第105話 逃げる順番を、決めておく
昨日ガルムが残した問いは、朝になっても卓の上に居座っていた。妙な足を見つけたら、誰に報せて、誰が飛んでくるのか。退避線は、誰が開けるのか。門を絞っただけでは、その先の段取りは何ひとつ決まっていない。
「まず、逃がし方から決めます」
レインは地図に、上層の区画をひとつずつ囲っていった。簡易市、荷捌き場、採集区画の入口、宿。人が固まっている場所ほど、いざという時にほどきにくい。
『それでしたら、警報を張り巡らせましょう』
ミストの光が、砦じゅうに音の網を広げてみせた。
『各区画に鳴り物を仕込んで、一斉に鳴らす。鳴ったら全員が最寄りの門へ向かう。単純で、見栄えもします』
『誘導も、私が受け持てます』
ルカの線が、その網に重なった。
『どの区画が、どの門へ、何番目に抜けるか。あらかじめ割り付けておいて、警報と同時に順番を報せる。人が考えなくても、指示どおりに流れます』
「鳴らせば、みんな逃げる」
レインは、その言葉を繰り返した。理屈は分かる。分かるが、どこか、口当たりが良すぎた。
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「逃げないよ、それじゃ」
入口から、エルメアの声が飛んだ。薬師の道具袋を肩にかけたまま、卓のそばへ寄ってくる。
「鳴らせば逃げる、なんてのは、逃げたことのない人間の言い草だ。人はね、警報じゃ整然と動かない。びっくりして固まる奴、逆に走り出す奴、荷を取りに戻る奴。てんでばらばらだよ」
「ばらばらだと、どうなりますか」
「一番近い門に、みんなが殺到する。そこで詰まる。後ろから押される。前で転ぶ。踏まれる」
エルメアは、道具袋を卓に置いた。
「あたしが診てきたのは、魔物にやられた怪我人ばかりじゃない。人混みで押し潰された怪我人も、いくらでも見てきた。逃げる最中に、逃げてる者同士で潰し合う。敵が来る前に、そっちで死人が出るんだよ」
レインは、地図の門を見た。細くしたばかりの深層の門とは逆に、上層の門は、人をさばくために広く取ってある。それでも、砦じゅうの足が一度に押し寄せれば、広い門も、たちまち栓になる。
「敵より先に、逃げ方で死ぬ」
「そういうこと。だから、鳴らして終いにはできないよ」
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レインは、しばらく地図を見下ろしていた。それから、囲った区画のひとつに、指を置いた。
「順番を、決めます」
『順番、とは』
「全員が一斉に、では潰れます。なら、どの区画が、どの合図で、どの門へ、何番目に抜けるか。それを先に割っておくんです。近い門へ雪崩れ込むのではなく、区画ごとに、行き先と順番を持たせるんです」
レインは、区画から門へ、細い線を引いていった。簡易市はこちらの門へ、荷捌き場はあちらの門へ。同じ門に二つの区画が重ならないように、流れを分ける。
「合流する場所も、決めておきます。逃げた先で、また一か所に固まったら、そこで詰まる。区画ごとに、集まる場所を別にします」
「一度に流していい数にも、上限がいるよ」
エルメアが口を挟んだ。
「門の幅と、通路の長さで、どれだけの人数を、どれだけの速さで流せるかは決まってる。それを超えて押し込めば、必ず詰まる。数えて、線を引いといたほうがいい。ここは一度に何人まで、って」
レインは頷いて、門ごとに小さな数字を書き込んでいった。速く逃がすことより、詰まらせないことを先に置く。エルメアの言う通りだった。逃げるというのは、勢いの問題ではなく、流量の問題だった。
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黙って聞いていたガルムが、地図に節くれだった指を伸ばした。
「逃げ道は、一本にするな」
引かれたばかりの線の、その脇に、もう一本、線を足す。
「門てのは、いざという時に限って塞がる。人で詰まる、火が回る、崩れる。一本しかなけりゃ、そこが潰れた瞬間、逃げ場がなくなる。だから、どの区画からも、逃げ道は二本以上。しかも、一本は必ず潰れる前提で組め」
「一本、潰れる前提で」
「ああ。二本あって、両方通れりゃ御の字だ。だが段取りってのは、うまくいく時のためじゃねえ。片方が使えなくなった時のためにある。二本目がなけりゃ、それはただの一本道だ」
