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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い
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第15話 生まれなかったもの 第5章 命を繕う者

 残響空間が閉じた。


 玄関は消えた。


 廊下も。


 寝室も。


 朝倉家を形作っていたものは、全て赤黒い肉の内側へ取り込まれていた。


 結衣の足元で床が脈打つ。


 どくん。


 柔らかく沈む。


 靴底の下で、幾つもの細い血管が逃げるように蠢いている。


 天井からは半透明の膜が幾重にも垂れ下がり、その奥に白い繭が浮かんでいた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 数え切れない。


 繭の内側では、小さな手足が絶えず動いている。


 押し付けられた指。


 開いた口。


 瞼の閉じた顔。


 消えた赤ん坊たちの輪郭が、膜の向こうで浮かんでは崩れていく。


 泣き声はなかった。


 代わりに。


 家全体が、低い胎動を繰り返している。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 結衣は八咫刃を構えたまま、美里から目を離さない。


 美里は床へ座り込んでいた。


 異様に膨らんだ腹を両腕で抱えている。


 苦しそうに肩を上下させながら。


 その顔には、笑みが浮かんでいた。


「もう少し……。」


 美里が囁く。


 涙が頬を流れている。


 恐怖の涙なのか。


 喜びの涙なのか。


 もう区別できない。


「あと少しで、会える。」


 腹の内側から、小さな手が浮かび上がった。


 美里はその形を指先でなぞる。


 愛おしむように。


「違う。」


 結衣が告げた。


 美里は顔を上げる。


「何が……?」


「それは、あなたの子じゃない。」


 一瞬。


 美里の笑みが消えた。


「……湊よ。」


 声が低くなる。


「私が分からないと思ってるの?」


「違うものを集めて作ってる。」


「違わない。」


「消えた子どもを使ってる。」


「湊よ!」


 美里が叫んだ。


 声に反応し、周囲の繭が一斉に震える。


《ママ。》


《ママ。》


《ママ。》


 無数の声が空間を満たす。


 全て同じ呼び方。


 全て違う声。


 美里は腹を庇うように身体を丸めた。


「この子を奪わないで。」


「最初から、あなたの子じゃない。」


「黙って!」


 床から白い糸が伸びる。


 臍帯に似た太い束。


 幾本もの糸が美里の背中へ突き刺さり、皮膚の内側へ潜り込んでいた。


 結衣は鎖を握る。


「《遮断・微断》」


 柄頭から紫電が弾けた。


 鎖を一気に駆け抜け、紫色の軌跡を描く。


 結衣が鎖を振るう。


 美里へ伸びていた白い糸の一本へ触れた瞬間。


 紫電が侵食だけを遮断した。


 糸が弾ける。


 床へ落ちる。


 切断面から透明な液体が溢れ、肉の床へ吸い込まれていく。


「……ああっ!」


 美里が腹を押さえた。


 苦痛に顔を歪める。


 だが。


 次の瞬間には、結衣を睨み付けていた。


「この子に何をしたの!」


「あなたを切り離してる。」


「殺す気でしょ!」


「このままなら、もっと人が消える。」


「関係ない!」


 結衣の目が細くなる。


 美里自身が口にした言葉だった。


 寄生体に操られた声ではない。


 確かな意志があった。


「湊が生まれるなら。」


 美里は笑った。


「他の子なんて、どうでもいい。」


 繭の中で、小さな輪郭が一斉に痙攣した。


 結衣は八咫刃を握る手へ力を込める。


 まだ。


 完全に戻れないと決まったわけではない。


