番外編2 佐々木結衣 前史――喪失と反転―― 第1章 影が差す家
佐々木結衣は、幼い頃から兄の背中を追っていた。
兄の颯は、結衣より六つ年上だった。
大きく。
温かく。
どこにいても迷わない。
幼い結衣にとって、その背中は夜の海に立つ灯台のようなものだった。
両親は共働きだった。
平日の帰宅は遅く、夕方から夜にかけて、家には兄妹だけになることが多かった。
玄関の鍵を閉めるのは、いつも颯の役目だった。
冷蔵庫に用意された夕食を温めるのも。
風呂を沸かすのも。
結衣が翌日の時間割を揃えたか確認するのも、颯だった。
「結衣。国語の教科書、入ってないぞ。」
「明日、国語ないもん。」
「ある。時間割見ろ。」
「……ある。」
「だろ。」
颯は得意げに笑い、教科書を結衣の鞄へ入れた。
それが少し腹立たしくて、結衣は頬を膨らませる。
けれど、嫌ではなかった。
学校で嫌なことがあった日も。
友達と言い合いをした日も。
テストの点が悪かった日も。
帰宅した颯が台所から顔を出し、
「腹減ったな。」
そう言えば、一日の嫌なことが少しだけ薄くなった。
颯は、何でもできた。
勉強も。
運動も。
人付き合いも。
先生から信頼され、友人から頼られ、両親から期待されていた。
その期待を、颯は重荷だとは言わなかった。
頼まれれば引き受ける。
困っている者がいれば助ける。
誰かに礼を言われれば、照れたように笑う。
周囲の人間は、そんな颯を優しい人間だと言った。
結衣もそう思っていた。
だが、他人が知らない颯を、結衣は知っていた。
冷蔵庫に一つだけ残っていたプリンを、半分ずつに分けること。
テレビのくだらない場面で、妙に大きな声を出して笑うこと。
寝起きが悪く、目覚まし時計を三つ置いていること。
結衣が泣いている時は、理由を無理に聞こうとしないこと。
ただ隣に座り、大きな掌を頭へ載せること。
「……重い。」
「頭が?」
「手。」
「失礼だな。慰めてるのに。」
「頼んでない。」
「じゃあ退ける。」
「……そのままでいい。」
颯は笑った。
結衣も、少しだけ笑った。
頭へ置かれた掌は、大きくて温かかった。
その温度さえあれば、世界はまだ正しい場所にある。
結衣は本気でそう思っていた。
颯は、結衣にとって最初の拠り所だった。
家族という言葉を形にすれば、きっと兄の姿になる。
何があっても、颯がいる場所へ帰ればいい。
結衣の世界は、それほど単純で。
それほど満たされていた。
だから。
最初の異変に気付いた時も、結衣は深く考えなかった。
八月の終わりだった。
蝉の声が昼間だけのものになり、夜になると湿った風が網戸を揺らしていた。
颯は大学の課題で、戦後日本の未解決事件について調べていた。
最初は、いくつもの事件を並行して追っていた。
失踪事件。
強盗殺人。
身元不明遺体。
長期間犯人が見つからなかった事件の資料を机へ積み、新聞記事や古い記録を読み比べていた。
だが、ある日を境に、颯が調べる事件は一つだけになった。
地方都市で起きた、一家惨殺事件。
発生は十数年前。
家族全員が自宅で死亡していた。
犯人は不明。
凶器も特定されず、捜査は長期化した末に事実上止まっている。
報道資料の多くは欠落し、遺体がどのような状態で発見されたのかも公表されていなかった。
残されていたのは、曖昧な一文だけだった。
――加害者、あるいは被害者の精神構造に、通常とは異なる変容が認められた可能性がある。
何を意味しているのか、結衣には分からなかった。
颯にも、最初は分からなかったはずだ。
それでも。
その資料を手に入れてから、兄は少しずつ変わっていった。
食事は取る。
大学にも行く。
結衣とも話す。
外から見れば、何も変わっていない。
ただ。
呼び掛けた時の返事が、一拍だけ遅れるようになった。
「お兄ちゃん。」
返事はない。
「お兄ちゃん?」
「……ああ。何?」
聞こえていなかったのではない。
声が届いてから、その意味を理解するまでに時間が掛かっている。
そんな間だった。
食卓で箸を持ったまま、壁を見つめていることも増えた。
テレビは点いている。
結衣も隣にいる。
それなのに、颯の瞳はもっと遠くを見ていた。
結衣には見えない場所。
この家には存在しない何かを。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
ある夜、結衣は尋ねた。
颯はすぐには答えなかった。
ゆっくりと結衣へ顔を向ける。
そして、いつもの笑顔を作った。
「寝不足なだけだよ。」
声も。
表情も。
兄のものだった。
けれど結衣は、その笑顔を見た瞬間、理由もなく寒気を覚えた。
颯は笑っている。
なのに。
笑顔が、顔へ貼り付けられているように見えた。
兄の表情を知っている何かが。
形だけを真似ているように。
「早く寝た方がいいよ。」
「そうだな。」
颯は頷いた。
そのまま、何事もなかったように食事へ戻る。
結衣も箸を動かした。
それ以上は何も聞かなかった。
聞けば、何かが本当に変わってしまう気がした。
その夜。
結衣は自分の部屋へ戻ったあとも、眠れなかった。
壁の向こうには、颯の部屋がある。
いつもなら椅子を引く音や、ページをめくる音が聞こえる。
だが、その夜は何も聞こえなかった。
静かだった。
眠ったのかもしれない。
そう思い、目を閉じようとした時。
壁の向こうから。
