第8話 願いを奪うもの 第5章 封じられた願い
視界が白く弾け、次の瞬間、彼女は床へ膝をついていた。
「……戻った……」
荒い呼吸の中で呟く。
そこは現実世界。
古びた神社の拝殿だった。
軋む床板、剥がれかけた柱の塗装、長く手入れされていない空気。
「真名井!」
高峰の声が飛ぶ。
振り向くと、彼は一人の男を押さえつけていた。
坂本だった。
だが。
その目は虚ろだった。
焦点が合っていない。
呼びかけにも反応しない。
「確保はした。」
高峰が歯を食いしばる。
「だが……正気に戻らない!」
坂本はただ、天井を見つめていた。
何も映していない瞳で。
何も感じていない顔で。
まるで中身だけが抜け落ちたように。
梓はゆっくりと立ち上がる。
そして坂本の前に膝をついた。
「……すいません。」
小さく呟く。
精神世界での戦い。
封印という選択。
その代償が、ここにあった。
弓削道鏡は封じられた。
その残響もまた、ここで断ち切られた。
これ以上、新たな被害者が生まれることはない。
だが。
既に侵されてしまったものは――すぐには戻らない。
坂本の人格は、深く沈んだままだった。
梓は静かに坂本の手を取る。
「……大丈夫です。」
「まだ終わっていません。」
その声は、誰に向けたものだったのか。
坂本か。
高峰か。
それとも、自分自身か。
誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは。
これは終わりではないということ。
封印された弓削道鏡。
止められた被害。
それでも残された歪み。
――そして、その歪みは、ゆっくりと戻り始めていた。
坂本の指先が、かすかに震える。
ほんのわずか。
だが確かに、反応があった。
梓は息を呑む。
「……戻り始めています。」
高峰が顔を上げる。
「本当か?」
「はい。」
「封印されたことで、残響の影響は弱まっています。」
「時間はかかりますが……」
「少しずつ、元に戻っていきます。」
その言葉に、高峰は安堵の息を漏らした。
「そうか……」
「助かるんだな。」
だが、梓の表情は晴れなかった。
「ただし。」
静かに続ける。
「それは、すべてに当てはまります。」
「……どういう意味だ?」
梓はゆっくりと視線を落とす。
「願いによって変えられたものも、同じです。」
「回復した者。」
「幸福になった者。」
「本来とは違う形で満たされた人たちも――」
「時間とともに、元の状態へ戻っていきます。」
高峰は言葉を失った。
「……それは……」
「つまり……」
「はい。」
梓は静かに頷く。
「救われたと思っていた人たちも、また失うことになります。」
「ゆっくりと。」
「確実に。」
拝殿の中に、重い沈黙が落ちた。
誰もが望んだはずの願い。
それが叶った世界。
だがそれは、歪んだ形で成立していたに過ぎない。
だからこそ。
修正される。
時間をかけて。
容赦なく。
坂本の手を握る梓の指に、わずかな力が返ってくる。
それは希望だった。
同時に――別の誰かにとっては、喪失の始まりでもあった。
梓は静かに目を閉じる。
「誰かを救えば、誰かが失う。」
「それでも。」
「歪みは、正さなければならない。」
高峰は何も言えなかった。
ただ、坂本を見つめる。
ゆっくりと戻り始めた命と。
これから失われていくであろう、誰かの幸福を思いながら。
夕暮れの光が、拝殿の床へ差し込む。
その光は、どこまでも静かで。
どこまでも残酷だった。
救急隊員が静かに坂本を担架へ乗せていく。
呼吸は安定している。
命に別状はない。
だが、その瞳だけは何も映していなかった。
「脳波は正常です。」
医師が困惑した表情で言う。
「記憶障害とも違う……。
人格反応だけが極端に低下しています。」
「このままでは、日常生活への復帰は難しいかもしれません。」
その言葉に、高峰は難しい顔のまま坂本を見送った。
「生きている。」
「でも、生きているだけだ。」
梓は静かに頷いた。
「いいえ。」
「回復します。」
医師が顔を上げる。