 侵食を断てば。


 寄生体だけを滅すことができれば。


 そう考えた瞬間。


 背後から声がした。


「美里……。」


 結衣が振り返る。


 残響空間の奥。


 肉の壁へ半ば埋もれるように、慎一が立っていた。


 寝間着のまま。


 裸足。


 顔色は悪い。


 それでも意識はある。


「慎一……?」


 美里の表情が変わる。


 一瞬だけ。


 元の彼女へ戻ったように見えた。


 慎一は足を引きずりながら近付いてくる。


 床から伸びた糸が身体へ絡み付いている。


 腕。


 足。


 首。


 それでも止まらない。


「帰ろう。」


 震える声。


「病院へ行こう。」


「……無理よ。」


「俺がいる。」


「分からないでしょ。」


「分からない。」


 慎一は答えた。


「全部は分からない。」


 一歩。


「でも、お前が怖がってるのは分かる。」


 また一歩。


「だから帰ろう。」


 美里は涙を流した。


 腹を抱く腕から、僅かに力が抜ける。


「私……。」


 声が戻る。


「私、あの子たちを……。」


「今は考えなくていい。」


 慎一は美里の前へ膝をついた。


 肩へ手を置く。


「もう終わらせよう。」


「でも、湊が。」


「湊はいない。」


 慎一は泣きながら言った。


「俺たちの子は、もういない。」


 空間が停止した。


 鼓動が止まる。


 繭の動きも。


 壁の呼吸も。


 何もかもが凍り付く。


 美里は慎一を見つめた。


 表情が消えていた。


「……いない?」


「美里。」


「湊が、いない?」


 腹の内側で。


 何かが大きく動いた。


 ぐちゃり。


 幾つもの輪郭が一度に位置を変え、美里の皮膚が歪に盛り上がる。


「違う!」


 美里の声へ、別の声が重なった。


《いるよ。》


「ここにいる。」


《ここにいる。》


「私の中に。」


《ママの中に。》


 慎一の手が、美里の肩から離れる。


「美里……。」


「あなたが忘れたの。」


 美里はゆっくりと立ち上がった。


 腹を抱えたまま。


「湊をいなかったことにした。」


「違う。」


「また、二人で考えようって言った。」


「それは――」


「代わりを作ればいいと思ったんでしょ。」


「そんなことは思ってない!」


「この子を捨てた!」


 叫びと同時に、白い糸が慎一へ殺到した。


 結衣が鎖を振るう。


「《遮断・断滅》」


 紫電が鎖へ走る。


 同時に刃身へ分岐した。


 鎖が侵食を捉え。


 刃の紫電が、その攻撃だけを削除する。


 慎一へ迫った糸が空中で崩れ、白い粒子となって消える。


 だが。


 美里の背後から、さらに太い臍帯が突き出した。


 結衣の視界を避けるように床下へ潜り。


 慎一の足元から現れる。


「下!」


 結衣が叫ぶ。


 慎一が振り向くより早く。


 臍帯が腹部へ突き刺さった。


「……っ。」


 慎一の身体が持ち上がる。


 結衣が八咫刃を振るう。


 刃身へ紫電が走る。


「《削除・断祓》」


 黒紫の刃が臍帯を断つ。


 慎一が床へ落ちた。


 結衣は駆け寄る。


 だが。


 切断されたはずの臍帯の先端から、細い糸が無数に伸びていた。


 既に。


 慎一の身体の中へ入り込んでいる。


「慎一!」


 美里は夫へ駆け寄った。


 抱き起こす。


 慎一の顔は青ざめていた。


 呼吸が浅い。


「ごめんなさい。」


 美里が泣く。


「ごめんなさい、ごめんなさい……。」


 慎一は震える手を伸ばす。


 美里の頬へ触れる。


「……帰ろう。」


「うん。」


「二人で……。」


「うん。」


 一瞬だけ。


 美里は元へ戻った。


 その言葉へ縋ろうとした。


 しかし。


 腹の内側から声が響く。


《パパも、一緒。》


 美里の目が止まる。


