第115話 覗くだけでも届かない
翌朝の卓には一枚の図が広げられていた。
深層第一区画のいまの観測網の絵だった。中継結晶の置かれた点が細い線で結ばれている。線は境界線の縁でぷっつりと途切れていた。その先――二枚目の壁の向こう側は灰色に塗りつぶされたまま、何も描かれていない。
覗く、と決めた。だが、覗くための目がまだそこまで届いていない。
『網を奥へ延ばしましょう』
ミストの光が待ちかねたように灰色の余白へ躍り出た。淡い線がみるみる枝分かれして、壁の向こう側いっぱいに細かい網の目を描いていく。
『一点や二点では、奥の全体は掴めません。網の目のように面で張る。ここと、ここと、ここへ結晶を置いて、退避線も同じだけ延ばして、二枚目の壁の奥をいっぺんに見渡すんです。水位が変わった理由も、面で見れば――』
『その面を張った瞬間に、中枢魔力が底を突きます』
セレスの光が冷たく差し込んだ。ミストの描いた網の目に、一つずつ小さな×が灯る。
『奥は霧です。読むには払う。境界までなら、私はどうにか読めた。ですが、その先は一点読むごとに境界一枚ぶんの魔力を食います。ミストの図の点は十七あります。十七点を同時に読めば、緩衝を保つ魔力まで根こそぎ持っていかれます』
ミストの網の目がしゅんと勢いをなくした。
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レインは図の灰色の余白を指でなぞった。読むほど払う。それは深層第一区画でさんざん思い知らされたことだった。あの機構を読むだけでも、精霊たちは中枢魔力を削り、レインは毎日その持ち出しを台帳に書きつけてきた。奥は、その桁がまた一つ上がる。
『では観測をやめるべきです』
ノアの光が硬く灯った。
『読めば払い、読めば奥が動く。ならば、いちばん確実な守りは、覗かないことです。境界で数え、緩衝を保ち、奥へは目を向けない。観測ごと全部止める。事故点で申せば、これが最も低い』
「それだと、半拍のずれが積もり続けます」
レインは静かに返した。
「昨日決めたはずです。境界で数えているだけでは、いずれ緩衝が破れる、と。目を閉じて、耐えるのは破れる日を、ただ待つことです」
卓の上で、また二つの光が両極へ割れていた。面で全部見たいミストと、いっそ何も見るな、というノア。片方は魔力で潰れ、片方は破れるのを待つ。どちらも、これまで避けてきた崖の別々の縁だった。
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「延ばすと、向こうが気づくのか」
背後で、ドルクの声がした。老坑夫は図の灰色を覗き込んでいた。
「網の目だのなんだの、俺には分からん。だが、一つだけ言えることがある。奥はな、若えの。今そこにある川とは別もんだ。もっと深い。もっと静かだ。……静かな水面ってのは、小石一つで波紋が広がる。今の川の付き合い方を、そのまま奥へ持っていくな」
「静かだから危ないんですか」
「そうさ。ざわついてる浅瀬なら、多少ばしゃついたって、誰も気にしねえ。だが、鏡みてえに凪いだ淵に棹を一本突っ込んでみろ。底まで波が伝わる。……覗くなら、片目だ。両目でじっと見つめるな。片目でちらっと見て、すぐ引ける場所からにしとけ」
レインはその言葉を胸の中で二度なぞった。片目で。すぐ引ける場所から。
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「曝露の上限も、いつもよりずっと低く引かせてもらいます」
口を開いたのはエルメアだった。深層に下りる者の体を鈴の数で見張り続けてきた薬師は、めずらしく硬い顔をしていた。
「深層第一区画でさえ、当番の魔力曝露は鈴三つで引き上げてきました。奥を覗くなら、一つ。……いえ、半分でも多いくらいです。何が体に返ってくるか、前例がない。前例のないものは、いちばん慎重な上限で数えます。覗く当番は一人。短く。鈴が鳴る前に上げる」
『データが足りません』
セレスの光が揺れた。分析を司る精霊がいちばん困る局面だった。
『一点、短時間では判断の材料が揃いません。傾きを読むにはもっと多くの点を、もっと長く……』
「揃えようとするほど払って、起こすんですね」
レインが遮った。セレスの光が言葉を呑んだ。
「セレス。理解と、安全が正面からぶつかっています。全部を読めば、安全に近づく気がする。でも、全部を読むために払う魔力と、読むことで奥を動かす刺激が、その安全を先に食い潰す。……今回は、読まないこともあなたの判断の一つに数えてください」