ガルムの言葉には、机上では出てこない重みがあった。逃げ道が塞がる場面を、この男は幾度もくぐってきている。潰れる前提で組め、という一言は、脅しではなく、経験の目盛りだった。
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『……手順に、落ちません』
ルカの声が、めずらしく歯切れを欠いた。誘導を自動化しようと、割り付けを組み直していたはずだった。
『割り付けはできます。ですが、二本目が潰れた場合、火の回り方、人の詰まり方――例外が多すぎて、一つの手順にまとまりません。想定を足すほど、枝が増えて、かえって回らなくなります』
「無理に、一本にまとめなくていいです」
レインは言った。
「ルカは、平時の割り付けをやってください。どの区画がどの門へ、何番目に、が決まっているだけでも、混乱はぐっと減ります。そこから先の、例外が起きた時の判断は、人がやります。全部を仕組みに載せようとしなくていいんです」
『判断を、人に残すと』
「有事は、例外のほうが多いんです。仕組みに載るところまでは載せて、載らないところは、その場の人に委ねる。ルカの割り付けと、ガルムの二本目は、喧嘩しません。順番を決めておくのと、順番どおりにいかない時に備えておくのは、両方いるんです」
ルカの線が、しばらく明滅して、それから、ひとまわり細く、落ち着いた。抱え込もうとしていた枝を、手放したように見えた。
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絵が固まってくると、レインはリナを呼んだ。上層で採集者たちと日々顔を合わせている、成長した利用者のひとりだ。
「逃げる側から見て、これで動けそうですか」
リナは地図をのぞき込み、線を目でたどった。
「順番があるのは、いいと思います。前に一度、警報が誤って鳴った時、みんなどこへ行けばいいか分からなくて、その場でうろうろしていました。決まっていれば、あんなふうにはならなかったはずです」
言いかけて、リナは一点を指した。
「ただ、二番目に抜ける区画の人は、一番目が通り終わるのを、どこで待つんですか。待つ場所が決まっていないと、門の手前でたまって、それが結局、詰まりになります」
レインは、その指の先を見た。抜ける順番は決めた。だが、順番を待つ場所までは、まだ決めていなかった。
「……待つ場所も、いりますね」
リナのような、実際に逃げる側の目でなければ、こぼれ落ちる穴だった。段取りを組む側の頭では、人は順番どおりに、すっと流れてくれる。だが実際の人は、自分の番が来るまで、どこかで足を止めて待たなければならない。その足の置き場まで決めて、ようやく段取りになる。
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日が暮れる頃には、地図の上に、逃げるための骨格ができていた。区画ごとの行き先と順番。二本以上の逃げ道と、一本潰れる前提。門ごとの人数と速さの上限。順番を待つ場所と、逃げた先の合流点。
レインは、その一枚を眺めた。昨日、ガルムに問われて答えられなかった段取りが、いちおうは形になっている。誰が、どの合図で、どの順で、どこへ。骨は組めた。
「これで、逃がせますか」
問うと、ガルムは地図を見たまま、鼻を鳴らした。
「紙の上ではな」
「紙の上、では」
「線は綺麗だ。数も合ってる。だがな、レイン。人ってのは、線の通りには歩かねえ。この段取りが本当に使えるかどうかは、実際に人を流してみるまで、誰にも分からねえ」
ガルムは、地図の隅を、爪で軽く弾いた。
「机で組んだ逃げ道が、いざ走らせたら、どこで詰まるか。それは、走らせてみて、初めて分かる。守りってのは、書いた時じゃなくて、動かした時に、初めて綻びが見える」
レインは、組み上げたばかりの骨格を、もう一度見下ろした。綺麗に引かれた線が、急に、頼りなく見えてきた。段取りは、紙の上にある限り、まだ守りではない。一度、本当に人を流してみて、どこで壊れるかを見るまでは。
「――走らせて、みます」
守る場所を決め、門を絞り、逃げる順番を組んだ。次は、その順番が、本当に人を逃がせるのかどうか。試すしかなかった。




