第16話 正しきもの 第1章 正しさを信じるもの
最初に感じたのは、違和感だった。
自分の考えが、自分のものではない。
そう気付いたのは、駅前の交差点で信号を待っていたときだった。
午前七時四十三分。
通勤客が歩道を埋めている。
誰もが赤信号を見て、静かに立っていた。
それ自体は普通だ。
だが。
平岡直樹は、自分がなぜ止まっているのか説明できなかった。
(赤だから。)
答えだけが浮かぶ。
理由が続かない。
危険だからでも、規則だからでもない。
ただ、それが正しいと決められている。
「……何だ、これ。」
呟いた声だけが浮いた。
周囲は異様なほど静かだった。
人は多いのに、誰も話さない。
苛立ちも、焦りもない。
全員が同じ姿勢で、同じ方向を見ている。
直樹は隣の男に声を掛けた。
「すみません。」
反応はない。
「気分、悪いんですか。」
男の唇が動いた。
「赤です。」
「……分かってます。」
「なら、待ってください。」
それだけだった。
その瞬間、周囲の視線がわずかに直樹へ集まる。
気付かれない程度に。
だが確実に。
信号が青へ変わる。
電子音。
同時に、人々が歩き出した。
足音が揃う。
ざっ、ざっ、と一つの音になる。
直樹だけが遅れた。
肩がぶつかる。
「止まらないでください。」
若い女の声。
感情はない。
ただ、逸脱を指摘するだけ。
直樹は反射的に謝った。
その瞬間、頭の奥に言葉が浮かぶ。
――流れを乱すな。
誰のものか分からない。
だが、正しいと感じる。
直樹は流れに戻った。
同じ速度で歩く。
考えなくていい。
それが楽だと気付いた瞬間、足を止めた。
後ろの列が乱れる。
「邪魔です。」
「歩いてください。」
「青です。」
短い言葉が連なる。
別々の口から、同じ意味だけが押し出される。
直樹は逃げるように渡り切った。
歩道へ出ると、誰も振り返らない。
何事もなかったように流れていく。
「……寝不足か。」
自分に言い聞かせる。
だが、焦りがない。
遅刻しないと、なぜか分かっている。
根拠はない。
それでも確定している。
「誰が決めた?」
呟く。
返事はない。
ただ、前を行く人々の背中が、わずかに揺れた。
笑ったように見えた。
◇
会社に着いたのは八時二十八分。
予想どおりだった。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
返事が揃う。
同じ高さ、同じ調子。
動きはばらばらなのに、表情だけが同じだった。
穏やかで、疑いがない。
「平岡さん。」
後輩の倉田が声を掛ける。
「九時から会議です。」
「分かってる。」
「遅れないでください。」
「まだ時間あるだろ。」
「正しい時刻に来てください。」
言葉が硬い。
「誰が決めた。」
「会社が。」
「誰だよ。」
倉田は一瞬詰まり、同じ答えを繰り返した。
「決まっています。」
その瞬間、キーボード音が止まる。
全員が直樹を見る。
無言で。
ただ観察するように。
直樹が口を閉じると、音が戻った。
何事もなかったように。
席に着き、メールを開く。
同じ件名が並ぶ。
『今期業務方針について』
差出人は違うのに、本文は同じだった。
『決定事項に異議を挟まず、速やかに実行してください。』
それだけ。
最後の一通だけが異質だった。
『疑問は誤りの入口です。』
文字が滲む。
画面に映る自分の背後に、人影が立っていた。
振り返る。
誰もいない。
再び画面を見ると、文章が変わっていた。
『疑う者を記録しました。』
直樹は立ち上がる。
同時に、全てのパソコンが鳴った。
全員が画面を見て、次に直樹を見る。
倉田が立つ。
「会議の時間です。」
時計はまだ八時三十一分。
「まだだろ。」
「もう始まっています。」
会議室の扉が開く。
中は暗い。
奥が見えない。
直樹は後ずさる。
背中に何かが触れた。
振り返っても、誰もいない。
「……誰だ。」
声が吸い込まれる。
暗闇の奥で、何かが揺れた。
輪郭のない影が重なっている。
《来ましたね》
声が響く。
性別も距離も分からない。
「誰だ。」
《あなたです》
即答だった。
「違う。」
《違いますか》
同じ問いが、わずかに重なって返る。
直樹は後退る。
「俺は……俺だ。」
《それは誰が決めました》
間を置かず返る。
逃げ場がない。
朝の光景が重なる。
決まっている。
正しい。
疑うな。
その中で、自分だけが浮いている。
《疑いましたね》
声が近づく。
《記録されています》
《修正されます》
言葉が圧縮され、意味だけが押し寄せる。
「やめろ……」
《必要ありません》
《正しいことです》
見えない何かが触れる。
思考が薄れていく。
