第15話 生まれなかったもの 第1章 祈り続ける母
彼女は、毎朝、仏壇の前で手を合わせていた。
朝食を作る前。
洗濯機を回す前。
仕事へ出掛ける支度を始める、その前に。
線香へ火を点ける。
細い煙が、薄暗い和室の中をゆっくりと昇っていく。
香炉の奥には、小さな木箱が置かれていた。
位牌ではない。
遺骨も入っていない。
中に納められているのは、一枚の紙だけだった。
そこには、生まれるはずだった子どもの名前が書かれている。
朝倉 湊。
男の子か、女の子か。
それすら分かる前に考えた名前だった。
どちらでも使えるように。
どちらであっても、好きになれるように。
夫と二人で、何日も悩んで決めた。
「……おはよう。」
朝倉美里は、木箱へ向かって小さく声を掛けた。
三十二歳。
結婚して五年。
夫の慎一と、郊外の分譲マンションで暮らしている。
子どもはいない。
正確には。
一度だけ、いた。
三年前。
妊娠が分かった日のことを、美里は今でも鮮明に覚えている。
診察室。
医師の声。
渡された小さな写真。
黒い空間の中に浮かぶ、白い点。
それだけだった。
人の形には見えない。
顔も。
手も。
足もない。
それでも美里には分かった。
ここにいる。
自分の中に。
新しい命がいる。
慎一へ伝えたとき、彼はしばらく何も言わなかった。
驚いた顔で美里を見つめたあと、泣きながら笑った。
その夜、二人はまだ早いと言いながら、名前を考え始めた。
性別。
服。
ベビーベッドを置く場所。
保育園。
将来。
何も決まっていない命のために、何年分もの時間を用意した。
だが。
その時間は、突然止まった。
安定期へ入る少し前。
腹部に感じた、小さな違和感。
診察室で長く続いた沈黙。
医師が画面を見たまま、何度も確認していたこと。
最後に告げられた言葉だけは、今もよく思い出せない。
覚えているのは。
音がなかったことだけだ。
あるはずの音が。
聞こえなかった。
医師は説明した。
誰のせいでもない。
珍しいことではない。
原因が特定できない場合も多い。
次の妊娠へ影響するとは限らない。
どれも正しい言葉だった。
だが、美里には一つも届かなかった。
慎一は言った。
「また、二人で考えよう。」
優しい声だった。
責める言葉ではない。
忘れろとも言わなかった。
それでも美里には、その言葉が遠く聞こえた。
また。
その一言の中で。
湊という名前だけが、最初から存在しなかったものにされた気がした。
美里は笑って頷いた。
夫を困らせたくなかった。
自分だけが立ち止まっていると思われたくなかった。
仕事へ戻った。
家事も続けた。
友人の出産祝いにも参加した。
赤ん坊を抱かせてもらい、可愛いと笑った。
帰宅してから、風呂場で声を殺して泣いた。
それでも日々は進んだ。
身体は元へ戻った。
職場では、以前と同じように働けるようになった。
慎一とも普通に食卓を囲んだ。
外から見れば。
何も残っていなかった。
だが、美里の中には空白があった。
埋めようとするほど輪郭が濃くなる、欠けた場所。
時間では薄くならない。
別の何かでも埋まらない。
その空白に、最初に声が届いたのは。
流産から一年ほど経った夜だった。
夢の中。
美里は、白い場所に立っていた。
部屋、と呼べるのかも分からない。
壁があるのかどうかも曖昧で、視線を向けるたびに距離が変わる。
近いはずのものが遠くへ滑り、遠いはずのものがすぐ背後にあるような錯覚。
床に立っている感覚も不確かで、足裏は何にも触れていないように軽い。
それでも沈まない。
落ちもしない。
ただ、どこにも属していない場所に浮かんでいる。
音がなかった。
完全な無音ではない。
耳鳴りのような、何かが欠けていることを知らせる空白の圧だけが、薄く広がっている。
自分の呼吸すら、どこか遠くで起きている出来事のように感じられた。
その中に。
何かがあった。
最初からそこにあったのか。
今、現れたのか。
判断がつかない。
視線を向けた瞬間に、そこに「ある」と認識されるだけの存在。
影、と呼ぶには輪郭が曖昧すぎる。
光が遮られているわけでもない。
白の中に、白とは違う密度が滲んでいるような。
あるいは、そこだけが現実から切り取られて、別の層に沈んでいるような。
目を凝らすほど、形は崩れる。
