第15話「願われた子ども」 その1 生まれなかった声
彼女は、毎朝、仏壇の前で手を合わせていた。
朝食の準備をする前。
洗濯機を回す前。
出勤前に鏡で化粧を整える、その前に。
線香に火をつけ、
小さく息を吐いてから、静かに目を閉じる。
「……今日も、お願いします」
声は小さい。
誰に聞かせるわけでもない。
祈りの相手は、神でも仏でもない。
仏壇の中にある、小さな木箱。
そこに入っているのは、
生まれるはずだった子どもの、名前だけだ。
彼女は、三十二歳。
結婚して五年になる。
子どもは、いない。
正確には、
「生まれなかった」。
妊娠が分かったのは三年前。
安定期に入る直前で、
理由も分からないまま、失った。
医者は言った。
「よくあることです」と。
夫は言った。
「また、頑張ろう」と。
彼女は、笑って頷いた。
その日から、
彼女の中に「空白」が生まれた。
埋めようとすればするほど、
輪郭がはっきりしていく空白。
仕事に戻り、
家事をこなし、
夫と普通に会話をする。
外から見れば、
何も問題はなかった。
だが、夜になると、
必ず、夢を見る。
白い部屋。
音のない空間。
そこに、小さな影が立っている。
《……ママ》
最初は、声だけだった。
姿は、なかった。
次第に、
手が見えるようになり、
足が見えるようになり、
顔が、ぼんやりと浮かび上がってきた。
性別は分からない。
だが、確信だけはあった。
——この子は、私の子だ。
「ごめんね」
夢の中で、彼女は何度もそう言った。
「ごめんね、ごめんね……」
影は、首を振る。
そして、こう言う。
《……いいよ》
その声は、
あまりにも優しかった。
目が覚めると、
涙が枕を濡らしている。
だが、不思議と、
胸の痛みは軽くなっていた。
(…癒されている)
そう思った。
祈りが、届いているのだと。
彼女は、仏壇を置いた。
木箱を作り、
名前を刻んだ。
誰にも言わなかった名前。
「あなたは、ここにいる」
毎日、話しかけた。
「大丈夫だよ」
「ちゃんと、愛してる」
祈りは、少しずつ、
“会話”に変わっていった。
ある夜、
夢の中で、影が笑った。
《……ママ、寂しい?》
「……ううん」
彼女は、即座に否定した。
「ママには、パパもいるし」
影は、少しだけ首を傾げた。
《……でも》
声が、低くなる。
《……パパは、ママの全部じゃないよね》
その言葉に、
彼女の胸が、ひくりと動いた。
「……それは……」
答えられなかった。
翌日から、
家の中で、奇妙なことが起こり始めた。
子ども用の食器が、
流し台に置かれている。
買った覚えはない。
ぬいぐるみが、
ソファの端に座っている。
タグもついたまま。
「……あなた、買った?」
夫に聞くと、
怪訝そうな顔をされた。
「いや?」
その夜、夢の中で、影が言った。
《……用意したよ》
《ママが、寂しくないように》
彼女は、怖くなかった。
むしろ、
胸の奥が、温かくなった。
(この子は、ここにいる)
(私の祈りで、帰ってきた)
夫との会話は、
少しずつ減っていった。
仕事から帰ると、
彼女は仏壇の前に座る。
話す。
聞く。
声は、確かに、そこにあった。
《……ママ、外は嫌い》
《……ここがいい》
《……ここなら、ずっと一緒》
ある晩、
夫が言った。
「最近……変だぞ」
彼女は、笑った。
「何が?」
「……誰かと、話してるだろ」
一瞬、
心臓が止まったような気がした。
「……気のせいよ」
そう言った瞬間、
仏壇の奥で、何かが“軋んだ”。
その夜、夢は、変わった。
白い部屋ではない。
暗い、湿った空間。
天井から、
無数の糸が垂れ下がっている。
その中央に、
影が立っていた。
いや。
立っているのは、
“子ども”ではない。
複数の影が、
重なり合い、
人の形を模している。
《……ママ》
声は、確かに、子どものものだった。
だが、
その奥で、
別の声が、重なっている。
《……願ってくれて、ありがとう》
《……生まれたかった》
《……だから、代わりに——》
影が、
一歩、近づいた。
糸が、
彼女の足首に絡みつく。
《……一緒に、いよう?》
彼女は、声が出なかった。
胸の奥で、
“空白”が、
大きく口を開ける。
翌朝、
夫は、妻の姿を見つけられなかった。
仏壇の前に、
正座したまま。
穏やかな表情で。
その膝の上に、
ぬいぐるみが置かれていた。
木箱は、空だった。




