第107話 頼るなら当番表に名前を書け
代官補佐と名乗った男は思っていたより若かった。旅装の埃を落とし、卓の向かいに腰を下ろすと、まず砦の内をぐるりと見渡した。簡易市の賑わい、荷捌き場の列、そして奥へ続く、絞ったばかりの深層の門。
「思っていたよりよく回っている」
男は感心と値踏みが半分ずつ混じった声で言った。
「領としても、この砦を放ってはおけない。辺境の要にして、有事の折には、領を守る盾として頼りたい。灰霧前砦を領の備えとして、正式に位置づけたいのだ」
備え、という言葉にレインは静かに耳を留めた。悪い話ではない。領が後ろ盾につけば、外からの無体な手もいくらか払いやすくなる。だが、その言葉の軽さが少しだけ気にかかった。
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「頼っていただけるのは、ありがたいことです」
レインはまず礼を返した。
「ただ、備えと数えるのなら、一つ先に決めておきたいことがあります。この砦が抱えているものの、手入れの代です」
「手入れの、代」
「盾は置いておくだけでは盾になりません。毎日磨いて、油を差して、初めていざという時に使えます。この砦も同じです」
男は少し眉を寄せた。頼りたいという話にいきなり勘定の話が返ってきたのが、意外だったらしい。
「盾の手入れなら、そちらの仕事だろう。領はその盾を頼りにすると言っているのだ」
「そこです」
レインは卓の上で指を組んだ。
「頼りにするだけで、手入れは置いていく。それだと、盾は頼られた翌日から錆びていきます。備えと呼ぶなら、その手入れの代を誰がどれだけ負うのか。それを決めないまま『備え』と紙に書いても、書いた日からその紙は嘘になります」
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ベルダが頃合いを計って、一冊の台帳を卓に開いた。前に頼る手と握る手を同時に押し返したときに使った、あの固定費の帳面だった。
「これがこの砦を一日回すのにかかる、目に見えない分だよ」
ベルダは頁を指でなぞった。
「地下の古いものをなだめるのに、砦の力を毎日いくらか吸われる。それと、地下へ毎日降りて、様子を見張る当番が一人。この二つは誰が来ようと、天気がどうだろうと、一日も欠かせない。欠かせば、上の暮らしにじかに響く」
男は開かれた台帳をしばらく黙って見ていた。数字そのものより、それが「毎日、必ず」の列であることに目が留まったようだった。
「……これはそちらが勝手に抱えたものではないのか」
「抱えさせられたものです」
レインは正した。
「好きで抱えたわけではありません。ですが、いちばん近くにいる者が世話をしなければ、誰かが軽い気持ちで触って、壊す。だから、抱えています。そして、これを盾と呼んで頼るなら、この毎日の代は頼る側にも無縁ではなくなります」
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セレスの光が卓の隅で細く灯った。数字を扱うときの、あの静かな明滅だった。
『固定費を二つに分けて示せます』
声は男にではなく、レインへ向けられている。
『領のために灰霧が引き受けられる分と、灰霧が手放してはならない分。前者は、有事に領の民を退避で受け入れる枠、外周の見張りを領境まで延ばす手間。後者は、地下の中枢に触れる判断、退避を切る合図、地下へ人を入れる基準――これは負う代がいくらであろうと、灰霧に残さねば、砦そのものが崩れます』
「聞こえたとおりです」
レインは男に向き直った。
「領のためにこの砦が引き受けられることは、あります。有事に、領の民をこの退避線で預かる。外周の見張りを領の境まで延ばす。そこは頼っていただいてかまいません。ですが、その手間には人手と代がかかります。そこを領が何分負うか。それを決めていただくのが、『備え』の中身です」
男は腕を組んだ。
「では、そちらは何をこちらに渡さないつもりだ」
「地下の中枢にどう触れるか。いつ、人を逃がすか。誰を地下へ入れるか。この三つの判断は、渡せません」
レインの声は低いが、揺れなかった。
