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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い
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第16話 死者の正しさ 第4章 正しさを滅するもの

 結衣が五人目の看護師との接続を断ち切った時だった。


 廊下の照明が一斉に明滅した。


 一度。


 二度。


 三度。


 白い光と赤い非常灯が交互に切り替わり、病院の輪郭を細かく分断する。


 患者の呻き声。


 医療機器の警告音。


 走り始めた看護師たちの足音。


 正常な判断を取り戻した医師たちが、止まりかけていた治療を再開している。


 それでも。


 病院を覆う異常は消えていなかった。


 むしろ。


 結衣が接続を断つたびに、空気の奥に潜むものが濃くなっていた。


 八咫刃が震える。


 細かな振動ではない。


 柄から手首へ。


 骨を直接叩くような脈動。


「……分かってる。」


 結衣は刃を下げた。


 医師や看護師を一人ずつ遮断しても終わらない。


 彼らへ繋がっていた黒い線は、切断された直後、壁や床の奥へ吸い込まれている。


 そこから。


 別の人間へ伸びようとしていた。


 接続先を失った残響が消えたわけではない。


 病院のどこかにある核へ戻っただけだ。


「元を潰さないと。」


 八咫刃の刃先を床へ向ける。


 紫電が走る。


 床材の下へ。


 建物の構造とは異なる黒い筋が浮かび上がった。


 血管のように。


 廊下を這い。


 壁を抜け。


 病院の奥へ伸びている。


 結衣はその筋を追った。


 処置室を抜ける。


 手術区域へ続く通路を曲がる。


 途中。


 床へ横たわる患者がいた。


 腹部を血に染めている。


 正常へ戻った看護師が圧迫止血を続けていた。


「先生、血圧が下がっています!」


「手術室を一つ空けろ!」


「使用中です!」


「終わりそうなところへ確認を!」


 怒鳴り声。


 走る足音。


 泣き声。


 混乱している。


 だが。


 先ほどまでの静寂より。


 その方が遥かに正常だった。


 人が死にかけているから焦る。


 助けられないかもしれないから怖がる。


 判断を誤れば後悔するから迷う。


 それは。


 間違いではない。


 結衣は足を止めない。


 黒い筋は、通路の最奥へ続いている。


 突き当たり。


 そこには、何もなかった。


 白い壁。


 避難経路を示す案内板。


 消火器。


 封鎖された非常扉。


 八咫刃の脈動だけが強くなる。


「ここ。」


 結衣は非常扉へ近づく。


 扉には鍵が掛かっていた。


『関係者以外立入禁止』


 赤い文字。


 その下に。


 薄く別の文字が浮かんでいる。


《生者立入禁止》


 結衣が取っ手へ触れる。


 冷たい。


 金属の温度ではなかった。


 冬の墓石。


 長く放置された遺体。


 命の熱が完全に失われたものへ触れた時の冷たさ。


 扉の向こうから。


 何人もの声が聞こえる。


《ここに誤りはない》


《死者は迷わない》


《死者は裏切らない》


《死者は間違えない》


 結衣は八咫刃を構えた。


 扉を斬るためではない。


 八咫刃は、現実の物体を切断するだけの刃ではない。


 残響が現実へ縫い付けた境界。


 生者と死者の認識を隔てる層。


 そこへ裂け目を作り。


 隠された残響空間へ接続する。


 結衣は切っ先を扉の中央へ当てた。


「開けて。」


 返答はない。


「開けないなら。」


 紫電が刃を包む。


「勝手に入る。」


 八咫刃を横へ引く。


 刃先が扉の表面を滑る。


 金属は傷つかない。


 代わりに。


 空間そのものへ、黒い亀裂が走った。


 扉の中央が歪む。


 白い廊下の景色が引き延ばされ。


 折れ。


 裏返る。


 亀裂の奥から。


 暗い風が吹き出した。


