第116話 奥を先に知っている手
その申し入れの主は、書き付けを寄越した二日後、自分の足で灰霧前砦の門をくぐってきた。
名をヴェッセンといった。中央の商流と、評価委員会の両方に顔がきくという触れ込みの、下見の頭格らしい男だ。歳のころは四十がらみ。派手な装いはしていない。むしろ、旅塵のついた地味な外套の下に無駄のない身ごなしを隠している。値踏みの卓に慣れた者の静かな目をしていた。
「お忙しいところを申し訳ありません」
管理棟の卓につくなり、ヴェッセンはそう切り出した。物腰はどこまでも柔らかい。
「単刀直入に申します。委員会の視察枠、その運用について、こちらとしては条件を見直させていただきたい。……深層の二枚目の壁の、その奥。あそこにある古代機能は、いま灰霧殿が世話をしておられる手前の機構よりもはるかに大きな値打ちを持つ。そう、私どもは見ています」
レインは卓の上で指を組んだ。
「奥に何がある、とお考えですか」
「そこを、これから確かめたい。だからこその視察枠です」
ヴェッセンは笑みを崩さなかった。
「確かめても、いないものに値打ちがある、と」
「あります」
男は即座に返した。
「手前の機構がこれだけの拠点を一つ丸ごと動かしている。その手前を保守するためにさらに奥の設備が組まれている――そういう造りだ、と私どもは踏んでいます。奥は、いわば大本だ。大本には大本の値打ちがある。……違いますか」
レインはすぐには答えなかった。
違わない。むしろ驚くほど当たっていた。手前の機構は奥の何かを支えるための前段にすぎないかもしれない――それはレインたち自身がまだ覗き穴一つ開けずに、ようやく仮説として立て始めたばかりの見立てだった。灰霧の誰一人、奥を見ていない。それなのに、目の前の男はこちらの帳面を盗み見てきたかのように、同じ絵を描いていた。
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卓を辞したヴェッセンをガルムが門まで送っていった。討たず、押さず、ただ退避線の外へ丁寧に。
残されたレインはしばらく動かなかった。
「厄介な言い方をする男でしたね」
ベルダが湯気の立つ椀を卓へ置いた。
「礼儀は正しい。脅しもしない。法に触れることも一言も言ってない。……なのに、聞いてるこっちの背筋がずっと寒かった」
「あの人は悪事を働いていません」
レインは椀を受け取りながら、低く言った。
「奥に値打ちがある、と考えるのは罪ではありません。中央がまとめて管理すべき、と主張するのも、あの人たちなりの筋の通った理屈です。……問題はそこではないんです」
「知ってたってことですか。奥を」
「ええ」
レインは湯を一口すすった。
「私たちがまだ触れていない奥を、あの人は触れた前提で話していました。しかも、私たちの仮説と同じ形で。……誰かがこちらの見ているものを、あちらへ運んでいます。前に控え束へ紛れた紙、あれきりではなかった。漏れはまだ続いています」
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その漏れの手ざわりを思いがけない側から裏づけたのは、バロスだった。
商用でたまたま前砦へ寄っていた恰幅のいい会頭は、話を聞くと、指輪の並んだ手で髭を撫でた。
「妙だとは思ってたんだ」
「妙とは」
「灰霧の下の話に、近ごろ値がついてる」
バロスはこともなげに言った。
「商人ってのは鼻がきく。売り買いされてる噂には、必ず値が張りつくもんでね。……ここひと月ばかり、『灰霧の奥にゃ手前の何倍もの古い仕掛けが眠ってる』って噂に、じわじわ高値がついてきてる。金を出してでも、その中身を先に知りたがってる口がどこかにいる。しかも、大口だ」
「出所は辿れますか」
「噂の川上は、いつも濁っててね。ぱっとは言えん」
バロスは抜け目のない目を細めた。
「だが、値のつき方は、覚えとくといい。ただの与太話にゃ、こんな高値はつかねえ。誰かが確かな中身を小出しに流してる。……確かな中身ってのは、あんたらの帳面から出たもんだろう、レインさん」
レインは礼を言って、バロスを見送った。地上の市は今日も回っている。人が水を汲み、荷が動き、噂に値がつく。そのなんでもない賑わいの流れに乗って、奥のことが静かに外へ運び出されていた。
