第121話 外の手が奥を掴もうとする
締めの見張りを厚くした翌朝、ガルムが管理棟へ上がってきた。
外套の裾に土がこびりついている。夜通し経路に立っていた顔だった。
「夜のうちに一人、締めへ手をかけた」
「認証は」
「持ってねえ。採集の札だけだ」
ガルムは椀を受け取らずに立ったまま言った。
「締めの手前で止めた。腕をねじ上げもしねえ。ただ、退避線の外まで送って、その札が二度と門を通らねえようにして帰した。……本気で抜ける気はねえのさ。抜けるつもりなら夜中に一人で来るかよ。あれは、どこまで近づけるかを測りに来た手だ」
測りに来た。レインは指を組んだ。こちらが読むのをやめて三日。手を止めたその隙間へ、向こうの手が一本ずつ伸びてきている。
「討たずに退けてくれて、助かりました」
「討ちゃ、向こうに口実をやる」
ガルムは鼻を鳴らした。
「灰霧は現地の人間を痛めつける、ってな。……そういう絵を欲しがってる筋がいる。だから触らねえ。ただ、通さねえ」
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その手の本体は、昼過ぎに正面から訪れた。
ヴェッセンだった。前に来たときと同じ、旅塵のついた地味な外套。物腰も同じく柔らかい。ただ今日は、一枚の書き付けを卓の上へ滑らせてきた。委員会の印が押されている。
「先に、事務の枠へ通させていただきました」
ヴェッセンは詫びるように言った。
「頭越しのようで心苦しい。ですが、灰霧殿を責めるための枠ではありません。……むしろ、灰霧殿を助けるための枠です」
「助ける」
「奥へ、手が回っておられないでしょう」
男は静かに笑った。
「奥に価値があると、灰霧殿ご自身が誰より分かっておられる。それなのに、現地の負担で奥へ触れられずにいる。当番一人下ろすのがやっと。……ならば、中央の専門の手を入れて、正しく確かめ、正しく扱う。貴重な古代の機能を寝かせておくのは、灰霧殿のためにも、国のためにもならない」
「奥に何があるか、まだ確かめてもいません」
「だからこその調査です」
ヴェッセンは即座に返した。
「確かめもせず抱えているのは、失礼ながら、灰霧殿の手に余っている証です。手に余るものは、余らぬ者へ委ねる。……どこも、そうして回っているでしょう」
レインはすぐには答えなかった。
こちらが手を止めたのは、負担ではない。奥を起こさないためだ。だがその区別は、卓の外からは見えない。手を止めた者は、外からは、手が足りない者に映る。止めた手の分だけ、外の手の言い分が立ってしまう。
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「一つ、うかがいます」
レインは湯を一口すすってから、静かに口を開いた。
「あなたは奥を『扱う』と言いました。……扱うというのは、開けて確かめるということですか」
「他に、どう扱えと」
「開けたら、起きます」
ヴェッセンの笑みが、わずかに止まった。
「奥は、こちらの手つきを拾う相手です。流れがほんの少し細るだけで、数日おいて荒れる。覗けば、覗いた分だけこちらを数え返してくる。……扱う、という言葉が通じない相手なんです。開ける、確かめる、管理する。そのどれもが、向こうを起こす手つきになります」
「脅しですか」
「事実です」
レインは帳面を開かなかった。開いて見せれば、その一枚がまた外へ滲む。
「私たちは、その手つきを覚えるのに三日かけて、覚えた末に手を止めました。……あなたの専門の手は、そこから始めるんですか。それとも、いきなり開けるところから始めるんですか」
ヴェッセンは答えなかった。答えないことが、答えだった。奥が危うい相手だということを、この男は知らないのではない。知っていて、扱えば従うものだと思っている。開ければ起きる、を、値踏みの側へ数え損ねている。
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卓の脇から、ベルダが一冊の綴じを持ってきた。
「先に、こちらを見ていただけますか」
差し出したのは、責任を分け合う取り決めを交わしたときの控えだった。ベルダは受付を長く預かってきた者の落ち着いた指で、一つの条を開いて見せた。
「地下への立入の基準を、誰が決めるか。……ここに書いてあります。中枢の制御、退避の判じ、地下への立入。この三つは、分担の卓には載せない。頼る側も、握る側も、手をつけない。取り決めのとき、そう決めて、双方が印を押しました」
ベルダは綴じの端を、こつ、と叩いた。
「奥への立入は、地下への立入の内側です。つまり、運用権をどう分けるかの話じゃない。分けない、と先に決めた話のほうに入ってます。……調査枠がどこの卓に乗ろうと、この一条をまたぐ枠は、そもそも卓に乗せられません」
「暫定の合意でしょう」
ヴェッセンは食い下がった。
「継続交渉の前提だと、そちらの控えにも書いてあります。暫定なら、動きます」
「暫定なのは、固定費を誰がどれだけ負うかです」
レインが引き取った。
「三つの譲れないものは、暫定ではありません。世話を負う者に決定権が伴う。それだけは、動かさないと決めた土台です。……土台まで暫定にしたら、その上の何ひとつ立ちません」
