第119話 いちばん外側の当番
覗き穴からの持ち帰りは、一日に二行ずつ増えた。
谷は一日に二度。半刻ずつ。二度目からは当番の者が下りた。据えて、読んで、記して、引く。ルカの刻んだ五つの手順の真ん中の空欄に入るのは、いつも短い言葉だった。管の束が奥へ行くほど細くなる。束の走りが途中で一度ねじれている。継ぎ目の癖がこちらの機構と似ている。それだけだ。
四日目の夕、卓に並んだ帳面を前にして、セレスの光は動かなかった。
『傾きが出せません』
いつもの結論先行ではなかった。
『輪郭の切れ端が十いくつ。どれも点です。点を線にするには点と点の間を読まねばなりません。……レイン。あと三度、同じ一点で読ませてください。三度あれば束の本数が出ます。本数が出れば太さが推せます』
『三度で、これまでの持ち出しがもう一度まるごと消えます』
ノアの光が硬く割り込んだ。
『覗き穴を通した四日で、中枢からの持ち出しが跳ねています。深層の当番一人ぶんの世話を、日に幾度も余計に払っている勘定です。三度読めば緩衝の維持に回す余力が削れます。減点です』
---
『そもそも、そんなに読む必要がありますか』
ミストの光が灰色の余白の上でくるりと回った。
『管の造りも継ぎ目の癖もこちらと同じ、と当番の帳面にある。ならば話は簡単ですよ。奥にはこちらと同じ機構が、もう一組あるんです。二組目です。二組目なら、こちらの図をもう一枚重ねて描けばいい。読まずとも埋まります』
ルカの光が『それが早い』と軽く弾んだ。
レインは帳面から目を上げた。
「なら、なぜ拍子が違うんですか」
ミストの光が止まった。
「同じ機構がもう一組あるだけなら、同じ拍子で動くはずです。ですがあの壁の向こうの脈動は、こちらの機構とはまるで違う周期で刻まれている。それを見つけたから私たちはここまで来ました。……同じものが二つあるだけ、では、いちばん最初に見つけた一つが説明できません」
---
「読み足しません」
レインは帳面を閉じて言った。
「セレス。あと三度は払いません。代わりに、もう払い終わっているものを使います」
『払い終わっているもの』
「こちらの帳面です」
レインは卓の下から分厚い束を引き上げた。深層監視の記録だ。毎日決まった刻に下りて脈動を数え、緩衝の効きを確かめ、誰が書いても同じ形になるよう整えてきた紙の山。終わりの日付のない当番が積み上げてきたものだった。
「奥を読むのは高い。ですが、これはもう払い済みです。私たちは毎日一人ずつ下りて、これを買ってきました。一枚残らず」
レインは束を卓の中央へ置いた。
「奥の脈動と、こちらの機構の拍子。その二つを、下り始めた日から今日まで全部突き合わせてください。新しく読むのではなく、もう持っているものを読み直します」
『それは分析ではありません。ただの照合です』
「照合で足りるかどうかは、照合してから言ってください」
---
その照合に、セレスは夜通しかかった。
翌朝、卓に灯った光の第一声は短かった。
『順番が、逆でした』
「逆」
『これまで私たちはこう読んでいました。深層第一区画の機構が脈動を発し、その余波が二枚目の壁の向こうへ届いている。機構が主で、奥は余波だと』
「ええ」
『逆です。奥が先に動いています』
セレスの光が細く震えた。
『奥の脈動が立ち上がってから、こちらの機構の拍子が変わるまで、いつも半拍ぶんの遅れがあります。全ての記録でそうです。例外はありません。……こちらの機構は発していません。応えています』
レインは帳面の上で指を止めた。
『奥が求め、こちらが配る。前段と、本体です。レイン。私たちが毎日世話をしてきたあの機構は、それ自体が目的の設備ではありません。奥の何かへ届けるための、手前の設えです』
---
『もう一つあります』
セレスは続けた。
『帳面の中に、原因の分からない跳ねが幾つか記録されています。境界の脈動が前触れもなく大きく振れた日です』
「覚えています」
『その日付を、こちらの機構の流れの記録と突き合わせました。全て、機構の流れが細っていた日の二日から三日あとです』
レインは息を吸った。
『緩衝を挟み直した日。弁の詰まりを払った日。管の一本を止めて手入れをした日。……こちらが良かれと思って手を入れ、流れを一時だけ絞った数日後に、必ず跳ねています』
「あの晩も、ですか」
レインは低く訊いた。認証を持たない者が深層通路の手前まで忍び込み、同じ晩に壁の向こうの脈動が桁違いに跳ねた、あの晩のことだ。あのとき自分たちは、二つの厄介がたまたま重なったのだと片づけた。
『三日前に、緩衝の裾の手入れが入っています』
セレスは静かに答えた。
『偶然だったのは、片方だけでした』
---
ドルクを卓へ呼んだ。
図も数字も老坑夫には読めない。レインは噛み砕いて話した。奥の何かがこちらから届くものを求めていること。届く量が細ると、数日おいて荒れること。
ドルクは腕を組んで聞いていた。聞き終えると鼻を鳴らした。
「そら、そうだろうよ」
「……分かっていましたか」
「分かっちゃいねえ。だが水番をやってりゃ、そういう川はいくらでもある」
ドルクは卓の図を見もせずに言った。
