方を決めるというのは、結局そこまで含んだ話だった。どこまで覗くかを決め、そこで止まれる仕組みを作り、止まったことを記録し、止まって得たものを外へ出さない。全部を知ろうとしないための段取りを、自分たちの好奇心へ向けて敷く。
剣を置くより、よほど手のかかる守りだった。
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その日の夕、ガルムが管理棟へ上がってきた。
外套の肩が濡れている。奥へ通じる経路の見回りから、そのまま来たらしい。
「増えてる」
「何がですか」
「人だ」
ガルムは椀の湯を一息にあおった。
「締めの外だ。認証の要らねえ手前の道に、この三日で顔の知らねえのが幾人か張りついてる。採集の札は持ってる。持ってるが、採ってねえ。ただ、こっちの当番が下りる刻を見てやがる」
レインは指を組んだ。
こちらは今日、読むのをやめた。手を止めた。もう向こうを突かないと決めた。
その同じ日に。
「もう一つあるんですよ」
ベルダが受付の卓から一枚の書き付けを持ってきた。委員会の事務を仲立ちする、あの窓口の印が押されている。ベルダの顔つきが硬い。
「うちへの申し入れじゃありません。……写しです。委員会へ出された申し入れの写し。奥の調査枠を設けたい、って願い出が、うちの頭越しに卓へ乗ってます。出した名前はヴェッセン」
「調査枠、ですか」
「ええ。しかも、うちが『現地の負担を理由に奥へ触れられずにいる』から、代わりに専門の手を入れるべきだ――そういう筋書きになってます」
レインは書き付けを灯りにかざした。
こちらが読むのをやめた理由は、負担ではない。起こさないためだ。だがその区別は、卓の外からは見分けがつかない。手を止めた者は、外からは、手が足りない者に見える。
止めた手の分だけ、外の手が伸びる余地ができた。
「ガルム」
「おう」
「締めの見張りを、もう一段厚くしてください。……どうやら、こちらが覗くのをやめたことを、向こうも数えていたようです」