「これを外へ渡せば、判断した者と、その場にいる者が別になります。逃げろと言う者が遠くにいて、逃げる者だけが地下にいる。そういう守りは必ず、人を殺します。だから、この三つは代を積まれても、灰霧に残します」
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男はすぐには引かなかった。それは悪意からではなかった。
「そちらの言い分は分かった。だがな、こちらにも頼らねばならん理由がある」
男は旅装の袖を卓の上でわずかに握った。
「領境が近ごろ静かでない。食い詰めた者、流れ者、はっきり賊とは言えぬ手合いが村を掠めて回っている。領の兵は数が足りん。有事の折、砦のような固い場所が一つあれば、民を逃がし込める。だから、備えと呼びたいのだ。飾りで言っているのではない」
「その理由は分かります」
レインは初めて相手の目をまっすぐ見返した。頼りたいという言葉の裏に守るべき民を抱えた者の切実があった。それは自分が地下を抱えているのと、そう遠くない切実だった。
「ですから、こう申し上げます。この砦は領の民を逃がし込む場所にはなれます。退避線に領の分の余地を空けておくこともできます。ですが」
レインはそこで一度、言葉を切った。
「この砦は領の兵の代わりにはなれません。賊を追い払う盾にはなっても、賊を討つ剣にはなれない。ここにはそもそも兵がいません。守れるのは、逃げてきた者を門の内でかくまうところまでです。それより先を約束すれば、いざという時、その約束のほうが先に折れます」
「守れぬことは、約束せぬ、と」
「はい。守れる線を先に引きます。そこだけは、必ず守ります。その代わり、引いた線の外は、頼まれても、うなずきません。うなずいて守れなければ、頼った側がいちばん手ひどく裏切られますから」
男の口の端がわずかに動いた。呆れたのか、感心したのか。どちらとも取れる顔で、男は小さく息を吐いた。値踏みの色が少しだけ薄れていた。
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男はしばらく何も言わなかった。反発ではなく、値踏みでもなく、ただ、持ち帰るべき荷の重さを量っている顔だった。
「……即答は、できん」
やがて、男は言った。
「私にそれを決める権はない。領の勘定をどこまで割くか。それは私の一存では動かせない」
「持ち帰っていただいて、けっこうです」
レインは頷いた。
「今日、決めていただきたかったのは、額ではありません。頼るというのは、世話ごと引き受けることだ、という一点です。そこにうなずいていただけたなら、あとの数字はこれから幾らでも突き合わせられます」
ベルダが台帳のうしろから一枚の紙を抜いて、男の前に置いた。何をどちらが負うかを二つの列に書き分けられる、空欄の様式だった。
「持ち帰るなら、これに書き込んで来なよ。口約束はあとで必ず食い違う。紙にどっちが何を負うか、はっきり書いてあれば、次に会うとき、話が早い」
男はその様式を丁寧に折って、懐へ収めた。備えという柔らかい言葉で来た手が当番表という硬い紙を持って帰る。頼る卓に初めて、代の欄が引かれた。
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男の一行が門を出ていくのを見送って、ベルダが息をついた。
「持ち帰らせたね。上出来じゃないか」
「これで、半分です」
レインはまだ卓の上に残る、もう一通の封を見ていた。領主家の蝋印ではない。王都評価委員会の、あの硬い押し型だった。頼る手が代の話を渋々のみ込んで帰ったその日に、握る手のほうが日取りを切って寄こしている。
「頼る側が代の話を持ち帰った。その隙にって顔だね」
ベルダが封の押し型を指で弾いた。
「向こうは代の話なんかしてこないよ。運用権を寄こせ、の一点張りだ。頼る手より、たちが悪い」
「でしょうね」
レインはその封をまだ切らずに見つめた。頼る手には「世話ごとだ」と返せた。だが握る手は、そもそも世話をする気がない。権利だけを別の角度から取りに来る。当番表に名前を書けと言って通じる相手ではなかった。次に開く卓の相手はこちらが引いたばかりの代の欄を平然と跨いでくるはずだった。