《家族になる。》


 慎一の身体へ入り込んだ糸が脈打つ。


 どくん。


 その皮膚が白く透け始めた。


 血管。


 骨。


 内臓。


 身体を形作るものが、細い糸へ分解されていく。


「やめて!」


 美里は糸を掴む。


 引き抜こうとする。


 だが。


 腹の内側で、寄生体が喜ぶように跳ねた。


《パパが足りなかった。》


「違う!」


《これで家族になれる。》


「慎一を返して!」


 言葉とは裏腹に。


 美里の腕は、夫を強く抱き締めていた。


 逃がさないように。


 自分の腹へ押し当てるように。


 慎一の身体から解けた糸が、美里の皮膚へ吸い込まれていく。


「美里……。」


 最後に呼ばれた名前。


 それだけを残し。


 慎一の輪郭は崩れた。


 腕の中から重さが消える。


 寝間着だけが床へ落ちる。


 美里は空になった両腕を見つめた。


 動かない。


 声も出ない。


 やがて。


 腹の中で、低い鼓動が鳴った。


 どくん。


 美里の口元が、ゆっくりと持ち上がる。


「……これで。」


 涙を流したまま。


 幸福そうに笑う。


「三人でいられる。」


 結衣は八咫刃を構えた。


 もう戻れない。


 そう理解した。


 美里の意識は残っている。


 夫を失ったことも。


 自分が何をしたのかも。


 分かっている。


 それでも。


 寄生体を選んだ。


 いや。


 選ばされた末に。


 選んだと思い込むところまで壊されていた。


「朝倉美里。」


 結衣が名を呼ぶ。


 美里は腹を撫でながら顔を上げた。


「何?」


「終わらせる。」


「駄目。」


 穏やかな声だった。


「この子は、もうすぐ生まれるの。」


「生まれない。」


「生まれる!」


「それは子どもじゃない。」


「私が願った子よ!」


 白い糸が美里の全身を覆い始める。


 長い黒髪が伸びる。


 皮膚は白く変わり。


 寝間着が、古びた着物のような形へ溶けていく。


 産女。


 人がそう呼んだ姿へ。


 恐怖が、彼女を作り替えていく。


 美里は両腕を胸の前へ差し出した。


 そこには何もない。


 それでも。


 赤ん坊を抱いているように優しく揺らしている。


《ママ。》


《ママ。》


《ママ。》


 無数の声が美里から響く。


 結衣は鎖を左手へ巻き付けた。


 柄から紫電が走る。


「《遮断・消界》」


 紫電が鎖から刃へ分岐する。


 美里と家を繋いでいた侵食経路を鎖が捉え。


 刃が、その経路だけを削除した。


 白い糸が一斉に切れる。


 空間が大きく揺れた。


 美里が絶叫する。


《この子を奪うな!》


 無数の腕が床と壁から伸びる。


 結衣は踏み込んだ。


 刃身へ紫電が集中する。


 黒い刀身の輪郭が、鋭い紫光に包まれる。


「……ごめん。」


 その言葉は。


 美里へ向けたものだったのか。


 それとも。


 自分へ言い聞かせたものだったのか。


 結衣にも分からなかった。


「《削除・滅祓》」


 黒紫の刃が振り抜かれる。


 美里の胸を。


 白い着物を。


 母性を模した残響の輪郭を。


 一直線に貫く。


 美里の身体が止まった。


 顔から狂気が抜け落ちる。


 ほんの一瞬だけ。


 朝倉美里の目へ戻った。


「……湊。」


 小さく名を呼ぶ。


「ごめんね。」


 その身体が光の粒へ崩れていく。


 白い着物。


 長い髪。


 両腕。


 最後まで腹を守るように抱えたまま。


 美里が光となって崩れ落ちる。


 白い粒子は静かに宙を漂い、やがて残響空間へ溶けていった。


 結衣は八咫刃を下ろしたまま動かなかった。


 助けられなかった。


 止めることしかできなかった。


 その事実だけが胸へ重く残る。


 だが。


 鼓動は止まらない。


 どくん。


