第118話 覗き穴を一つだけ
『一つ覗けば、あとは芋づるですよ』
ミストの光が灰色の余白の上で機嫌よく躍った。
『一点でいい、と管理者殿は仰る。結構。ですが一点でも覗いてしまえば、こちらのものです。奥の造りの端が見えれば、端から先は推せる。推せれば描ける。描ければ二点目を置く場所も分かってくる。……つまり最初の一点は、網の目の一つ目なんです』
『一つ目、という言い方をやめてください』
ノアの光が硬く差し込んだ。
『一つ目があるなら二つ目がある、という前提の言い方です。今回の一点は一つ目ではありません。一点で終わりです』
レインは二つの光の間で帳面から目を上げなかった。ミストの言い分は分かる。芋づるというのは覗く側の希望だ。そして希望はたいてい、払う額を数えていない。
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覗き穴を据える場所は、ドルクが三日かけて選んだ。
場所と言っても、道はもう一本しかない。ガルムが締めを二つ入れて絞りきった経路の、いちばん奥。境界の縁だ。問題はその縁のどこへ何を据えるかだった。
「壁にゃ穴を空けねえ」
初日にドルクはそう言い切った。
「開けねえと決めたんだろうが。なら壁は指一本触るな。……覗くってのは壁のきわに耳を当てることだ。穴を空けることじゃねえ」
レインは頷いた。据えるのは中継結晶を一つ。二枚目の壁そのものには触れず、緩衝の裾が切れて奥の脈動が直に届く一点へそれを置く。読むのはそこまで。壁の向こうは読まない。
その一点を、ドルクは壁づたいに叩いて探した。
老坑夫は締めの先の暗がりを腰を折ったままじりじりと横へ動いていく。手にした短い鉄棒で、こつ、こつ、と壁を打っては耳を寄せる。打っては寄せ、また打つ。灯りを持つレインの腕が痺れてくるころ、ようやくその手が止まった。
「ここだ」
「音が違いますか」
「素直だ」
ドルクは鉄棒の尻でその一点を軽く撫でた。
「よそは音が跳ね返ってきやがる。壁の向こうで一遍こもって、濁って戻ってくる。……ここだけは素直に返ってくる。奥の音がいちばん薄い皮一枚で届いてる場所だ。ここへ耳を当てりゃ、いちばん少ない手間でいちばん多く聞こえる」
「少ない手間、というのは」
「聞くのに力が要らねえってこった」
老坑夫はレインを見上げた。
「お前さんら、覗くたんびに何か払うんだろう。だったら、いちばん安く聞こえる場所から聞け。欲張って壁の厚えとこへ耳を当てりゃ、聞こえねえ上に余計に払う羽目になる」
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「それと、刻だ」
ドルクは壁から手を離した。
「奥の川にゃ水位の上がる刻と緩む刻がある。お前さんの帳面に出てるはずだ。……荒れてる刻に耳を当てるな。ばしゃついてる水へ手を突っ込みゃ向こうが気づく。緩んだ刻を狙え。凪いだ淵は覗きやすいが波も伝わりやすい。だから短くだ」
セレスの光が帳面の列を素早く走った。
『谷は確かにあります。……不規則な脈動のうち、拍と拍の間がわずかに開く刻が一日に二度。半刻ほどです』
「その半刻だけです」
レインは言った。
「据えるのも読むのも引くのも、全部その半刻の内側に収めます。谷を跨がない。……跨ぎそうになったら、読み終えていなくても引きます」
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ガルムは締めの先へ細い足場と手すりを一本通した。飾りは何もない。人が一人立って、すぐ後ろへ下がれるだけの幅だ。
「立つとこと、引くとこだ」
ガルムは足場を踏んで鳴らした。
「覗くやつが下がるとき、足元を探すようじゃ間に合わねえ。ここへ立ちゃ後ろは考えなくていい。まっすぐ下がりゃ締めまで戻る。それだけの作りにしてある」
ルカが手順に起こしたのは、その立って下がるまでの部分だけだった。
『据える。灯りを落とす。読む。記す。引く。……五つです』
ルカの光は、めずらしく速さを誇らずに灯っていた。
『これ以上は刻めません。奥で何を読むかは毎回ちがう。読んだものをどう扱うかもその場ごとです。私が型にできたのは覗くまでと引くまで。真ん中は空欄です、レイン』
「空欄で構いません」
レインは答えた。
「型があるのは迷わないためです。迷っていいのは真ん中だけ。……入り方と出方で迷ったら、その半刻は終わります」
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支度が整った日の朝、レインは一度地上へ上がった。
受付の裏手でリナが新人を五人ばかり並べていた。退避の合図が鳴ったとき、誰がどの順でどの路へ出るか。青札の少女はそれを自分の言葉で説いていた。
「一番はあなたたち。荷は置いていってください。二番が私。最後まで残るのはガルムさんたちです。……いいですか。先に出た人は振り返らないでください。振り返ると、後ろが詰まります」
かつてこの少女は退避線を教わる側の列にいた。いまは列を回す側に立っている。教わったことを教える側に回った者が一人増えるたび、有事の段取りは机の上の紙から現場の手足へ変わっていく。
レインはその背中を少し眺めてから地下へ下りた。上は今日も回っている。回してくれる者が育っている。だからこそ、下りる者が要る。