「回復……?」
「はい。」
「ただ、今は心が深く沈んでいる状態です。」
「意識も曖昧で、自分自身をうまく認識できていません。」
梓は坂本の顔を見つめながら続ける。
「無理に刺激を与えると、かえって状態が悪化します。」
「しばらくは安静にしてください。」
「時間をかけて、ゆっくりと戻っていきます。」
医師は戸惑いながらも頷いた。
「……分かりました。」
「経過を慎重に観察します。」
担架が運ばれていく。
その背を見送りながら、高峰が低く呟いた。
「戻るのか。」
「本当に。」
「はい。」
梓は迷いなく答える。
「完全ではないかもしれません。」
「でも、失われたわけではありません。」
「ただ、深く沈んでいるだけです。」
高峰はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「初めてだな。」
「助けられなかったと思った事件は。」
梓は首を横に振る。
「助けられなかったわけではありません。」
「これ以上、被害は増えません。」
「弓削道鏡を封印しました。」
「でも。」
「修正は終わっていません。」
高峰は眉を上げた。
「終わってない?」
「はい。」
「封印しただけです。」
「これから少しずつ。」
「時間をかけて修正していきます。」
神社の奥へ目を向ける。
古びた社殿は静まり返っていた。
先ほどまで感じていた圧倒的な威圧感はない。
それでも、完全に消えたわけではなかった。
社殿の奥。
本殿のさらに奥。
誰にも見えない場所で、白い封印術式が静かに回転している。
その中心には、弓削道鏡が眠っていた。
暴れることもない。
消えることもない。
ただ、長い時間をかけて、自らの願いと向き合うために。
梓は深く一礼した。
「また来ます。」
「……何度でも。」
「あなたが本当の願いを思い出せる、その日まで。」
その瞬間だった。
胸元の量子暗号札が、かすかに震えた。
祓詞の残響が、まだ微かに札へ残っている。
だが、それはただの余波に過ぎない。
梓はゆっくりと札を握りしめた。
(これは、私の仕事だ。)
(誰かに任せるものじゃない。)
高峰が隣へ並ぶ。
「どうした、何かあったか。」
梓は静かに首を振った。
「いいえ。」
「ただ……。」
「これから先、修正だけでは終わらない事件が増えるかもしれません。」
「封印し、長い時間をかけて向き合う残響が。」
高峰は苦笑する。
「仕事が増えるな。」
「はい。」
「でも、逃げるわけにはいきません。」
梓はもう一度、社殿の奥を見つめた。
白い封印術式は静かに回り続けている。
あれは終わりではない。
始まりだ。
「時間がかかっても。」
「必ず、修正します。」
その声は小さかったが、揺るぎなかった。
二人は石段をゆっくり下り始めた。
山には夕暮れが近づいている。
木漏れ日が石畳へ長い影を落とす。
その影は、どこまでも自然だった。
書き換えられていない。
誰のものでもない。
今を生きる人の影だった。
石段を下り切ったところで、高峰がふと思い出したように口を開く。
「真名井。」
「中森には報告するのか。」
「もちろんです。」
「今回の封印は、定期的な点検が必要になりますから。」
「また金を取られるぞ。」
「……きっと。」
「高いでしょうね。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
事件は終わった。
だが。
世界を書き換えようとした祈りは、まだ眠っている。
いつか再び目覚めるのか。
それとも、本当の願いを思い出し、静かに修正されるのか。
それは誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
祓屋とは、残響を消す者ではない。
壊れた祈りを、本来あるべき姿へ戻す者である。
その日、真名井梓は初めて知った。
すべての残響が、今を生きる自分たちだけで修正できるわけではないことを。
そして――。
世界には、時間そのものを修正として必要とする祈りが存在することを。




