第15話 生まれなかったもの 第3章 欠けた命の行方
東湾県警本部。
午前九時十五分。
捜査本部の会議室には、連日の徹夜で疲労した空気が漂っていた。
壁一面には市内地図。
失踪現場を示す赤いピンは、すでに十本を超えている。
総合病院。
個人病院。
産婦人科。
そして住宅街。
場所に規則性はない。
被害者にも接点は見つからない。
それでも、どこかで“同じもの”が起きているという感覚だけが、全員の背筋にまとわりついていた。
会議室中央のモニターへ、防犯映像が映し出される。
「八件目です。」
担当刑事がリモコンを操作する。
深夜二時六分五十一秒。
保育室。
赤ん坊は眠っている。
規則正しい呼吸。
わずかに動く指先。
何も異常はない。
次の瞬間。
画面へ細かなノイズが走った。
それは通常の電波障害とは違っていた。
粒子のような、ざらついた揺らぎ。
まるで映像の奥に、別の層が重なったかのような歪み。
一秒。
二秒。
三秒。
映像は乱れていない。
録画も止まっていない。
時間も連続している。
それでも。
二時六分五十四秒。
保育器だけが空になっていた。
毛布はそのまま。
温度計も正常。
だが、そこにあったはずの“重み”だけが、跡形もなく消えている。
誰も入っていない。
誰も出ていない。
空間そのものが、ほんの一瞬だけ“抜け落ちた”かのようだった。
「もう一度。」
管理官の声で映像が巻き戻される。
三回。
五回。
十回。
結果は同じだった。
ノイズ。
空白。
消失。
「……消えている。」
誰かが呟く。
その声は、確信というよりも、理解を拒むような響きを帯びていた。
「編集ではありません。」
サイバー対策室が解析した結果が表示される。
映像改竄なし。
データ欠損なし。
フレーム抜けなし。
時計も正常。
すべてが“正常”であるにもかかわらず。
三秒前には存在していた命が、三秒後にはこの世界から切り離されている。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「誘拐では説明できません。」
若い刑事が口を開く。
その声には、わずかな震えが混じっていた。
「なら何だ。」
管理官の問いに、誰も答えられなかった。
部屋へ沈黙が落ちる。
それは単なる行き詰まりではない。
“踏み込んではいけない領域”の手前で、全員が足を止めているような沈黙だった。
高峰修一は資料をめくりながら、静かに口を開いた。
「失踪した赤ん坊だけを比較すると、共通点があります。」
モニターが切り替わる。
八人の乳児。
生年月日。
出生時刻。
出生体重。
「血液型も性別も一致しません。」
「親同士の接点もない。」
「経済状況も居住地もばらばらです。」
「ですが。」
高峰は次の資料を映した。
「全員、生後二週間以内です。」
室内の空気がわずかに張り詰める。
「偶然じゃないのか。」
「可能性はあります。」
「しかし。」
高峰は静かに続けた。
「八件とも、出生から十四日以内です。」
「十五日を超えた被害は一件もありません。」
管理官が腕を組む。
「理由は。」
「分からない。」
高峰は首を振った。
「でも、犯人がいるなら。」
「新生児だけを選んでる。」
その言葉は、どこか不自然だった。
“選んでいる”というよりも。
“条件に合うものだけが引き抜かれている”ような、そんな違和感。
会議室後方で鑑識官が資料を配る。
「もう一つあります。」
全員が顔を上げる。
「現場から共通して検出された微量成分です。」
封筒が机へ置かれる。
分析結果。
紙。
布。
木材。
皮脂。
どれでもない。
「正体不明。」
「有機物ですが、人間由来ではありません。」
「繊維状で、極めて柔らかい。」
鑑識官は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