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「守るものが、また一つ性質を変えました」
その日の夕、レインは地下の卓で精霊たちに告げた。
「これまで、守るのは人と拠点と緩衝と奥そのものでした。そこへもう一つ加わります。……奥を知られすぎないことです」
『情報は物ではありません』
セレスの光が揺れた。
『壁で囲えず、認証もかけられません。人の口を通り、紙に写り、噂になって値がつく。物理の守りが効かない相手です』
「ええ。だから、守り方も変えます」
レインは卓に覗き穴の骨組みの図をもう一度広げた。片目で、一点だけ、退避線を添えて覗く――昨日まで、これは奥を刺激しないための設計だった。
「この覗き方は、これから二つの意味を持ちます。一つは奥を起こさないための覗き方。もう一つは……覗いて得たものを外に見せないための覗き方です。何を読み、何を記し、その記録を誰の目まで届かせるか。知る範囲を守るという話に、外への見せ方の管理が加わります」
ノアの光が硬く灯った。
『開示範囲の管理ですか』
「そうです。奥に関わる記録は三つの譲れないものに準じて扱います。中枢の制御、退避の判断、地下への立入。……それと同じ棚に、奥のことを記した帳面を置きます。外へ出すものと、灰霧が握るものをはっきり分けます」
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線引きの実務を担ったのはベルダだった。
受付を長く預かってきた者の帳面には、これまで外へ渡した控えの一枚残らずの記録があった。いつ、誰に、何を見せたか。ベルダはその開示の記録を、奥に関わる言葉が一言でも載っているものだけ、丹念に拾い上げていった。
「見えてきましたよ、レイン」
夜も更けたころ、ベルダは抜き出した控えの束を卓へ並べた。
「奥のことが載った控えを外へ出した機会は、そう多くない。交渉の卓が何度か。視察の申し合わせが何度か。……そのどれもが、同じ一つの窓口を通ってる。委員会の事務を仲立ちしてる筋。書き付けをうちへ届けてきたのも、そこ。ヴェッセンって男が乗ってきたのもそこの枠でした」
「窓口そのものが漏らしている、とは限りません」
「ええ。仲立ちの誰かか、その先で写した誰かか、そこまではまだ分からない」
ベルダは束の一角を指で叩いた。
「でも、川がこの一本に絞れた。ここから先は、この束に載った言葉と、外で値のついてる噂を突き合わせりゃいい。どの言葉がどこまで流れたか。漏れの通り道の入口までは押さえました」
レインはその束をそっと手に取った。
「犯人を叩くのは後です」
低く言った。
「まずは経路を締めます。この窓口へ渡すものから、奥に関わる言葉を抜きます。渡さねばならない数字は渡す。けれど、奥の形が透ける言葉は、こちらの棚へしまいます。……漏れを止められなくても、漏れるものを選ぶことはできます」
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束を締め、開示の棚を分け直し、ようやく一段落したのは深夜だった。
最後に、ベルダが束の底から一枚の控えを抜き出した。ずいぶん前の交渉の折の写しの断片だった。
「これなんですけど」
差し出された紙に、レインは目を落とし――指が止まった。
そこには奥の存在だけではない、別のことが書き写されていた。緩衝を挟んだ壁の、その奥へもし触れるとしたら、どの拍子の谷を突くべきか――覗き方を詰めるために、レインたちがつい先日、帳面へ書きつけたばかりの手順の走り書き。その一部が外へ渡った控えの裏に薄く写り込んでいた。
外の手が欲しがっているのは、もう奥が「ある」という話だけではなかった。奥をどう開けるか。その手立ての入口までがこちらの帳面から外へ滲み出していた。
灰霧がまだ覗き穴一つ開けていない、その奥へ――外の手のほうが先に、鍵の在り処を探り当てようとしていた。
レインはその一枚を卓の灯りに、じっとかざした。奥の脈動は、今夜も境界の網から半拍ぶんはみ出しながら、止まる気配なく刻まれ続けていた。




