第114話 脈動が境界を越えてくる
その朝、最初に「おかしい」と言ったのは、精霊たちではなかった。
リナだった。第2層の採集から上がってきたばかりの新人冒険者は、受付の台に採集札を返しながら、ふと首をかしげた。
「ベルダさん。なんか下、機嫌わるくないですか」
「機嫌?」
ベルダが帳簿から顔を上げた。
「水路の脇の光苔、今朝点くのが遅かったんです。あと二層の奥のほう、足元の水が妙にぬるくて。……うまく言えないんですけど、下がいつもとちがう呼吸してる感じで」
リナは自分の言葉に自信がなさそうに、指先で頬を掻いた。採れた、採れないの話ではない。数字にもならない、ただの現場の肌ざわりだった。だが、灰霧前砦ではその肌ざわりがしばしば帳面より早く異変を告げる。
ベルダはその一言を聞き流さなかった。採集の帳面の隅に日付を添えて、短く書き留めた。下、呼吸ちがう。リナ。――そして、その走り書きをレインのところへ回した。
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レインが地下へ下りたとき、境界線の縁の細い列は、すでにいつもと違う顔をしていた。
二枚目の壁の手前。緩衝のこちら側。ここから奥へは一歩も入らない、と決めた、その境界線で、毎日拍子を数え続けている。周期が変われば、すぐ気づけるように。触れるのはやめておいて、見張るのはやめない。そう決めた、その見張りの列だった。
拍子は乱れていた。
いや、乱れているという言い方は正しくないのかもしれない。レインは列の並びを指でなぞった。奥から来る不規則な拍子は相変わらず不規則だった。だが、その不規則さの出方が違う。これまでは、境界の網の中で行儀よく不規則だった。今朝はその網から拍子がはみ出していた。
『周期のばらつきが境界観測の想定幅を超えています』
セレスの光が静かに灯った。
『これまでの脈動は不規則ではあっても、一定の幅の中に収まっていました。予測の網になんとか掛かっていた。ですが、今朝の三回はその幅の外です。網の目をすり抜けています』
「原因は」
『読めません』
セレスの光がわずかに揺れた。分析を司る精霊がいちばん言いたくない言葉だった。
『網からはみ出した拍子がどこから来ているのか。それを読むには網の外――奥を見る必要があります。ですが、私の解析はこの境界線の縁までしか届きません。奥は霧です。はみ出した、とは分かります。なぜは分かりません』
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レインはもう一枚の列へ目を移した。深層第一区画の保守機構の拍子を記した列だ。束ねた管と、拍子で開閉する弁。劣化したまま動き続け、その脈動がかつて上層の異常の源になった、あの機構。緩衝を一枚挟んで、いまはどうにか止血できている。
その機構の拍子と、奥から来る拍子をレインは並べて見た。
これまで二つの拍子は噛み合っていた。機構が打てば、奥が応え、奥が応えれば、機構が受ける。ぎこちないながらも、拍子と拍子が互いの間を取っていた。緩衝が効いていたのは、その噛み合いのおかげでもあった。
その噛み合いが今朝は、ずれていた。
機構が打っても、奥の応えが半拍遅れる。遅れた応えを機構が受け損ねる。受け損ねた分が緩衝へ余分な負荷になって、残る。リナが「下の呼吸がちがう」と言ったのは、たぶんこれだった。二層のぬるい水も、遅れた光苔もこの半拍のずれが上層まで薄く滲み出た跡だ。
「緩衝の効きにムラが出ています」
レインは言った。
「日によってではなく、もう拍子ごとにです。……境界で数えているだけでは、いずれこの半拍が積もって、緩衝が破れます」
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「奥の川が水位を変えたな」
背後で、ドルクの声がした。老坑夫は緩衝壁のそばにしゃがみ、湿った壁に手のひらを当てていた。
「川ってのはいつも同じ量を流しちゃいねえ。日照りが続きゃ細り、雨が降りゃ増える。細った川と増えた川じゃ、堰の受け方も変わる。……この奥の川はいま、水位を変えつつある。だから、堰の受け方が合わなくなってきてやがるのさ」