「触感の報告では……。」
「温かい、と。」
ざわめきが広がる。
「採取時、まだ体温に近い温度を保っていました。」
「時間が経っても、完全には冷えません。」
「まるで……。」
鑑識官は言葉を絞り出す。
「生きている組織のように、ゆっくりと熱を保持している。」
誰も口を開かない。
「例えるなら。」
その一言が、妙に重く響いた。
「胎盤組織に近い構造です。」
部屋が静まり返る。
だが、それは単なる比喩ではなかった。
「ですが一致しません。」
「似ているだけです。」
「DNAも採取できません。」
「細胞構造も、既知の生物とは一致しない。」
「顕微鏡下では……。」
鑑識官は言葉を濁した。
「繊維が、わずかに動いているように見えるという報告もあります。」
誰かが息を呑む。
「錯覚の可能性は?」
「否定できません。」
「ですが、複数の検査員が同じ証言をしています。」
それは、証拠としては不十分だった。
だが、無視するにはあまりにも不気味だった。
高峰は報告書へ目を落とした。
その瞬間だった。
若い刑事が、小さく声を上げる。
「あれ……。」
全員が振り向く。
「どうした。」
「失踪時刻です。」
刑事は事件一覧を指差した。
二時十二分。
二時八分。
二時二分。
二時十五分。
二時五分。
「全部、二時台です。」
管理官は頷く。
「だから?」
「いや……。」
刑事は首を傾げる。
「昨日までは気付かなかったんですが。」
「全部。」
「二時十六分より前なんです。」
その言葉が落ちた瞬間。
会議室の空気が、わずかに冷えたように感じられた。
理由は誰にも分からない。
ただ、その数字には。
説明できない“境界”のようなものが潜んでいる気がした。
誰も意味を理解できなかった。
ただ、高峰だけは。
その数字を見た瞬間。
胸の奥へ、小さく、しかし確かな違和感が沈んだ。
二時。
残響事件。
異常現象。
これまで自分が関わってきたものと。
あまりにも一致しすぎている。
偶然ではない。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
高峰は机の下で静かにスマートフォンを取り出す。
画面を開く。
送信先は、一人だけだった。
真名井梓。
本文は短い。
『また二時だ。』
『今回は赤ん坊だけが消えてる。』
『嫌な予感しかしない。』
◇
中森安行の店には、表札がない。
昼間でも照明は薄暗く、古い真空管ラジオから微かなノイズだけが流れている。
店の奥。
仕事机の上には、警察では決して並ばない資料が積み重なっていた。
事件現場の写真。
匿名で流れてきた鑑識資料。
閉鎖された病院のカルテ。
闇市場で買い集めた電子ログ。
そして。
県警内部から流れてきた、ごく一部の捜査資料。
「……なるほどな。」
中森は一枚の写真を指で弾いた。
保育器。
空になったベッド。
そこへ丸を付ける。
「残ってる。」
鑑識報告書。
『正体不明有機繊維』
『胎盤組織類似』
『熱保持』
「違う。」
中森は小さく笑う。
「胎盤じゃねぇ。」
机の引き出しから、古びた大学ノートを取り出した。
二十年以上前。
ある祓屋が書き残した現場記録。
ページを開く。
そこには、一枚だけ手描きの図が残されていた。
『寄生体残響 第二成長段階』
横へ、小さく書き添えられている。
『肉体形成』
「やっぱりか。」
中森は煙草へ火を点けた。
紫煙が静かに天井へ昇る。
寄生体残響は、人へ憑依するだけでは終わらない。
成熟すると、自らの肉体を求め始める。
しかし。
残響に細胞はない。
骨もない。
血もない。
だから。
「借りる。」
その一言だけが、机の上へ落ちた。
資料を並べ直す。
生後六日。
九日。
三日。
十一日。
十三日。
「十四日以内。」
指が止まる。
「理由は単純だ。」
