第13話 消えない名簿 第4章 礼拝堂の向こう側
午後九時十三分。
規制線の黄色いテープが、夜風に小さく揺れていた。
擦れるたび、かすかなビニール音が耳に残る。
河島涼が死亡したマンション。
警察車両はすでに引き揚げ、鑑識の姿もない。
現場保存のため立入禁止となった建物だけが、夜の住宅街へ取り残されている。
結衣はオートバイを路地へ停めると、ヘルメットを外した。
湿った夜気が頬を撫でる。
だがその湿り気は、どこか生温く、肌にまとわりつくようだった。
誰もいない。
虫の声だけが聞こえる。
――いや。
耳を澄ますと、その虫の声すら、どこか遠く、薄く引き延ばされている。
それなのに。
静けさが不自然だった。
生き物の気配ではない。
もっと深い場所で、空気そのものが息を潜めている。
肺に入る空気が、わずかに重い。
吸い込むたび、胸の奥に冷たい膜が張るような違和感が残る。
結衣は規制線をまたいだ。
躊躇はない。
音も立てない。
古びた階段を上る。
一段。
また一段。
コンクリートへ靴底が触れるたび、乾いた反響だけが返ってくる。
だがその反響は、わずかに遅れて戻ってきた。
まるで、階段の奥にもう一つの空間があり、そこから音が返ってくるかのように。
二階。
廊下の照明は半分ほど消えていた。
残った蛍光灯も、不規則に明滅を繰り返している。
白い光。
闇。
白い光。
闇。
その切り替わりのたび、空気の温度が微かに上下する。
光のときはぬるく。
闇のときは、骨に触れるような冷たさ。
その繰り返しの中で、廊下の奥行きだけが少しずつ伸びているように見えた。
鼻をかすめるのは、古い建物特有の湿った匂い。
だがその奥に、わずかに混じる。
鉄のような、乾いた血のような匂い。
河島の部屋は突き当たりだった。
規制線。
封印テープ。
警察の封印紙。
すべて、そのまま残されている。
だが近づくにつれ、空気がさらに重くなる。
耳鳴りのような低い振動が、鼓膜の奥で微かに鳴り続けていた。
結衣はドアノブへ手を掛けた。
金属は異様に冷たい。
指先の熱を奪うように、じわりと冷えが広がる。
鍵は掛かっている。
当然だった。
だが次の瞬間。
ノブが静かに回る。
鍵を開けた感触はない。
力も入れていない。
それでも扉だけが、内側へゆっくりと開いていった。
蝶番が軋む音はしない。
代わりに、空気が擦れるような、低い呻きが耳の奥で鳴った。
部屋は暗い。
照明は点かない。
月明かりだけが窓から差し込み、床へ細い帯を落としている。
その光は、どこか濁っていた。
埃ではない。
もっと粘ついた何かが、光そのものに混じっているような。
中央。
河島が倒れていた場所。
そこだけが、わずかに黒く染みて見えた。
血ではない。
焦げ跡でもない。
光だけを吸い込むような黒。
見ていると、視線が引きずり込まれる。
奥行きがある。
床の上にあるはずなのに、底が見えない。
結衣は部屋へ一歩踏み込む。
その瞬間だった。
玄関の扉が、音もなく閉まる。
空気が一瞬、圧縮されたように重くなる。
鼓膜がわずかに内側へ押し込まれる感覚。
振り返らない。
結衣は視線を黒い染みへ向けたまま、小さく息を吐く。
吐いた息が、白く濁った。
室内の温度が、急激に下がっている。
「……いる。」
声は低く、しかし確信に満ちていた。
八咫刃へ手を添える。
柄を握った、その瞬間。
部屋中の空気が、ゆっくりと軋み始めた。
耳鳴りが強くなる。
低い唸りが、床下から、壁の内側から、天井の裏から、同時に響いてくる。
壁紙が波打つ。
内側から押し上げられるように、膨らみ、沈む。
天井が歪む。
見えない重みが、上から押し潰しているかのように。
床板の木目が、まるで墨を流したように溶け始める。
黒が広がる。
ゆっくりと。
確実に。
時計の秒針が止まった。
その瞬間、時間の流れが断ち切られたような静寂が訪れる。
冷蔵庫の駆動音が消える。
街の音も消える。
代わりに、何かが呼吸している音だけが残る。
湿った、重い呼吸。
どこからともなく。
すぐ背後から聞こえるようでもあり、足元から響いてくるようでもある。
現実が、一枚ずつ剥がれ落ちていく。
空気の密度が変わる。
重力がわずかに歪む。
結衣は静かに八咫刃を抜いた。
黒い刀身が闇を裂く。
その刹那。
ワンルームだった部屋は、跡形もなく姿を変えていた。
高い天井。
冷え切った石の匂い。
湿った空気が肺に入り、胸の奥を刺す。
長く伸びる石畳。
足音が、遅れて何重にも反響する。
無数の長椅子。
その木材は古く、触れれば崩れそうなほど乾いているのに、どこか湿っている。
そして。
闇の奥へ続く、巨大な礼拝堂。
空気は重く、圧し掛かるように沈んでいる。
耳の奥で、低い祈りが響く。
言葉は聞き取れない。
だが意味だけが、直接脳へ流れ込んでくる。
どこからともなく、誰かが祈る声だけが静かに響いていた。
祈りは、途切れていなかった。
いや――途切れるという概念そのものが、この空間には存在していないかのようだった。
男とも。
女とも。
老人とも。
子どもとも。
あるいは、そのどれでもない何かとも判別できない声。
それらが重なり合い、溶け合い、互いを侵食しながら、一つの音として礼拝堂を満たしている。
だがそれは旋律ではない。