「水位が変わった理由は分かりますか」
「分かるかよ」
ドルクはこともなげに言った。
「川の底で何が起きてるかなんぞ、川縁で音を聞いてるだけの俺に分かるわけがねえ。分かるのは、変わったってことだけだ。……だがな、若えの。堰の受け方が合わなくなってきたってのは、毎日聞いてりゃ分かる。今まさに、お前さんの帳面がそれを言ってるだろうが」
毎日、川縁で水の音を聞く。いつか流れが変われば、真っ先に気づくのは、毎日聞いていた者だ。境界で見張るのはやめない、と決めたのはこのためだった。見張っていたから、水位の変化にいちばん早く気づけた。だが、気づけたところでその先の付き合い方はまだ何も決まっていない。
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その日の卓で、精霊たちは案の定、割れた。
『緩衝を厚くすべきです』
ノアの光が硬く灯った。
『半拍のずれが緩衝に負荷を残すなら、その負荷に耐えられるよう緩衝をもう一枚重ねる。奥へは近づかず、こちらの守りを厚くして、耐える。減点方式で申せば、これが最も事故点の少ない案です』
「その一枚の代償を言ってください」
レインは静かに返した。
『……中枢魔力の恒常的な追加負担です』
「毎日ですね」
レインは頷いた。厚くした緩衝は厚くしたぶんだけ、毎日魔力を食う。一度きりの出費ではない。守り続ける限り、払い続ける固定費だ。すでに深層機構の止血と、毎日下りる当番一人でその固定費は台帳の重石になっている。そこへもう一枚。
「耐えるだけでは、いずれ耐えるための費用のほうで潰れます。……それに、緩衝を厚くしても、奥の水位が変わり続ければ、また合わなくなる。厚くするのは、後手に回り続けることです」
『では私の案です』
ミストの光が待ちかねたように躍った。
『観測網を奥へ延ばしましょう。水位が変わったのなら、その変わった水位を見に行けば、いい。中継結晶を奥へ一段、退避線もそこまで延ばして、二枚目の壁の全体像を掴めば、なぜ水位が変わったのかも――』
『掴もうとした瞬間に、中枢魔力が尽きます』
セレスの光が冷たく遮った。
『奥は霧。読むほど魔力を払う。網を延ばしても、私が読めなければ、余白は数字で埋まらず、ただ持ち出しだけが増えます。それはノアの緩衝と同じ穴です。守り方が違うだけで、どちらも固定費のほうで先に潰れます』
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レインは二つの光と、その間の静かな一つを順に見た。厚くして、耐える。延ばして、見る。どちらもこれまで避けてきた「守れない線を自分から広げる」ことに行き着いていた。
だが、境界で数えているだけでは、半拍のずれは積もり続ける。リナが肌で感じ、ベルダが帳面に書き、緩衝がムラで軋む。放っておけば、いつか破れる。
守れる範囲の、その先へ。触れない、と決めた、その境界線の向こう側へ。とうとう触れなければならない時が来ているのかもしれなかった。
「触れます。……ただし、開けるのでも、延ばすのでもありません」
レインは卓の上に指を置いた。
「奥にどう触れるか。それを決める前に、先に決めることがあります。どう覗くかです。開ける前に覗き方を決める。……上の川で、直す前に触れ方から決めたように。奥の川には、開ける前に覗き方から決めます」
言葉にしてみて、レインはその難しさに内心息を呑んだ。
覗く、と言うのはたやすい。だが、奥を覗くための観測網はいま境界線の縁までしか届いていない。覗くには網を少しは奥へ延ばさねばならない。そして――網を延ばすこと自体が、霧の向こうの何かを刺激するかもしれなかった。
見るために近づけば、見られる。読むために触れれば、向こうも動く。奥を覗くという行いは、その第一歩からすでに諸刃だった。
「覗き方を決めます」
レインは暗い列の上で、もう一度低く繰り返した。境界の拍子はその夜も網からわずかにはみ出しながら、止まる気配なく刻まれ続けていた。半拍の遅れは、まだ誰にも読めない奥から確かにこちらへ伝わってきていた。