生まれたばかりの命は、まだ世界へ完全に固定されていない。
肉体も。
魂も。
現実との結び付きが弱い。
だからこそ。
寄生体はそこへ入り込みやすい。
「攫ってるんじゃねぇ。」
煙草の灰を落とす。
「部品にしてる。」
骨。
筋肉。
皮膚。
神経。
器官。
完成した赤ん坊が欲しいわけではない。
未完成だから価値がある。
世界へ定着し切る前の命だけを抜き取り、自分の身体へ組み込んでいる。
「悪趣味にも程がある。」
そのときだった。
机の隅へ置いた端末が、小さく音を鳴らす。
新しい資料が届く。
差出人不明。
添付ファイル一件。
開く。
病院の防犯映像だった。
一般公開されていない解析版。
ノイズ部分だけを拡大したもの。
中森は画面を止める。
「……は?」
静止した映像。
普通の人間ならノイズにしか見えない。
だが。
中森には分かった。
黒い長髪。
着物のように垂れた衣。
異様に長い両腕。
胸へ何かを抱いて歩く女。
「産女……。」
その名が自然と口をついた。
昔話で語られる妖怪。
子を失い、なお赤子を抱き続ける母。
だが。
違う。
「妖怪じゃねぇ。」
画面を拡大する。
女の顔は見えない。
いや。
見えないのではない。
存在していない。
そこへ映っていたのは、一人の女ではなかった。
幾重もの女たち。
流産。
死産。
乳児死亡。
子を失った母親たちの残響が折り重なり、一つの存在を形作っている。
「集合残響か。」
中森の表情から笑みが消えた。
「厄介だな。」
一人を祓って終わる相手ではない。
これは。
何人もの喪失が重なり、一つの母性だけを増幅させた寄生体。
そして、その中心には。
「宿主がいる。」
誰か一人。
現実で生きている母親。
その人間を核にして、寄生体は肉体を育てている。
中森は資料を閉じた。
考えるまでもない。
宿主を止めなければ。
失踪は終わらない。
赤ん坊は消え続ける。
寄生体は完成する。
そして。
「生まれる。」
その言葉だけは、口にするのも嫌だった。
完成した寄生体残響。
過去にも記録は一件しかない。
その被害は、一つの町を消した。
机の上へ視線を戻す。
最後の資料。
現場写真。
仏壇。
木箱。
毎朝祈る母親。
中森は、その写真だけをじっと見つめた。
「……お前か。」
確証はまだない。
だが、経験が告げている。
寄生体は必ず。
最も深い喪失を抱えた人間を巣にする。
スマートフォンを手に取る。
短く呼び出す。
数回のコール。
『……何。』
佐々木結衣だった。
「仕事だ。」
『場所は。』
「まだ行くな。」
珍しく中森が制した。
『……?』
「今回は残響を探すな。」
「母親を探せ。」
電話の向こうが静かになる。
「残響はもう家の中にはいない。」
「宿主と一緒に動いてる。」
『……寄生体。』
「ああ。」
中森は静かに答えた。
「しかも。」
「今までで一番、完成に近い。」
数秒の沈黙。
結衣が小さく息を吐く。
『間に合わせる。』
「頼む。」
通話が切れる。
中森は窓の外を見た。
昼間だというのに、空は薄く曇っている。
机の上には、新しい通知が一件。
《LIST of the Saved》
ゆっくりと更新される。
《No.39》
《No.40》
《No.41》
三つの空白。
まだ名前はない。
入力されるべき名前が、最初から存在していないかのように。
そこには、誰かが消された痕跡だけが残っている。
中森は目を細めた。
これは記録ではない。
救済でもない。
ましてや、名簿などではない。
順番だ。
組み上げるための順番。
欠けている部品を埋めるための、冷たい設計図。
空白は、まだ奪われていない命の場所だ。
だが同時に。
すでに“そこへ収まることが決まっている”場所でもある。
画面の数字が、わずかに揺れた気がした。
次に埋まるのは、誰だ。
いや――
もう、決まっている。