「上流に溜めがあるんだ。溜めてる何かがある。……堰じゃねえぞ。堰ってのは水を止めるためのもんだ。こいつは逆だ。こいつは水を欲しがってる。欲しがってる溜めに水を回してやってるうちは、上も下も静かなもんさ」
「回さなかったら、どうなりますか」
「濁る」
ドルクの声が低くなった。
「溜まりってのはな、流れが通ってるうちは澄んでるんだ。止めた途端に濁りやがる。……濁った溜まりは必ず暴れる。決まってる。中身が何であろうとだ」
「その中身は、何だと思いますか」
「知るかよ」
ドルクは吐き捨てるように言った。
「わしは水番だ。溜まりの中を見に潜る馬鹿がどこにいる。……見なくたって、水さえ回してりゃ静かにしてる。それで足りるだろうが」
---
その晩、レインは一人で卓に残った。
灯りの下に二つの図を並べる。深層第一区画の機構の図と、灰色の余白に描かれた輪郭の切れ端。配る管と、集める管。応える側と、求める側。
ずっと、この機構は灰霧のものだと思ってきた。
壊れた設備だと思って直そうとした。直す形がないと知った。閉じようとして、閉じ直せないと知った。だから緩衝を一枚挟んで止血し、毎日一人下りて拍子を数え、消えない固定費を台帳に書いた。守る範囲を絞り、退避線を敷き、頼る手と握る手を卓へ呼んで、世話を負う者に決定権が伴うと押し返してきた。
あれは全部。
「世話だったんですね」
誰もいない卓へ、レインはつぶやいた。
この施設は迷宮ではなかったのかもしれない。冒険者を試す場でも資源を生む場でもなく、もっと単純で、もっと執拗な、一つの目的のためだけに組まれた巨きな設え。壁の向こうの何かを保守し、循環させ、目を覚まさせずにおくための。
そして自分たちは、その設えのいちばん外側の当番をしていた。
遠い昔に誰かがこの当番を放り出して去った。放り出されたままの穴を、流れ着いた落第の管理者が、何も知らずに埋め直していた。上の異常を止血したのも、当番を絶やさなかったのも、卓で固定費を分けさせたのも、突き詰めればその一つの世話の内側の話だった。
中枢の灯りが、応えるように一度ゆっくりと明滅した。
---
『見ましょう』
翌日の卓で、ミストの光が真っ直ぐに灰色の余白を指した。
『本体です、レイン。前段が分かったのなら次は本体だ。そこに全部あります。何を保守しているのか。なぜ循環を求めるのか。どうすれば静かにしていてくれるのか。答えは一つの場所に集まっている。……管の収束の先へ、もう一段だけ読みを伸ばしましょう。一度でいい』
「一度で済むと思いますか」
『済みます。輪郭さえ掴めば』
「掴めません」
レインは静かに答えた。
「掴んだら、その次を掴みたくなります。……それにミスト、あなたは忘れています。こちらが読むというのは、こちらの目が届くということです。目が届くところまで近づいた、ということです」
『……向こうにも、ですか』
「見た瞬間、向こうも見てきます」
レインは帳面を閉じた。
「奥の何かは、こちらの流れがほんの少し細るだけで数日後に荒れます。それだけの敏さで、こちらを感じ取っている。……その相手の顔を覗き込みに行くのは、肩を叩いて起こすのと、どこが違いますか」
ミストの光は、それきり何も言わなかった。
---
その日、レインは台帳に一行を書き足した。
灰霧迷宮の深層第一区画は、資源の層でも訓練の層でもない。壁の向こうの何かを保守し、循環させ、目を覚まさせずにおくために組まれた設備である。灰霧が世話をしてきた機構は、その前段にあたる。
そのあとに、レインは一行ぶんの空きを取った。
――壁の向こうの何か。
書けるのはそこまでだった。名前も、形も、大きさも、何ひとつ入らない。レインは空欄のままその頁を綴じた。分からないものを分かったふりで埋めるより、空けておくほうがずっと安全だ。いつか埋める日が来るのかもしれない。来ないほうがいい、とも思った。
---
灯りを落とそうとしたとき、セレスの光が細く灯った。
『一つ、申し上げておきます』
「どうぞ」
『谷の刻です。拍と拍の間がわずかに開く、あの刻が、ずれています』
レインの手が止まった。
『覗き穴を据えてからの四日ぶんを見ました。私たちが覗いた日の翌日だけ、谷の来る刻がわずかに早い。覗かなかった日はずれていません』
「……四日で、四つですか」
『四つです。数としては少ない。気のせいの範囲だと申し上げるべきでしょう。私にはまだ、これを異常だと言い切る材料がありません』
セレスの光が揺れた。
『ですが、レイン。私は照合しか命じられていませんので、照合したことだけを申し上げます。こちらが覗いた翌日は、向こうの刻が動きます』
レインは灯りを落とさなかった。
こちらが求めるものを、向こうは配ってはくれない。こちらが配るものを、向こうが求めている。そういう一方通行の間柄のはずだった。
だが覗いた翌日に谷がずれるというのなら。それは、こちらの片目に向こうが何かを返しているということだ。
深層第一区画の管は今夜も奥へ向かって何かを配り、壁の向こうの管は今夜もそれを一方へ集めている。その収束の先で、まだ誰も見たことのない何かが――こちらの覗き込む片目の気配を、静かに数え始めていたのかもしれなかった。




