第14話「祈りを欲しがる家」 その4 家はまだ生きている
反転は、音もなく起きた。
床が沈み、
天井が引き延ばされ、
壁が“内側”へと折れ込んでいく。
家が、裏返る。
結衣が立っているのは、もはや廊下ではなかった。
無数の梁と柱が絡み合い、
内臓のように脈打つ空間。
家そのものが、肉になっている。
畳は皮膚。
障子は薄い膜。
柱は骨。
天井だった場所から、
低く、重たい祈りの声が降ってくる。
『……守る……』
『……失わせない……』
『……この家を……』
声は一つではない。
父の声。
母の声。
そして、子どもの声。
だが、それらはもう
個として分かれていなかった。
重なり、溶け、
一つの“意志”になっている。
「……家族を名乗るな」
結衣は低く吐き捨てた。
足元で、床が盛り上がる。
木目が歪み、
そこから“腕”が生えてきた。
人間の腕だ。
だが、関節の位置が狂っている。
何本も、何本も。
それらが、
結衣の足を掴もうと一斉に伸びる。
結衣は跳んだ。
八咫刃の鎖を振るう。
「……《断祈》」
短い祓詞。
黒い刃が、腕をまとめて薙ぎ払う。
切断面から、
血ではなく、
紙片のようなものが溢れ出す。
祈りの文。
“家族を守る”という言葉が、
無数に刻まれた断片。
床に落ちると同時に、
それらは灰のように崩れた。
『……足りない……』
声が、苛立ちを帯びる。
家が、怒っている。
梁が軋み、
天井から“顔”が垂れ下がった。
父親の顔。
母親の顔。
子どもの顔。
どれも、穏やかに微笑んでいる。
だが、目だけが違う。
視線が、
結衣を通り越し、
“何か別のもの”を見ている。
『……あなたも……家族……』
声が、結衣の頭の中に直接響く。
『……ここにいれば……守られる……』
胸の奥が、きり、と締め付けられる。
一瞬、
兄・颯の顔が脳裏をよぎった。
もし。
あの時、
こんな“家”があったなら。
颯は、
救われていたのだろうか。
——違う。
結衣は、強く歯を噛み締めた。
「……守ってない」
声は低く、
だが、確かだった。
「奪ってるだけだ」
八咫刃を構え直す。
鎖が、空気を切って鳴る。
「祈りを理由に、
人を縛るな」
次の瞬間、
家全体が“収縮”した。
壁が迫り、
床がせり上がり、
逃げ場が消える。
結衣は、走った。
壁を蹴り、
梁を踏み、
八咫刃を引っ掛けて身体を引き上げる。
だが、
家は追ってくる。
柱が曲がり、
骨のような突起が飛び出し、
結衣の進路を塞ぐ。
『……祈れ……』
『……捧げろ……』
『……そうすれば……』
結衣は、足を止めた。
逃げない。
刃を、逆手に振りかざす。
「……《零域》」
低く、
しかしはっきりと。
次の瞬間、
八咫刃を中心に、
黒い“空白”が広がった。
音が消える。
祈りが、途切れる。
空間が、
“切り取られた”。
家の一部が、
存在しなかったかのように、
ごっそりと消失する。
『……ッ!?』
悲鳴が上がる。
結衣は、その空白の中に踏み込む。
奥。
この精神世界の“核”。
そこに、
人の形をした“塊”があった。
父。
母。
子。
三人が、
互いを抱き合うように絡まり、
一つの塊になっている。
顔は、穏やかだ。
だが、口元が、
不自然に引き攣っている。
『……守りたかった……』
声が、重なって響く。
『……間違ってない……』
結衣は、一歩ずつ近づいた。
「……守りたいって言葉を、
免罪符にするな」
八咫刃の刃先が、
塊の中心に向く。
「家族は、
閉じ込めるための理由じゃない」
鎖が、ぴんと張る。
結衣の声は、震えていない。
だが、
胸の奥で、
何かが確実に削れていく感覚があった。
「……終わり」
最後の祓詞を、
短く吐く。
「《零域・断絶》」
瞬間、八咫刃が紫電を纏う。
刃が、突き立てられた。
祈りの塊が、
一瞬、光を放つ。
その光の中で、
三つの顔が、同時に“安堵”の表情を浮かべた。
そして。
音もなく、
崩れ落ちた。
家が、
消えていく。
壁も、
床も、
祈りも。
すべてが、
黒い空白に吸い込まれ、
跡形もなく消失した。
結衣は、
空白の中に、ひとり立っていた。
——精神世界が、閉じる。