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エルメアは覗きの当番の名を聞いて眉を寄せた。
「あなたが行くんですか」
「一度目だけです」
レインは言った。
「据えるのに中枢の制御を握ったまま入らなければなりません。結晶を置いた瞬間から読み始めて、谷が終わる前に引く。……その繋ぎを他の当番へ渡すには、まず一度、私が測っておかないと渡せません」
「一度目だけ、ですね」
エルメアは念を押した。手にした鈴の紐は、深層の当番へ配ってきたものよりはっきり短い。
「鈴は一つです」
「一つ」
「深層第一区画でさえ三つで引き上げてきました。奥は前例がありません。前例のないものはいちばん慎重な数で数えます。……鈴が一つ鳴ったら、読んでいる途中でも上がってください。あなたが決めた半刻より鈴のほうが先です」
「分かりました」
「分かってませんね」
エルメアは冷たく言った。
「あなたは一人で抱えたがる人です。読み終わっていない、あと少しで分かる――その"あと少し"で人は上がりません。鈴が鳴って上がらなかったら、次からあなたの名前を当番の紙から消します」
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その日の谷は、午後の遅い刻に来た。
締めを二つくぐって足場に立つ。ガルムが締めの手前で背を向けて立った。エルメアは締めの外。鈴の紐だけがレインの腕から後ろへ伸びている。
ドルクの選んだ一点へ、レインは中継結晶を据えた。
据えた、その瞬間だった。
中枢の側から何かが吸い出される感触があった。持ち出しの感覚には慣れている。毎日払っているものだ。だがこれは違った。深層第一区画を読むときの持ち出しが桶で水を汲む重さだとすれば、いまのは桶の底が抜けている。
『読めています』
セレスの光が結晶のそばで細く灯った。
『レイン。持ち出しの速さを申し上げます。境界を読むときのおよそ二十倍です』
「一息で言ってください。何が見えますか」
『輪郭だけです。……管です。こちらと同じ、束ねた管。ですが走り方が違います』
「違う、とは」
『深層第一区画の管は散っています。区画の隅々へ枝分かれして、あちこちへ配って回っている。……奥の管は散っていません。集まっています』
セレスの光が、めずらしく言葉を選ぶように止まった。
『すべてが一方へ向かって収束しています。その収束の先は霧です』
腕の紐が、ちりん、と鳴った。
鈴が一つ。
レインは息を止めた。収束の先。あと一枚。もう一度読めば、その先の輪郭が――
『レイン』
ノアの光が硬く灯った。
『鈴です』
「……記します。それから引きます」
管が集まっていること。収束の向きひとつ。それだけを書きつけて、レインは結晶から手を離した。灯りを落とし、まっすぐ後ろへ下がる。ガルムの背が近づき、締めをくぐり、鈴の音がやんだ。
半刻には、まだ少し余っていた。
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卓に戻ったセレスの光は、いつもの結論先行を失っていた。
『判断材料が足りません』
「ええ」
『管が集まっている、という一事だけです。何本か、どこへ、どの太さでかは読めていない。傾きが出せません。……もう一点、いえ、同じ一点でも次の谷でもう一度読めば』
「次の谷で読めば、また二十倍払います」
レインは静かに言った。
「そして向こうは二度、同じ場所を突かれます。……セレス。今日私たちが持ち帰ったのは、管が集まっているという一事だけです。これは少ないですか」
『少ない、と申し上げました』
「私は多いと思っています」
レインは帳面の新しい頁を開いた。まだ、たった二行しか書かれていない頁だ。
「昨日まで、私たちは奥に何があるかを何ひとつ知りませんでした。今日から知っています。奥にはこちらと同じ造りの管がある。ただし、こちらの管は配って回っていて、奥の管は集めて回っている。……一日ぶんとしては多すぎるくらいです」
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言いながら、レインは自分の言葉の中に小さな棘が刺さっているのに気づいた。
配る管と、集める管。
深層第一区画の機構はずっと配っていた。束ねた管が区画の隅々へ枝を伸ばし、拍子で弁を開け閉めして、何かを送り出し続けていた。あれは何のために配っていたのか。レインたちはそれを、機構がそういう造りだから、としか考えてこなかった。
だが奥の管は集めている。一方へ向かって収束している。
配る側と、集める側。その二つが向き合っているのなら、灰霧がこれまで毎日世話をし、緩衝を挟み、拍子を数えてきたあの機構は――
「前段、ですか」
レインは低くつぶやいた。
『何とおっしゃいましたか』
「いえ」
レインは帳面を閉じた。輪郭ひとつでそこまで決めつけるのは、覗き方を決めたときの自分の言葉に背く。知る範囲を守ると決めたばかりだ。
それでも、閉じた帳面の下でその考えは消えなかった。
自分たちがずっと世話をしてきたあの機構は、たぶん、それ自体が目的ではない。何かを保守し、循環させ続けるための、手前の設えにすぎない。
だとすれば、その手前が支えていた先に――奥に、本体がある。
ドルクの選んだ壁の一点の向こうで、収束していく管の束は今夜も霧の中で、まだ誰にも見えない何かへ向かって静かに集まり続けていた。