 消毒液ではない。


 血。


 煙。


 腐った木。


 湿った土。


 そして。


 古い蝋燭の匂い。


 病院には存在しないはずの臭いが、結衣の髪を揺らした。


 亀裂が人一人通れる大きさまで広がる。


 向こう側に。


 長い廊下が見えた。


 結衣は振り返る。


 正常へ戻り始めた病院。


 誰もこちらを見ていない。


 医師も。


 看護師も。


 目の前の命へ必死に手を伸ばしている。


 結衣は亀裂へ足を踏み入れた。


「ここからは。」


 八咫刃を握り直す。


「私の仕事。」


 身体が境界を越える。


 背後で。


 亀裂が閉じた。


 ◇


 そこは。


 病院の形をしていた。


 だが。


 病院ではなかった。


 廊下の幅。


 天井の高さ。


 並んだ病室の扉。


 基本的な構造は東湾中央病院と同じ。


 それでも。


 壁は煤に覆われている。


 床には乾いた血が幾重にも染み込み。


 天井からは、縄が無数に垂れ下がっていた。


 病室の扉には番号がない。


 代わりに。


 人の名前が刻まれている。


 彫られた文字。


 墨で書かれた文字。


 爪で引っ掻いた文字。


 血で残された文字。


 しかし。


 結衣が読もうとすると。


 全ての名前が崩れた。


 文字が黒い液体となり、扉の下へ流れていく。


 名前を隠している。


 中森の言葉どおりだった。


「名乗る気はないってこと。」


 結衣の声が廊下へ響く。


 返ってきたのは。


 自分の声ではなかった。


《名は個を作る》


《個は誤りを生む》


《我々に名は要らない》


 複数の病室から。


 同時に声がする。


 男。


 女。


 老人。


 子供。


 声の数は分からない。


 十人。


 百人。


 それ以上。


 全てが重なりながら。


 一つの意思を形作っていた。


「名持ちのくせに。」


 結衣は歩き出す。


「都合が悪くなったら群れるんだ。」


 八咫刃の切っ先を床へ向ける。


 紫電が残響空間を照らす。


 影が動いた。


 廊下の左右。


 閉ざされていた病室の扉が、一斉に開く。


 中に。


 人が立っていた。


 首へ縄を巻いた者。


 胸を刃で貫かれた者。


 火傷で皮膚を失った者。


 腹を裂かれた者。


 十字架へ縛られた者。


 銃弾を受けた者。


 拷問の痕を残す者。


 処刑された死者たち。


 だが。


 誰も苦しんでいない。


 誰も怒っていない。


 穏やかな顔で。


 結衣を見つめていた。


《我々は信じた》


《我々は従った》


《我々は死を受け入れた》


《だから》


《我々は正しかった》


 結衣は立ち止まる。


「死んだら正しいの。」


《死は証明である》


「逃げただけかもしれない。」


 死者たちの笑みが消える。


《死を侮辱しました》


「負けただけかもしれない。」


《信仰を否定しました》


「間違ってたから殺されたのかもしれない。」


 空間が揺れた。


 壁から。


 床から。


 天井から。


 黒い腕が伸びる。


 結衣の足首。


 手首。


 肩。


 首。


 冷たい指が絡みつく。


 八咫刃を振るう。


 紫電が黒い腕を焼く。


 だが。


 消えない。


 一本を払えば。


 二本。


 三本。


 さらに多くの腕が現れる。


《疑う必要はない》


《考える必要はない》


《我々へ従えばよい》


 声が。


 直接、結衣の頭へ流れ込む。


 病院で聞いたものより強い。


 外から囁く声ではない。


 自分の思考として浮かび上がる。


 ――死者は嘘を吐かない。


 ――死者はもう選択を変えない。


 ――だから、死者の言葉は正しい。


 結衣の腕から。


 少しずつ力が抜ける。


 八咫刃の切っ先が下がる。


《お前も知っている》


 視界が歪む。


 残響空間の廊下が消える。


 代わりに。


 白い食卓が現れた。


 皿。


 箸。


 湯気の立つ味噌汁。


 兄が台所に立っている。


