第106話 走らせてみてわかること
訓練をやると触れを出した朝、いちばん先に文句を言いに来たのは簡易市で汁物を売っている女だった。
「こっちは仕込みの真っ最中だよ。鍋を火から下ろして、店を閉めて、逃げる真似ごとをしろってのかい」
「半刻だけお借りします」
レインは頭を下げた。
「一度も走らせないまま、本番を迎えるほうがこわいんです。今日つまずいておけば、いざという時に同じところでつまずかずに済みます」
女は鼻を鳴らした。それでも前掛けを外したのは、砦で何かあれば真っ先に逃げ遅れるのが自分たちだと、分かっているからだった。
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合図の鐘が鳴った。
簡易市、荷捌き場、採集区画の入口、宿。区画ごとに割り付けた門へ、割り付けた順番で人が動きはじめる。レインは退避線の分かれ目に立って、その流れを目で追った。
最初の区画は綺麗に流れた。簡易市の客は決めておいた門へ一列で吸い込まれていく。順番も守られている。
『順調です』
ルカの光が退避線の上を走った。
『第一の区画、退避完了。想定よりわずかに速い』
「まだです」
レインは地図の後ろのほうを指した。合図の鐘から遠い、宿と採集区画の入口。そこの流れがまだ動いていなかった。
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鐘が鳴ってから、ずいぶん経ってから、宿のほうの人影がようやく動きはじめた。
「遅い」
レインは砂時計の砂を見て、眉を寄せた。
「同じ合図で同じ時に動くはずでした。前のほうは、もう抜け終わっている。後ろは、まだ出てもいない。この差はなんですか」
答えは走ってきたリナが持ってきた。宿のほうに配していた、逃げる側の一人だ。
「鐘、聞こえませんでした」
息を切らせて、リナは言った。
「正しくは聞こえたんですけど、遠くて。市の鐘なのか、訓練の鐘なのか、分からなくて。しばらくみんなで顔を見合わせていました。誰かが『これ、逃げるやつじゃないの』って言い出して、やっと動いたんです」
『鳴らしたはずです』
ミストの声がめずらしく戸惑った。
『各区画に鳴り物を仕込みました。一斉に鳴るように――』
「一斉に鳴らしても、遠い鐘は遠く聞こえるんです」
レインは後ろの区画に印をつけた。合図は鳴らせば届くものではなかった。近い者には大きく、遠い者には小さく届く。近いところが動き終わる頃、遠いところはまだ「これは何の音か」と迷っている。合図の網には端のほうに穴が空いていた。
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その端の区画から流れ出した人の波が次の詰まりを作った。
二つの区画の流れが一つの合流点で重なる場所だった。地図の上では、別々の門へ分けたつもりだった。だが、逃げた先で一度、同じ広場を通る作りになっていた。そこへ遅れて動きだした後ろの区画が先の区画の尻に追いついて、団子になった。
「詰まってるよ、ここ」
広場の脇からエルメアの声が飛んだ。
「押されて、前の子が転びかけた。誰も踏まなかったからよかったけどね。本番で後ろから本気で押されてたら、今ので一人、下敷きだよ」
レインはその広場へ駆け寄った。人の背中が狭い口に向かって、団子のまま押し合っている。逃げる速さの問題ではなかった。二つの流れを分けたつもりで、出口の手前でまた一つに束ねてしまっていた。
「合流点が狭すぎます」
レインはその一点を地図に濃く塗った。
「別々の門へ分けても、逃げた先で同じ場所を通れば、そこで一つに戻ってしまう。分けるなら、合流する場所まで最後まで分けないと意味がありません」
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三つ目は二本目の退避路だった。
ガルムが「逃げ道は二本以上、一本は潰れる前提で」と組ませた、その二本目だ。訓練では、一本目をわざと「塞がった」ことにして、逃げる側を二本目へ回してみた。
だが、二本目へ向かった者たちは途中で立ち止まった。