見ようとする意識に反応して、存在の定義を拒むように揺らぐ。
それでも。
そこにいる、と分かる。
理由はなかった。
ただ、確信だけがあった。
影が、わずかに歪んだ。
揺れたのか。
近付いたのか。
距離の概念が成立しないため、判断できない。
《……ママ。》
声がした。
だが、それは音ではなかった。
空気を震わせるものではなく、鼓膜を通らない。
胸の奥。
空白だった場所へ、直接触れてくる感覚。
言葉というより、意味そのものが流れ込んでくる。
美里は息を止めた。
止めたはずなのに、呼吸がどうなっているのか分からない。
身体の境界も曖昧になり、自分がどこまでなのか判別できない。
それでも。
その声だけは、はっきりと分かった。
知っている。
一度も聞いたことがないはずなのに。
間違える余地がなかった。
「……湊?」
自分の声が出たのかどうかも分からない。
言葉を発した感覚だけが残り、音として存在したかは曖昧だった。
影は答えない。
ただ。
存在の密度が、わずかに変わった。
頷いたようにも見えるし、崩れたようにも見える。
美里はその場へ膝をついた。
膝をついたはずなのに、床に触れた感触はない。
それでも、姿勢だけが変わる。
声が出なかった。
何を言えばいいのか分からない。
謝りたい。
抱き締めたい。
会いたかったと伝えたい。
言葉が胸の奥で絡まり、最初に出たのは一つだけだった。
「ごめんね。」
影が揺れる。
揺れたのか、こちらの認識が歪んだのか分からない。
「守れなくて、ごめんね。」
《……いいよ。》
優しさが、直接流れ込んできた。
責める気配はない。
怒りもない。
ただ、受け入れる感覚だけが満ちる。
《ママのせいじゃないよ。》
その瞬間。
空白だった場所に、何かが満ちた。
温かさとも違う。
重さとも違う。
欠けていた輪郭が、内側から押し広げられるような感覚。
美里は泣いた。
涙が流れているのかどうかも分からないまま。
ただ、崩れるように泣いた。
夢の中で。
現実よりも確かな感触で。
目覚めたとき、枕は濡れていた。
胸には痛みが残っている。
それでも。
昨日までとは違っていた。
呼吸ができる。
空白の底へ、僅かに光が届いている。
「……会いに来てくれた。」
口に出した瞬間。
それは夢ではなくなった。
湊が帰ってきた。
自分を赦すために。
そう信じられた。
その朝から、美里は祈るようになった。
最初は写真だけだった。
母子手帳へ挟んでいた、小さな超音波写真。
次に木箱を買った。
湊の名前を書き、写真と一緒に納めた。
小さな香炉。
花立て。
水を入れるための器。
それらを一つずつ揃えた。
慎一には、気持ちを整理するためだと説明した。
彼は何も言わなかった。
否定もしなかった。
ただ、少し困ったように笑い。
「美里が楽になるなら。」
そう答えた。
仏壇へ手を合わせるたび、美里は夢の声を思い出した。
《ママのせいじゃないよ。》
それだけで、一日を始められた。
夜になると。
また白い部屋へ行けた。
二度目の夢では、影に小さな腕があった。
三度目には、足が見えた。
四度目。
影は美里へ向かって、ぎこちなく歩いた。
会うたびに。
少しずつ。
子どもの形へ近付いていく。
美里は疑わなかった。
自分が祈っているから。
愛しているから。
湊が、こちらへ戻ろうとしているのだと信じた。
ある朝。
いつものように木箱へ手を合わせた美里は、微かな音を聞いた。
こつ。
箱の内側からだった。
美里は顔を上げる。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
線香の煙だけが、ゆっくりと揺れている。
「……湊?」
返事はなかった。
だが、呼びかけた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
夢の中で感じたあの感覚に、似ている気がした。
気のせいだと打ち消そうとするほど、その違和感は輪郭を持つ。
美里は木箱へ手を伸ばした。
指先が、わずかに震えている。
蓋へ触れる。
その瞬間。
温かさがあった。
だが、それがどこから来ているのか分からない。
木の表面が温もっているのか。
自分の手の熱が返ってきているだけなのか。
判断がつかない。
触れているはずなのに、触れていないような感覚。
