第15話「願われた子ども」 その5 空白は埋まらない
白い滲みが引いていく。
結衣が目を開けたとき、
そこは再び、現実の家だった。
昼の光が、窓から差し込んでいる。
カーテンは揺れ、
遠くで車の音がした。
すべてが、普通だ。
——普通すぎる。
結衣は、ゆっくりと立ち上がった。
床は硬い。
生暖かさも、湿り気もない。
あの拍動は、ない。
仏壇の前に、正座した女性の姿はない。
代わりに、
警察の鑑識テープが、部屋の入口に貼られている。
事件は、終わった。
表向きには。
結衣は、仏壇を見た。
木箱は、そこにある。
蓋は閉じられたまま。
中身は、
もう、何もない。
名前だけが刻まれた木箱は、
ただの“空の容器”になっている。
結衣は、視線を逸らした。
見てはいけないものを、
見続けると、
自分の中の何かが壊れる。
玄関へ向かう途中、
ふと、足が止まった。
壁に、
小さな落書きがある。
クレヨンで描いたような、
歪な丸と線。
子どもの絵だ。
誰が描いたのかは、分からない。
だが、確かに、
この家には“子ども”が存在した。
生まれなかったはずの、
存在。
(……だから、斬った)
言い聞かせるように、
心の中で繰り返す。
生まれなかったものを、
生まれたことにはできない。
それを認めない祈りは、
現実を壊す。
外に出ると、
空気が冷たかった。
肺が、現実の温度を思い出す。
バイクのそばで、
スマホが震えた。
『終わったか』
中森の声。
「……終わった」
『生存者は』
「いない」
間を置かず、
中森は言った。
『今回は、止めただけだな』
「……うん」
救ってはいない。
戻してもいない。
増やさなかっただけ。
『名簿、見たか』
結衣は、頷きかけてから、
無言で端末を操作した。
《LIST of the Saved》
スクロールする。
削除された名前。
実行済みの行。
その下に、
新しい空白。
《No.39》
また一つ、
席が用意されている。
「……埋まってない」
『当たり前だ』
中森の声は、淡々としている。
『空白は、空白のままだ。
埋めようとするから、喰われる』
結衣は、空を見上げた。
雲が、ゆっくり流れている。
何事もなかったように。
「……次は?」
『もう動いてる』
中森は、少しだけ声を落とした。
『今度は、“生まれてきた子ども”だ』
結衣の喉が、わずかに鳴る。
「……皮肉ね」
『祈りは、いつもそうだ』
通話が切れる。
結衣は、バイクに跨がった。
エンジンをかける。
振動が、身体に伝わる。
確かに、ここに自分はいる。
生きている。
だが、
その実感は、薄い。
滅殺するたび、
何かが削れていく。
それでも、
立ち止まる気はない。
「……全部、斬る」
呟きは、風に消えた。
結衣は走り出す。
空白を抱えたまま。
それが、
彼女の選んだ道だ。