 どくん。


 家全体が胎動を続けている。


 床が裂ける。


 白い胎膜がゆっくりと持ち上がり、中心から大きく裂けた。


 そこから現れたのは、寄せ集められた肉体だった。


 赤子たちの骨。


 赤子たちの皮膚。


 赤子たちの心臓。


 生まれるはずだった命を繋ぎ合わせ、人の形だけを得た異形。


 胎児が笑う。


 その胸が縦に割れた。


 暗闇の奥から、一人の男が静かに姿を現す。


 黒い法衣。


 痩せた身体。


 知性だけを宿したような鋭い眼差し。


 男は穏やかに一礼した。


《私は天草玄察。》


《医術とは、人を救うためにある。》


《私は、その先へ辿り着いただけだ。》


 結衣は静かに睨み返す。


「救う?」


《未完成の命を完成させる。》


《失われた命へ肉体を与える。》


《これほど慈悲に満ちた行いが他にあるか。》


 玄察の声には迷いがなかった。


 本気だった。


 赤子を奪ったことにも。


 美里を利用したことにも。


 一片の罪悪感すら存在しない。


「美里さんは。」


 結衣が低く言う。


「子どもを失って苦しんでいた。」


《だから器になれた。》


「慎一さんは。」


《必要な部品だった。》


「赤ちゃんたちは。」


《世界へ固定される前の素材だ。》


 玄察は淡々と続ける。


《命は完成して初めて命となる。》


《私はそれを完成させる医師だ。》


 結衣の瞳から温度が消えた。


「……違う。」


 一歩、踏み出す。


「命は。」


「誰かを犠牲にして完成するものじゃない。」


 玄察は静かに笑う。


《理解できぬか。》


《だから人は救われない。》


 その瞬間。


 胎児の全身が裂けた。


 無数の腕が壁や床から噴き出し、結衣へ襲い掛かる。


 結衣は鎖を振るう。


「《遮断・絶界》」


 柄から紫電が走る。


 鎖が円を描き、侵食を一時的に否定する。


 だが。


 腕は止まらない。


 自ら砕けながら押し寄せる。


 遮断が軋む。


 結衣は歯を食いしばった。


「……っ。」


 数が多すぎる。


 削除では追いつかない。


 遮断では押し切られる。


 玄察は穏やかな口調のまま告げた。


《これが生命だ。》


《一つ滅びても、また生まれる。》


《人の願いがある限り、終わることはない。》


 結衣はゆっくりと息を吐いた。


「……だから。」


 八咫刃を逆手に持ち替える。


 黒い刃へ紫電が集中する。


 玄察の表情が初めて揺らいだ。


《何をするつもりだ――》


 結衣は床へ八咫刃を深く突き立てる。


 紫電が地面へ流れ込む。


 静寂。


 そして。


「《零域・断絶》」


 黒い円が足元から広がった。


 円周には紫電が奔り、触れた存在を音もなく焼却していく。


 腕が消える。


 胎膜が消える。


 壁が消える。


 床が消える。


 寄生体そのものが削除されていく。


 玄察はなお微笑んでいた。


《口惜しい。》


《だが、人はまた願う。》


《喪失は終わらぬ。》


《その時――》


 言葉は最後まで続かなかった。


 黒い円が玄察を包み込み、その存在を完全に焼却した。


 残響空間は崩壊を始める。


 結衣は膝をついた。


 激しい疲労が全身を襲う。


 呼吸が浅い。


 視界が霞む。


 それでも八咫刃だけは離さなかった。


 崩れゆく空間の中で、小さな光が幾つも空へ昇っていく。


 それは部品ではない。


 誰かの素材でもない。


 ようやく解放された、小さな命の残響だった。


 結衣はそれを見送り、小さく呟く。


「……もう、誰のためにも利用させない。」


 その言葉だけを残し、崩壊する残響空間は静かに現実へと還っていった。


世界が静かに反転する。


 赤黒い肉の壁が崩れ落ちる。


 鼓動は止み。


 白い繭は光へ還り。


 産声の代わりに響いていた無数の泣き声も、もう聞こえない。