指先の境界が曖昧になる。
ほんの一瞬。
内側から、何かが触れ返してきたような気がした。
錯覚だと分かっている。
そう思った瞬間、温かさは消えかける。
だが、完全には消えない。
残っているのか、記憶しているだけなのか。
区別がつかない。
美里は手を離せなかった。
離したら、何かが終わる気がした。
あるいは。
何かが始まる気がした。
もう一度。
こつ、と音がしたような気がした。
今度は、耳ではなく。
指先の内側で。
確かめようとして、蓋に力を込める。
開けるべきかどうか。
その判断が、なぜかひどく遠い。
ただ。
そこに「いる」という確信だけが、静かに膨らんでいく。
線香の煙が、不自然に揺れた。
風はない。
窓も閉まっている。
それでも、煙は箱の方へ引き寄せられるように流れた。
美里は息を呑む。
だが、その音すら、自分のものかどうか分からない。
蓋の下で。
何かが、待っている。
そう思った瞬間。
温かさが、わずかに強くなった気がした。
それが現実なのか。
願いが形を持っただけなのか。
美里には、もう判断できなかった。
◇
美里は、木箱の蓋を開けなかった。
開ければ、そこに入っているものを確かめることになる。
一枚の超音波写真。
湊と書いた紙。
それだけ。
分かっている。
中に子どもなどいない。
手を伸ばしたところで、抱き上げられるものは何もない。
それでも。
蓋の向こうから伝わった温かさを、嘘にしたくなかった。
「……おはよう、湊。」
もう一度、呼び掛ける。
返事はない。
木箱も動かない。
線香の煙だけが、蓋の隙間へ細く吸い込まれていく。
美里はしばらく木箱へ触れたまま座っていた。
時間の感覚が薄れていた。
気付いたときには、慎一が背後へ立っていた。
「美里。」
声を掛けられ、美里は肩を震わせる。
「……何?」
「もう七時半だぞ。」
壁の時計を見る。
いつもなら朝食を終え、出勤の準備をしている時間だった。
「あ……。」
「具合悪いのか?」
「ううん。大丈夫。」
美里は木箱から手を離した。
指先に、まだ温もりが残っている。
慎一の視線が、木箱へ向く。
「何かあった?」
「どうして?」
「ずっと触ってたから。」
美里は一瞬だけ迷った。
木箱の中から音がしたこと。
触れ返されたように感じたこと。
湊が夢の中だけでなく、現実へ近付いている気がすること。
慎一にも話したかった。
父親なのだから。
本来なら、二人で喜ぶべきことだった。
だが。
「何でもない。」
口から出たのは、別の言葉だった。
「少し考え事してただけ。」
「そう。」
慎一はそれ以上聞かなかった。
拒絶したわけではない。
無関心でもない。
ただ、美里が話したくないのなら待とうとしている。
以前から変わらない優しさだった。
それなのに美里には、その距離が冷たく感じられた。
湊のことを忘れようとしている。
自分だけが、まだ立ち止まっている。
そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。
すぐに打ち消した。
慎一も悲しんでいた。
自分とは違う形で、耐えてきた。
分かっている。
それでも。
慎一が木箱へ目を向けるたび、湊をただの思い出として見ているような気がした。
美里にとっては違う。
湊は、まだそこにいる。
会いに来てくれる。
話し掛けてくれる。
それは思い出ではなかった。
その日の夜。
美里は白い場所へ立っていた。
以前よりも、空間の輪郭がはっきりしている。
白い床。
白い壁。
遠くにある天井。
どれも現実の部屋とは違う。
角がない。
継ぎ目もない。
全てが柔らかく湾曲し、自分を包むように続いている。
美里は周囲を見回した。
「湊?」
返事はない。
白い場所の奥。
小さな影が立っている。
前の夜よりも、はっきりしていた。
頭。
肩。
腕。
短い足。
三歳ほどの子どもに見える。
実際に生まれていたなら、それくらいの年齢だった。
影はゆっくりと近付いてくる。
一歩。
また一歩。
足音はない。
床にも触れていない。
それでも距離だけが縮まっていく。
「湊。」
美里は両腕を広げた。
影が胸へ飛び込んでくる。
抱き締めた。
はずだった。
腕の中に重さはない。
体温もない。
それでも、胸の奥が満たされていく。
欠けていた場所へ、形の合うものが押し込まれていく感覚。