「どこですか、二本目」
リナが壁際で足を止めていた。
「一本目はいつも通る道だから分かります。でも、二本目は普段使わないから、どこに入口があるのか、ぱっと分からなくて。壁と同じ色で、看板もなくて」
ガルムが腕を組んで、その壁を睨んだ。
「作りゃいいってもんじゃねえ、か」
低く唸って、ガルムは壁を叩いた。
「二本目はいざって時にしか使わねえ。使わねえから、覚えられねえ。覚えられねえ道は無いのと同じだ。俺は道を引いた気でいたが、逃げる奴の目からは、壁が続いてるだけだったんだな」
「印がいります」
レインは頷いた。
「普段使わない道ほど、目立たせないと。いつもの道が塞がった時に、目が探すのは派手な印です。二本目は地味に作っちゃいけなかったんです」
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半刻の訓練で段取りは三か所で綻んだ。合図の届かない端。狭い合流点。分かりにくい二本目。レインはその三つを帳面に書き取っていった。書きながら、不思議と、気は重くなかった。
『失敗が三つ出ました』
ノアの声はいつもの硬さのままだった。
『机上で組んだ段取りが実地で三か所、破れました。厳しく見れば、この避難計画は不合格です』
「合格を探していたんじゃありません」
レインは帳面から顔を上げた。
「今日は、どこで壊れるかを見つけに来たんです。三つ壊れた、じゃなくて、三つ見つかった。走らせなければ、この三つは本番まで隠れていました。隠れたまま本番を迎えるより、今日、明るいところで転んでおくほうがずっといい」
訓練は、うまくいかせるためのものではなかった。うまくいかない場所を先に見つけるための装置だった。ガルムが「動かした時に、初めて綻びが見える」と言った、その綻びをわざと引き出すために走らせた。
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見つかった三つはその日のうちに手が入った。
合図は遠い区画に鐘だけでなく、走って報せる者を一人ずつ立てた。音が届かなくても、人が走れば、迷いは消える。ガルムは捌く側の人手を前の区画から後ろの区画へ回した。前は放っておいても流れる。手が要るのは、動きの鈍い後ろだった。
狭い合流点は二つの流れが最後まで交わらないよう、片方の門の位置をずらした。二本目の退避路の入口には遠くからでも目につく赤い布を垂らし、壁の色から浮かせた。
エルメアの言っていた、一度に流していい人数の上限も門ごとに小さな立て札で示した。ここから先は次の合図まで待つ、という区切りを目で見て分かるようにする。人が詰まるのは、たいてい待てば防げることだった。数えて、線を引いて、その線を見えるようにしておけば、勢いのままに押し寄せる足もいくらか落ち着く。
直したところで、もう一度、短く走らせた。二度目は、後ろの区画が鐘と同時に動いた。合流点で団子はできず、二本目へ回された者も赤い布を目印に迷わず入口を見つけた。待つ人数の立て札の前では、後ろの区画がきちんと順番を待った。誰も我先にとは走らなかった。
「一度は、走った道になりました」
レインは二度目の流れを見送って、息をついた。紙の上の線が初めて人の足で踏まれた。踏まれて、壊れて、直された。まだ本番ではない。だが、机上の絵から一度は動かした段取りへ、守りが半歩だけ、進んだ。
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訓練を終えて帳面を閉じたところへ、ベルダが一枚の書状を持って入ってきた。
「レイン。表の門に使いが来てるよ」
差し出された封には見覚えのある印が押されていた。領主側の実務窓口の印だった。
「灰霧前砦を領の備えとして、正式に話をしたい、とさ」
レインは閉じたばかりの帳面に目を落とした。守る場所を決め、門を絞り、逃げる順番を走らせた。ようやく、守りの形が半分見えてきたところだった。その半分できた守りを外から「備え」と呼びたい手がいよいよ卓に着こうとしている。頼る手が机の向こうに座る番が、来たらしかった。