 佐々木颯。


 結衣より六つ上。


 両親が仕事で家を空けることが多かった頃から、料理も洗濯も引き受けていた。


 帰宅が遅くなった日も。


 結衣の分だけは、必ず残しておいてくれた。


『遅かったな。』


 兄が振り返る。


 記憶の中と同じ顔。


 優しい。


 まだ何も壊れていなかった頃の顔。


『冷めるぞ。』


 結衣の足が止まる。


「……お兄ちゃん。」


《死者は変わらない》


 声が囁く。


《生者だけが裏切る》


 食卓には。


 父と母も座っていた。


 穏やかに笑っている。


 仕事着ではない。


 血もついていない。


 傷もない。


 失われる前の家族。


 四人が同じ食卓へ揃っていた頃の姿。


『結衣。』


 母が手招きする。


『座りなさい。』


 父が空いた椅子を引く。


『もう戦わなくていい。』


 兄が味噌汁を置く。


『ここにいればいい。』


 結衣の手から。


 八咫刃が少しずつ下がる。


 家族がいる。


 誰も死んでいない。


 誰も自分を責めていない。


 帰る場所が残っている。


《死者へ従えば》


《失ったものは戻る》


《お前が正しさを受け入れれば》


《誰も死ななかったことにできる》


 結衣は一歩。


 食卓へ近づく。


 兄が微笑む。


『お前は悪くない。』


 その言葉を。


 結衣は、ずっと聞きたかった。


 両親の異変に気づけなかったことも。


 兄が寄生されていると見抜けなかったことも。


 家族を救えなかったことも。


 全て。


 自分のせいではないと。


 死んだ家族から言ってほしかった。


「……本当に。」


 声が震える。


「私、悪くなかった?」


『悪くない。』


 兄は即答する。


『結衣は正しかった。』


 その言葉が。


 胸の傷へ、甘く染み込んでいく。


 考えなくていい。


 疑わなくていい。


 自分は正しかった。


 両親が殺されたのも。


 兄を救えなかったのも。


 全て、自分の責任ではない。


 復讐も。


 これまで滅してきた残響も。


 巻き込んだ人間も。


 全部、正しい。


 正しいのなら。


 悔やむ必要はない。


 苦しむ必要もない。


 八咫刃が。


 結衣の手から離れかける。


 その瞬間。


 柄に巻かれた鎖が。


 手首へ食い込んだ。


「っ……。」


 鋭い痛み。


 皮膚が裂ける。


 血が流れる。


 八咫刃が激しく震えた。


 紫電が結衣の腕を駆け上がる。


「やめて。」


 結衣が呟く。


 八咫刃は止まらない。


 電流が神経へ入り。


 頭蓋の奥を焼く。


 目の前の食卓へ。


 別の光景が重なった。


 父の職場。


 見たことのない事務室。


 倒れた机。


 飛び散った書類。


 床へ横たわる父。


 母の職場。


 割れた窓。


 倒れた棚。


 壁へ残された血。


 そして。


 その中央に立つ兄。


 両手を赤く染め。


 寄生体に精神を歪められながら。


 父と母を殺した兄。


「……違う。」


 結衣は呟いた。


 これは記憶ではない。


 結衣は。


 両親が殺された場所にいなかった。


 父の最期も。


 母の最期も。


 見ていない。


 後から知らされた。


 残された記録と。


 現場写真と。


 血の痕跡によって。


 二人が兄に殺されたと知った。


「私が見たのは……。」


 幻が揺れる。


 職場の景色が崩れ。


 自宅の居間へ変わる。


 割れた食器。


 倒れた椅子。


 壁へ飛び散った血。


 それは。


 両親の血ではない。


 結衣自身の血だった。


 玄関の前に。


 颯が立っている。


 兄であって。


 兄ではない。


 寄生体に身体を奪われた何か。


 結衣は床へ倒れている。


 背中が裂け。


 腕には深い傷が走っていた。


 颯が近づく。


 一歩。


 また一歩。


 結衣を殺すために。


 寄生体が。


 兄の身体を動かしている。


「お兄ちゃん……。」