意味を持たないはずの音が、意味だけを持って耳の奥へと流れ込んでくる。
理解できないはずなのに、理解してしまう。
理解した瞬間に、何かが削り取られていく。
結衣はゆっくりと石畳へ足を下ろした。
靴音が響く。
一度。
二度。
三度。
――四度。
結衣は足を止めた。
踏み出したのは三歩のはずだった。
だが、確かに四つ目の音が鳴った。
遅れてではない。
同時でもない。
ほんのわずかに、意識の隙間へ滑り込むように。
まるで「最初からそこにあった音」を後から認識させられたかのように。
振り返らない。
振り返るという行為そのものが、この空間では意味を持たないと直感していた。
背後に何かがいるのではない。
背後という概念が、すでに曖昧になっている。
視線を向けなくても、見られている。
いや――見られているのではない。
「見られていた」という事実だけが、後から確定する。
皮膚の内側へ、冷たいものが這い込む。
長椅子が並ぶ。
整然と。
規則正しく。
だがその規則は、どこかで破綻していた。
列の間隔が微妙にずれている。
奥へ進むほどに、椅子の数が増えている。
視界に収まる数と、実際に存在する数が一致しない。
どの席にも人影はない。
それでも座面は沈み、背もたれはわずかに軋み続けている。
誰かが座っている。
いや――座っていた。
いや――これから座る。
時間の順序が、ここでは意味を持たない。
結衣は祭壇へ近付く。
石造りの台座。
その表面には無数の細かな傷が刻まれている。
文字のようにも見える。
だが視線を向けた瞬間、それらはただの亀裂へと変わる。
見ていない時だけ、意味を持つ。
奥に立つ十字架。
巨大なそれは、遠目には確かに十字の形をしていた。
だが近付くほどに、その形は崩れていく。
縦と横が交差していない。
接しているだけでもない。
互いにずれている。
それでも「十字である」と認識させられる。
認識が先にあり、形が後からそれに従って歪む。
結衣は足を止めた。
「……違う。」
声は小さく、しかし確信に満ちていた。
ここは祈りの場所ではない。
ここは礼拝堂ではない。
礼拝堂という概念を模倣し、そこへ残響を詰め込んだだけの、空洞だった。
その瞬間。
祭壇の上に置かれた書物が、音もなく開いた。
ぱらり。
ぱらり。
ページがめくられる。
だがその動きは、風でも力でもない。
ページ自身が、自らを剥がしている。
紙ではない。
薄く、柔らかく、湿り気を帯びたそれは、皮膚に酷似していた。
めくられるたびに、微かな音がする。
裂ける音。
剥がれる音。
そこへ黒いものが滲み出る。
文字ではない。
形を持たない黒が、無理やり意味へと押し固められていく。
結衣の視界に、それが焼き付く。
読めない。
だが理解してしまう。
理解した瞬間、理解したという事実だけが残り、内容は消える。
――救済。
――赦し。
――選別。
――執行。
言葉ではない。
概念そのものが、直接脳へ刻み込まれる。
結衣は動じない。
八咫刃を静かに構える。
その刃がわずかに震えた。
恐怖ではない。
拒絶でもない。
ただ、この空間そのものを「異物」として認識した反応だった。
その瞬間。
祈りが止んだ。
唐突に。
完全に。
音が消えたのではない。
音という現象そのものが、この空間から切り取られた。
静寂ですらない。
何も存在しない空白だけが広がる。
次の瞬間。
祭壇の奥。
十字架の影が、ゆっくりと剥がれ落ちた。
影が、床から浮き上がる。
立体を持つ。
それは人影の形をしていた。
白い法衣。
だがその白は、光を反射しているのではない。
周囲の色を奪い取った結果として、白く見えているだけだった。
裾は床を擦っている。
いや、擦っていない。
床との接触が曖昧で、触れているようにも、浮いているようにも見える。
頭巾の奥は暗闇。
だがその暗闇は、奥行きを持たない。
覗き込めば、そこに自分の視線が吸い込まれていく。
袖口から覗く指。
黒い。
ただ黒いのではない。
光を拒絶する黒。
存在そのものが、周囲の輪郭を侵食している。
一本。
また一本。
指が伸びる。
関節の数が合わない。
曲がる方向が違う。
それでも「指」として認識させられる。
影は一歩、前へ出る。
足音はない。
だが礼拝堂全体が、内側から軋む。
石が悲鳴を上げる。
空間そのものが、押し広げられている。
白い法衣が、ゆっくりと頭を傾ける。
結衣を見ている。
いや――見ているという行為が成立する前に、「見られている」という結果だけが確定する。
頭巾の奥。
そこにあるものが、ゆっくりと形を成す。
顔ではない。
一つではない。
無数の輪郭が、互いを押し潰しながら浮かび上がる。
泣き顔。
笑顔。
祈る顔。
絶叫する顔。
腐敗した顔。
まだ生まれていない顔。
それらが同時に存在し、同時に崩れ、同時に再構築される。
どれもが「本物」であり、どれもが「偽物」だった。
そして。
礼拝堂の奥から、声が響く。
それは一つの声ではない。
無数の声が重なり、互いを打ち消しながら、それでも一つの意味だけを残す。
《――救われますか。》
優しい声だった。
慈しむような響きだった。
だがその優しさは、選択肢を与えるためのものではない。
すでに決定された結果を、確認するためだけの問いだった。