疑問が消える。
代わりに、静かな確信が満ちる。
――疑う必要はない。
直樹は最後に叫んだ。
「誰が決めた!」
完全な沈黙。
次の瞬間。
《決まっています》
それだけが残った。
誰の声かは、最後まで分からなかった。
午前九時。
会議室では、不可能な数字が淡々と読み上げられた。
誰も資料を見ず、誰も疑わず、全員が同時に頷く。
その頷きは、人間の意思によるものではなかった。
同じ角度、同じ速度、同じ間隔。
まるで見えない同期信号に従っているかのように。
「問題ありません。」
直樹も同じ声で答えた。
声の高さも、抑揚も、呼吸の位置すら揃っている。
その直後、窓の外で女が柵を越えた。
誰も動かない。
視線だけが、同時に窓へ向く。
落下音だけが、遠くで響いた。
その音に対しても、誰一人として反応を変えない。
まるで、あらかじめ処理済みの出来事であるかのように。
◇
午前九時十二分。
教室で一人の生徒が立ち上がる。
「この答えは間違っています。」
教師も、生徒も、ただ見つめる。
瞬きの回数すら減っていた。
空気が、固定される。
「教科書が正しい。」
その一言で、空間の温度が変わる。
言葉が発せられた瞬間、見えない何かが教室全体を覆った。
音が吸い込まれ、呼吸が浅くなる。
少年は窓へ歩き、迷いなく外へ出た。
その動きもまた、滑らかすぎた。
躊躇も、恐怖も、存在しない。
誰も席を立たなかった。
誰も声を出さなかった。
ただ、全員が同じ角度で窓を見続けていた。
◇
午前九時二十分。
市役所の窓口。
「規則に従ってください。」
老人の問いは宙に消え、職員の視線が揺れる。
その揺れは一瞬だった。
次の瞬間、完全に静止する。
瞳孔がわずかに開き、焦点が合わなくなる。
そして。
《誤りを確認しました》
それは音ではなかった。
空気を震わせない。
鼓膜を通らない。
それでも確実に、頭蓋の内側へ直接書き込まれる。
複数の声が重なり合い、完全に同期した無機質な波形。
人間の発声ではあり得ない均一さ。
感情の欠片もない、処理結果の通知。
職員の肩がわずかに震える。
抵抗ではない。
入力を受け取った機械が、次の動作へ移行する前の微細な遅延。
その声に押されるように、彼女は屋上へ向かった。
歩幅も、速度も、一定。
途中で誰とも目を合わせない。
柵の向こうに立ち、街を見下ろす。
「訂正しないと。」
その言葉もまた、自分のものではなかった。
風だけが答えた。
◇
午前九時三十一分。
駅のホーム。
遅延と遅刻、二つの正しさがぶつかる。
人々は立ち止まり、互いを見ない。
視線は前方へ固定されている。
「どっちなんだ。」
誰も答えない。
答えが存在しないのではない。
選択が許されていない。
男は白線を越え、静かに頷いた。
「間違えなければいい。」
その言葉の直後。
空間の奥で、何かが微かに反応した。
音ではない。
だが確実に、判断が記録された気配。
警笛が鳴り、視線は逸れなかった。
誰も目を閉じない。
誰も顔を背けない。
ただ、結果を確認するためだけに見続ける。
◇
午前九時四十分。
直樹は報告書に打ち込む。
『計画どおり実行可能。』
外で何人死のうと、指は止まらない。
キーを叩く音も、一定のリズムを刻んでいる。
人間の癖が消えていた。
「怖くないんですか。」
「処理が行われただけです。」
倉田の顔が歪む。
その歪みは、この空間では異物だった。
「おかしいだろ。」
その瞬間、全員が彼を見る。
首の動きが完全に一致する。
視線が一点へ収束する。
空気が圧縮される。
《疑問を確認しました》
それは先ほどよりも近かった。
倉田の頭の内側で、直接発生する。
言葉というより、判定結果。
疑問という状態が、異常として検出されたという通知。
声は単一ではない。
無数の同一音声が完全に重なり、位相のずれもなく再生される。
人間の脳が処理しきれないほどの均一性。
倉田の呼吸が止まる。
瞳が揺れる。
思考が分解されていく。
疑問という概念そのものが、削除されるように。
抵抗は数秒で消えた。
「……分かりました。」
声の抑揚が消える。
倉田は席に戻り、同じ音でキーボードを叩き始める。
先ほどまでの彼は、もう存在しない。
誰も疑わない。
誰も止めない。
窓の外では、救急車が増え続けていた。
サイレンの音が重なり合う。
だがその音すら、どこか遠くで処理されているだけのように感じられる。
◇
正午までに、七人が死亡した。
理由は違う。
場所も違う。
だが共通していたのは一つだけだった。
誰も、自分が間違っているとは思っていなかった。
そして。
間違いを検出する何かだけが、確実に存在していた。