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『申し添えます』
卓の隅で、ノアの光が硬く灯った。ヴェッセンには聞こえない。レインの側にだけ届く声だった。
『地下への立入基準は、灰霧が握る三つ目です。この線を交渉の対象にした瞬間、他の二つも交渉の対象になります。中枢の制御も、退避の判じも。……この一本は、最後まで動かしてはなりません。減点ではなく、これは土台の話です』
「分かっています」
レインは声に出さず頷いた。
ヴェッセンは長く粘らなかった。粘れば粘るほど、こちらの控えの一条が固く見えると悟ったらしい。男は書き付けを引き取り、丁寧に一礼して腰を上げた。
「今日のところは、下がります」
去りしなに、ヴェッセンは振り返らずに付け足した。
「ですが、灰霧殿。手に余るものを抱え続けるのは、抱える者だけの問題では済みません。……奥がいつか荒れて、上まで被害が出たとき。そのとき、なぜ現地は中央の手を拒んだのか、と問われるのは、あなたです」
門までガルムが送った。討たず、押さず、退避線の外へ丁寧に。
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卓に残されたレインは、しばらく動かなかった。
「押し返しました」
「押し返した、ね」
ベルダが椀を下げながら言った。
「でも、あの人、負けた顔してなかったでしょ。……一条で止まったのは今日だけ。明日は別の卓を探して、また来ますよ。ああいうのは、扉を叩き続けるのが仕事なんだから」
「ええ」
レインは頷いた。外の手と、奥の脈動。その両方を、同じだけの力で守り続けることはできない。守れる範囲を絞る。前にここを守りの拠点へ作り変えたとき、さんざん叩き込まれた形だった。
「外の手は、記録と筋で受けます。あの人がどの卓へ回っても、控えの一条が先回りしている形にする。……力で締め出そうとすれば、こちらが痛めた側にされます。だから卓の上で、退屈なくらい筋を通す。手を割くのは、そこまでです」
「奥のほうは」
「奥は、締めで守ります。ガルムの一本道と、認証。……外の言い分がどれだけ立とうと、道が一本しかなければ、道理は道理、道は道です」
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その夕、ドルクを卓へ呼んだ。
図も数字も老坑夫には読めない。レインは噛み砕いて話した。奥を欲しがる手が、開けて確かめようとしていること。開ければ起きる、をあちらが軽く見ていること。
ドルクは腕を組んで聞いていた。聞き終えると、苦い顔で唾を飲んだ。
「そいつらは、淵を桶か何かと勘違いしてやがる」
「桶」
「汲めば中身が分かる、と思ってる。……淵はな、汲もうと棹を突っ込んだだけで底まで波が伝わるんだ。中身を見る前に、こっちの手つきが向こうへ届いちまう。開けて確かめる、なんてのは、いちばんやっちゃならねえ手つきだ」
ドルクは卓の縁を指の背で叩いた。
「それとな、管理者さん。妙な話をしてもいいか」
「どうぞ」
「あんたら、読むのをやめたんだろう。手を止めた。なのに、下がここんとこ、また落ち着かねえ」
レインは顔を上げた。
「落ち着かない、とは」
「上の締めのあたりが、ざわついてる。人が増えて、押したり退けたりしてるからだ。……水番の勘で言うぞ。突かなくても、縁でばしゃばしゃやってりゃ、波は奥へ伝わる。あんたらが手を止めても、外の手が縁を揺すってるうちは、向こうは静かにならねえ」
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その言葉を裏づけるように、報せは夜に来た。
締めの見張りに立っていたガルムからだった。認証を持たない三人が、昼のうちに退けた手とは別の路から、締めの奥へ回り込もうとした。ガルムは締めの手前で押し返した。誰も痛めていない。道は一歩も抜かせていない。
だが、その押し合いの最中だった。
『レイン』
地下の卓で、セレスの光が鋭く灯った。
『境界の脈動を申し上げます。……跳ねています』
「いつものムラですか」
『違います』
セレスの光が、細く震えた。
『これまでの跳ねは、網からはみ出しても半拍ぶんでした。今のは桁が違います。網の外へ、大きく、一息に振れています。……覗いた翌日のずれとも、水位の変化とも別です。締めの縁が揺すられたのと、同じ刻です』
レインは立ち上がった。
外の手が奥そのものへ届こうと、締めの縁を揺すった。その揺れが、開けてもいない奥へ、確かに伝わった。開ける前に、開けようとする手つきだけで、向こうは応え始めていた。
「ガルム」
レインは早口で告げた。
「押し返しを、いったん緩めてください。……これ以上縁を揺するほうが、危ない。奥が、こちらの手つきを拾っています」
だが、報せを運んできた者の顔は、それどころではなかった。
「もう一つ、あります。……退けた三人のうち一人が、締めの締め金へ、道具を当てていました。開けようとした跡が、残っています」
境界の網の向こうで、これまで半拍ぶんだけ行儀よくはみ出していた脈動が、今夜は堰を越える水のように、大きく、止めどなく振れ始めていた。