《ママ。》
「会いたかった。」
《僕も。》
初めて。
影が、自分を「僕」と呼んだ。
美里は笑った。
涙が頬を伝う。
「男の子だったの?」
影は答えない。
ただ、美里の胸へ顔を埋める。
《ママは、僕が欲しかった?》
「もちろん。」
迷いはなかった。
「ずっと会いたかった。」
《今も?》
「今も。」
《どんな僕でも?》
美里の腕が、僅かに止まった。
「どうして、そんなこと聞くの?」
影は顔を上げない。
《僕、まだちゃんとできてないから。》
「ちゃんと?」
《手も。》
美里の腕の中で、小さな指が動く。
《足も。》
白い床へ、曖昧な足先が触れる。
《顔も。》
影が、ゆっくりと顔を上げた。
輪郭はある。
目の位置。
鼻の位置。
口の位置。
だが。
どれも、まだ窪みでしかなかった。
皮膚の下から押し出される途中のように、形が定まっていない。
美里の呼吸が止まる。
一瞬だけ。
怖いと思った。
その感情を悟られたくなくて、影を強く抱き締める。
「大丈夫。」
自分へ言い聞かせるように答えた。
「ゆっくりでいいよ。」
《本当?》
「ママが待ってるから。」
《手伝ってくれる?》
「何を?」
《ちゃんと、生まれるの。》
白い場所の奥で、何かが動いた。
影の背後。
壁だと思っていた白い面が、ゆっくりと膨らむ。
内側から押されるように。
一度。
また一度。
柔らかな膜の向こうで、細長いものが蠢いている。
美里は目を凝らした。
人の腕に見えた。
だが、一本ではない。
幾つもの細い影が絡み合い、白い膜の内側を這っている。
「……何?」
《僕だよ。》
腕の中の影が答える。
《まだ、足りない僕。》
声の奥へ。
別の音が混じった。
乳児の泣き声。
子どもの笑い声。
水の中でくぐもった呻き。
幾つもの声が、湊の声の下で重なっている。
美里は影から身体を離そうとした。
腕が動かない。
影の小さな両手が、美里の背中へ回っていた。
力は感じない。
それなのに離れられない。
《ママ。》
声が近い。
《僕を作って。》
白い膜が大きく脈打った。
どくん。
夢の中に、心音が響く。
美里のものではない。
腕の中の影からでもない。
空間全体が、一つの心臓になったように鳴っている。
《ママならできるよ。》
「私が……?」
《だって。》
影の顔へ、口だけが浮かんだ。
薄い裂け目。
両端がゆっくりと持ち上がる。
《僕を一番、欲しがってるから。》
美里は目を覚ました。
暗い寝室。
カーテンの隙間から街灯の光が差し込んでいる。
隣では慎一が眠っていた。
美里は激しく息を吸う。
心臓が速い。
寝間着は汗で濡れている。
夢。
そう思おうとした。
怖い夢だった。
悲しみが見せたもの。
それだけだと。
布団の中で身体を起こす。
その瞬間。
腹部に違和感が走った。
「……っ。」
痛みではない。
内側から。
ごく小さく。
何かが触れたような感覚。
美里は腹へ手を当てた。
何もない。
柔らかな皮膚。
いつもと変わらない身体。
手のひらへ意識を集中する。
しばらく待つ。
錯覚だった。
そう思い、手を離そうとしたとき。
とん。
内側から、もう一度。
小さく押し返された。
美里の息が止まる。
胎動。
かつて。
一度も感じるところまで辿り着けなかったもの。
それがどんな感覚なのか、美里は知らない。
それでも。
他のものだとは思えなかった。
「……湊?」
暗闇へ向かって呼び掛ける。
慎一は起きない。
部屋は静かなまま。
返事もない。
だが。
腹の奥から、温かさが広がっていく。
恐怖は、少しずつ薄れた。
代わりに。
喜びが満ちていく。
夢の中で見た、形の定まらない顔。
白い膜の向こうを這っていた無数の影。
声へ混じった、知らない子どもたちの泣き声。
それらを押し流すように。
一つの確信だけが、美里の中へ根を下ろした。
湊が帰ってきた。
今度こそ。
自分の中へ。
美里は腹を撫でた。
「大丈夫。」
小さく囁く。
「……今度は、ちゃんと産んであげるから。」
寝室の外。
誰もいない和室で。
木箱の蓋が、ゆっくりと持ち上がった。
隙間から。
細い黒い指が、一本だけ伸びた。
指は畳へ触れる。
何かを探すように動き。
やがて、美里の眠る寝室へ向きを変えた。
ざり。
爪が畳を擦る。
木箱の内側から。
二本目の指が、ゆっくりと現れた。




