第12話「赦しを縫い合わせたもの」 その5 仇として名を刻む
夜明け前の冷たい風が、廃マンションの隙間を抜けていく。
精神領域から戻った直後、
佐々木結衣はその場に立っていられなかった。
膝が折れ、
足元が崩れる。
「……っ」
声にならない音が喉から漏れた瞬間、
真名井梓は迷わず腕を伸ばした。
肩を抱き、
その体重を受け止める。
結衣は、抵抗しなかった。
支えられたまま、
額を梓の胸元に押し付ける。
「……ぁ……」
それが、崩れた合図だった。
嗚咽が、抑えきれなくなる。
結衣は、声を殺すこともせず、
小さく、子どものように泣いた。
「……お兄ちゃん……」
想いが、何度も零れる。
「…ずっと…会いたかったのに……」
握っていた拳が、
力を失って開く。
怒りも、復讐も、
すべて流れ落ちたあとに残ったのは、
どうしようもない恋慕だった。
兄として。
家族として。
世界で一番、大切だった存在。
梓は、何も言わなかった。
慰めの言葉も、
正しさも、
今は要らない。
ただ、結衣が崩れるのを許す。
肩を抱く腕に、
静かに力を込める。
「……私が……」
結衣の声が、擦れる。
「……何で……
守れなかったの……」
梓は、首を振る。
「……あなたのせいではありません」
短く、それだけ言った。
それで十分だった。
どれくらいの時間が経ったのか、
分からない。
やがて、結衣の泣き声が、
少しずつ落ち着いていく。
肩の震えが、止まる。
深く息を吸い、
結衣は、ゆっくりと顔を上げた。
目は赤い。
だが、そこにあるのは、
先ほどとは違う光だった。
「……ごめん」
それだけ言う。
「……取り乱した」
梓は首を振る。
「必要な時間でした」
結衣は、一度だけ視線を下げ、
それから――前を向いた。
夜明けの空。
薄く染まり始めた雲。
そこに、兄の姿はない。
もう、戻らない。
それを、ようやく受け入れた。
「……私は」
一人称が、静かに落ちる。
「もう、迷わない」
梓は、黙って聞く。
「颯を取り込んだ、
天草四郎」
その名を、
はっきりと口にする。
「直接じゃない。
それでも……」
一拍、置く。
「許せない…」
声は低く、
冷えていた。
怒鳴らない。
震えもしない。
それが、本物の決意だった。
「私は、
あいつを追う」
復讐を、否定しない。
躊躇もない。
「私が終わらせる」
梓は、止めなかった。
「……一人で行く、とは言いませんよね」
結衣は、少しだけ笑った。
乾いた笑いだ。
「別に、期待してない」
「それでも」
梓は答える。
「重なれば、並びます」
結衣は、一瞬だけ視線を逸らし、
すぐに戻す。
「……好きにすれば」
それだけ言って、
バイクに向かう。
エンジン音が、夜明けに響く。
走り去る背中には、
もう迷いはなかった。
復讐者としての輪郭が、
再び、はっきりと立ち上がっている。
梓は、その背を見送りながら、
八鍵を握り直した。
怒りで進む者。
修正を選ぶ者。
立場は違う。
だが、
同じ敵を見ている。
(……必ず、また会う)
次に並ぶときは、
それぞれが選んだ答えを携えて。
天草四郎という鵺を、
完全に終わらせるために。
夜が明けた。
世界は、何事もなかったように動き出す。
だが、復讐の物語は、
ここから始まる。