 結衣が呼ぶ。


 兄の腕が振り上げられる。


 結衣の首へ伸びる。


 避けられない。


 そう思った瞬間だった。


 颯の腕が止まった。


 指先が震える。


 顔の歪み。


 片方の瞳だけが。


 結衣を見た。


 寄生体ではない。


 兄の目だった。


『結衣だけは……駄目だ……!』


 喉を引き裂くような声。


 颯は自分の腕を、もう片方の手で押さえつけた。


 骨が軋む。


 寄生体が兄の身体を動かそうとする。


 兄の自我が。


 それを必死に止めている。


 兄は結衣から後退した。


 一歩。


 また一歩。


 身体の主導権を奪い合うように、動きが激しく痙攣する。


 結衣へ伸びようとする腕を。


 颯自身が壁へ叩きつけた。


『……生きろ。』


 最後に。


 確かにそう言った。


 そして。


 兄は自ら玄関を破り。


 夜の闇へ消えた。


 結衣を殺さないために。


 残された自我が消える前に。


 自分から、結衣の前を去った。


 それが。


 結衣の見た最後の兄だった。


 ◇


「……見るな。」


 結衣は頭を振る。


 八咫刃は許さない。


 優しい幻を。


 消したかった現実で上書きする。


 食卓の向こうで。


 穏やかな兄が微笑んでいる。


『結衣。』


「違う。」


『ここにいればいい。』


「違う。」


『お前は正しかった。』


「黙れ。」


 兄の姿をしたものが手を伸ばす。


『全部、正しかった。』


 結衣はその手を見る。


 料理を作り。


 洗濯物を畳み。


 何度も頭を撫でてくれた手。


 最後には。


 自分へ傷を負わせた手。


 それでも。


 結衣を殺すことだけは拒んだ手。


「それを。」


 結衣の指が、八咫刃の柄を握り直す。


「お兄ちゃんの口で言うな。」


《お前は悪くない》


「……黙れっ。」


《死者はお前を許している》


「黙れ。」


《我々へ従え》


「黙れっ!!!」


 怒りが。


 胸の底から噴き上がった。


 悲しみではない。


 罪悪感でもない。


 見てもいない両親の最期を作り。


 兄の顔を使い。


 自分が最も欲しかった言葉を与え。


 考えることをやめさせようとした。


 その行為への。


 純粋な怒り。


「お兄ちゃんは。」


 八咫刃へ紫電が集まる。


「私が正しかったなんて言わない。」


 食卓が歪む。


 家族の笑顔が崩れる。


「悪くないとも言わない。」


 兄の顔へ亀裂が走る。


「結衣だけは駄目だって。」


 結衣は刃を持ち上げる。


「生きろって言った。」


 八咫刃を振り抜く。


 紫電が幻を引き裂いた。


 食卓。


 父。


 母。


 兄。


 全てが黒い破片となって砕ける。


 残響空間の廊下が戻る。


 無数の腕が、今も結衣の身体へ絡みついている。


 だが。


 もう力は奪われていなかった。


 結衣の瞳に。


 迷いはない。


「死んだ人間を使って。」


 八咫刃を床へ突き立てる。


 紫電が蜘蛛の巣のように広がる。


 黒い腕が焼ける。


 悲鳴。


 何十。


 何百もの声が重なる。


「生きてる人間を黙らせるな。」


《我々は正しい》


「知らない。」


《我々は殉じた》


「だから何。」


《我々の死には意味がある》


「勝手に意味をつけてればいい。」


 結衣は八咫刃を引き抜く。


 焼け落ちた黒い腕を踏みつける。


「でも。」


 廊下の奥。


 これまで見えなかった巨大な扉が現れていた。


 無数の名前を削り取った跡。


 中央には。


 幾つもの顔が重なった紋様。


 声は。


 その向こうから聞こえている。


「その正しさを。」


 結衣は扉へ向かって歩き出す。


「生きてる人間に押し付けるなら。」


 八咫刃の刃へ。


 怒りに呼応した紫電が激しく迸る。


「全部、斬る。」


 扉の紋様が。


 ゆっくりと目を開いた。

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