 結衣の身体がゆっくりと沈む。


 膝が床へ着く。


 息が続かない。


 肺が焼けるように熱い。


 削除系祓詞、零域・断絶


 今の自分では、本来なら使うべきではない祓詞だった。


 八咫刃は耐えた。


 だが、その代償は術者へ返る。


 全身を巡る祓詞演算が限界を超え、筋肉が痙攣している。


 右腕は震え、感覚が鈍い。


 視界の端には紫色の残光が焼き付いたまま消えなかった。


「……まだ。」


 八咫刃を支えに立ち上がる。


「終わってない。」


 その瞬間。


 世界が音を立てて剥がれた。


 現実だった。


 朝倉家の居間。


 静まり返った部屋には、午後の日差しだけが差し込んでいる。


 肉の壁はない。


 繭もない。


 鼓動もない。


 まるで最初から何も起きていなかったような静けさだった。


 結衣は仏壇の前へ歩いた。


 そこには、小さな木箱が置かれている。


 蓋は閉じられたまま。


 そっと手を添える。


 冷たい。


 ただの木箱だった。


 中には何も残っていない。


 それでも。


 この箱へ何度も語り掛けた母親の想いだけは、微かに残っている気がした。


「……ごめん。」


 それは、美里へ向けた言葉だった。


 救えなかった。


 救われたかっただけの人だった。


 利用された。


 それだけだった。


 結衣は静かに黙礼し、玄関へ向かう。


 扉を開く。


 外の空気が肺へ流れ込んだ。


 黒い粒子が一つ、玄関から漂い出る。


 風にも流されず、空中に留まる。


 結衣はポケットからスマートフォンを取り出した。


 短く操作し、通話を繋ぐ。


 数コールの後、低い声が応じた。


『……終わったか』


「終わった。」


 結衣は淡々と答える。


「残響は滅した。」


 わずかな沈黙。


『そうか』


 それだけだった。


 だが結衣は続ける。


「……一つ、気になることがある。」


『言え』


「残響が、名乗った。」


 通話の向こうで、わずかに空気が変わる。


「天草玄察、って。」


 短い沈黙。


 だが中森は深くは踏み込まなかった。


『……人格がある残響か』


「そうなる。」


『なら強い』


 即答だった。


『名前を持つってのは、それだけで核があるってことだ』


『意思がある。記憶がある。執着がある』


『ただの残りカスとは別物だ』


 結衣は小さく息を吐く。


「実際、面倒だった。」


『だろうな』


 中森の声は変わらない。


『だが滅したなら問題ない』


「……うん。」


『現場はそのままにしとけ。後処理はこっちでやる』


「了解。」


 通話はそれで終わった。


 結衣はスマートフォンをしまう。


 黒い粒子はまだそこに浮かんでいる。


 だがもう、何も語らない。


 住宅街には夕暮れが近づいていた。


 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。


 平和な日常。


 ほんの数十分前まで、この家が異形の母胎になっていたとは誰も思わない。


 結衣はバイクへ向かう。


 足取りは重い。


 疲労は限界だった。


 それでも止まらない。


 八咫刃を鞘へ納める。


 エンジンを掛ける。


 低い振動が身体へ伝わる。


 アクセルを開く直前。


 朝倉家を一度だけ振り返った。


 もうそこには。


 普通の家しかなかった。


 それでも。


 誰かを想う祈りは。


 ほんの少し道を間違えるだけで、人を喰らう。


 その事実だけは変わらない。


 結衣は視線を前へ戻した。


「……全部、斬る。」


 夕暮れの住宅街へ、バイクが走り去る。


 その音だけが静かに遠ざかり。


 残された家は、何事もなかったように沈黙していた。

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