深層第一区画でさんざん思い知ったことだった。あの機構は直そうとするほど上層を荒らし、結局直さずに、緩衝を一枚挟んで、付き合うしかなかった。終わらない支払いを抱え込むしかなかった。奥は、そのさらに奥だ。全部を知って安全にするという道は、たぶん最初からない。
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レインは卓の隅に、もう一本線を引いた。覗き穴の丸から手前へ引き返す線――退避線だった。
「覗くのは行きだけじゃありません。帰りまでが覗き方です。……延ばすなら、必ず同じ長さの帰り道を、先に引く。片目で見て、鈴が鳴る前に、この線を伝って引く。何を見たかより先に、確実に引き返せるかを決めます」
『……その覗いて、持ち帰った分を、私が手順に起こせればいいのですが』
ルカの光がめずらしく歯切れ悪く灯った。
『一点・短時間・退避付き。そこまでは型にできます。ですが、奥で"何を見るか"は毎回ちがう。前例がない。私の手順は同じことの繰り返しでこそ効くのに、奥は二度と同じ顔をしません。起こせるのは覗くところまで。見た先は、レイン、あなたがその都度判じるしかありません』
「それでいいです」
レインはうなずいた。
「奥は型にはまらない。当番一人の片目と勘と退避線。それだけで覗く。……ずいぶん効率の悪い覗き方です。でも、効率のいい覗き方は、たぶん全部、奥を起こします」
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地上では、その重い相談の裏で、受付の台がいつもどおり回っていた。
ベルダが採集札を受け取り、帳面に印を打つ。リナが後ろに並んだ新人へ退避線の見方を身振りで教えている。下がどれだけ静かで危ういかを、二層の利用者たちはまだ知らない。知らないまま、水を汲み、苔の灯りで採り、日暮れに帰っていく。そのなんでもない賑わいこそが、レインたちが緩衝の内側で必死に守っているものだった。守れているうちは、誰にもその必死は見えない。
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卓に戻ったレインは、灰色の余白に一つだけ小さな丸を描いた。
「覗き穴は一つです。面ではなく、点。いちばん脈動の谷を突ける場所に、一点だけ。そこに、必ず退避線を添える。そして――読み取りは境界で止めます。奥の奥までは読まない。ちらっと見て、記録して、引く。知る範囲そのものを守る対象にします」
ミストの網の目が消え、ノアの全停止も退いた、その間に小さな丸が一つ残った。全部見るでも、何も見ないでもない。片目で、すぐ引ける場所から一点だけ。
「まだどこに開けるかは決まっていません。ですが、覗き方の骨組みは、これでいきます」
精霊たちの光が渋々ながら、その一点の周りへ集まってきた。
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その骨組みをどこの谷へ据えるか。ドルクと一緒に脈動の帳面をめくり始めた、まさにその時だった。
地上から、ベルダがめずらしく足早に下りてきた。手には一枚の書き付け。窓口に届いた外からの申し入れだという。
レインはそれを受け取って、目を落とし――指が止まった。
書き付けには「深層の二枚目の壁の、その奥にある古代機能について、正式な視察の枠を設けられたい」とあった。
まだ誰もそこへ触れていない。覗き穴一つ開けてもいない。灰霧の誰一人、奥を見ていない。それなのに、外の手は奥がそこに「ある」ことを前提にして、話を持ちかけてきていた。
「ベルダ。これ、どこから」
「委員会の窓口を通してきました。ですが、文面が妙で」
ベルダは受付を長く預かってきた者の勘の鋭い目で、書き付けの一角を指した。
「『二枚目の壁の、その奥』。……この言い方、うちの帳面とそっくりなんです。奥のことを外の言葉じゃなく、こっちの言葉で書いてきてる。前に交渉の控え束に奥を記した紙が紛れた跡がありましたよね。あれから、またどこかで漏れてます」
レインは書き付けをそっと卓へ置いた。
守るべきものが、また一つ増えていた。奥そのものだけではない。奥を知られすぎないこと。覗き方を決めるとは、外にどう見せないかを決めることでもあった。
覗き方を決めるより先に、覗くべき相手のことを、外が先に知っていた。