小さく、声が聞こえた。
「……分かってる。」
颯の声だった。
結衣は目を開けた。
電話をしているのだろうと思った。
けれど、次の言葉は聞こえない。
颯の声だけではなかった。
もっと低い声が。
同じ口から、僅かに遅れて重なっていた。
「……まだ、見てる。」
結衣は布団の中で息を止めた。
壁の向こうで。
誰かが、静かに笑った気がした。
翌朝。
颯は、いつも通り台所に立っていた。
トースターからパンを取り出し、焦げた端を包丁で削っている。
「起きたか。」
結衣を見ると、普段と変わらない顔で笑った。
「パン焼けてるぞ。」
「……うん。」
「牛乳、昨日でなくなった。」
「知ってる。」
「じゃあ帰りに買ってきて。」
「お兄ちゃんが買ってきてよ。」
「今日は遅くなる。」
ありふれた会話だった。
昨夜の声など、最初から存在しなかったように。
結衣は椅子へ座り、颯の横顔を盗み見る。
目の下に薄い隈がある。
それ以外は、いつもの兄だった。
「昨日、誰かと電話してた?」
颯の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
削り落としたパンの焦げが、まな板の上へ落ちる。
「してないよ。」
「でも、話し声が聞こえた。」
「寝言じゃないか。」
「起きてたでしょ。」
颯は振り返らない。
「覚えてないな。」
それだけ言って、包丁を流しへ置いた。
水を出す。
金属へ当たる水音が、妙に大きく聞こえた。
「結衣。」
「何?」
「今日、俺の部屋に入るなよ。」
声は穏やかだった。
「資料が散らかってるから。」
「いつも散らかってるじゃん。」
「今日は駄目だ。」
結衣は返事をしなかった。
颯も、それ以上は何も言わなかった。
朝食を終えた兄は、大学へ向かった。
玄関の扉が閉まる。
鍵の回る音。
足音が遠ざかる。
家の中に、結衣だけが残された。
学校へ行くまで、まだ時間がある。
歯を磨き。
制服へ着替え。
鞄を持つ。
そこで、颯の部屋の前を通った。
扉は閉じている。
入るなと言われた。
だからこそ、気になった。
結衣は足を止める。
聞き耳を立てる。
誰もいない。
当たり前だった。
颯は大学へ行った。
それでも、部屋の内側に人の気配があるように感じた。
動いてはいない。
ただ、待っている。
そんな気配。
「……馬鹿みたい。」
自分へ言い聞かせる。
そのまま通り過ぎようとした時、扉の向こうで紙が擦れる音がした。
ぱら。
一枚だけ。
誰かがページをめくったような音。
結衣は動けなくなった。
呼吸を止め、扉を見つめる。
もう一度。
ぱら。
やはり聞こえた。
窓が開いているのかもしれない。
風だ。
そう思おうとした。
だが、颯の部屋の窓は昨夜から閉まっている。
結衣は扉の取っ手へ手を掛けた。
冷たい。
夏の朝とは思えないほど。
ゆっくりと回す。
鍵は掛かっていなかった。
扉を少しだけ開ける。
「……お兄ちゃん?」
返事はない。
部屋には誰もいなかった。
カーテンは閉じられ、机の上のスタンドライトだけが点いている。
空調も動いていないのに、空気がひどく冷たかった。
机には、何十枚もの資料が広げられていた。
新聞記事。
捜査記録の写し。
現場見取図。
白黒写真。
結衣は室内へ一歩入る。
背後で扉が小さく動いた。
振り返る。
誰もいない。
開けた時より、少しだけ閉じている。
廊下から風が入っただけだ。
結衣はそう考え、机へ近付いた。
写真の一枚へ目が止まる。
古い木造住宅。
玄関前に規制線が張られている。
窓は割れていない。
壁も焼けていない。
外から見れば、ごく普通の家だった。
その写真の裏には、手書きの文字があった。
――室内に侵入痕なし。
――家族四名、全員死亡。
――凶器不明。
――第一発見者、家屋内から複数の会話を聴取。
結衣は眉を寄せた。
全員が死亡していたのに。
会話が聞こえた。
意味が分からない。
隣には、裁判資料の一部らしいコピーが置かれていた。
文章の途中に、赤い線が引かれている。
――事件前、家族全員が同一内容の夢を見ていたとする証言あり。
その下に、颯の筆跡で書き込みがある。
夢の中で呼び掛ける人物は同一か。
返事をした者から変化?
人格模倣。
記憶の混入。
結衣は紙を持つ指へ力を込めた。
さらに、その下。
意味の分からない記号が並んでいた。
数式にも見える。
文字にも見える。
円。
線。
途中で切れた螺旋。
同じ形が何度も繰り返されている。
見ていると、焦点が合わなくなる。
記号が紙の上で僅かに動いたように見えた。
結衣は慌てて資料を置いた。
その時。
「何してるんだ。」
背後から声がした。
結衣は息を呑み、振り返った。
颯が立っていた。
大学へ行ったはずだった。
部屋の入口に立ち、こちらを見ている。
「……忘れ物?」
結衣の声は、自分でも分かるほど震えていた。
颯は答えない。
視線は、結衣が触れた資料へ向けられている。
怒っているようには見えなかった。
けれど、いつもの兄とも違った。
「入るなって言っただろ。」
声は低かった。
「ごめん。」
結衣は資料から離れる。
颯はゆっくりと室内へ入ってきた。
距離が縮まる。
その足音が、僅かに遅れてもう一つ聞こえた。
一歩。
その後ろから、もう一歩。
結衣は颯の背後を見る。
誰もいない。
「お兄ちゃん。」
「何?」
「この事件の家族、同じ夢を見てたの?」
颯は机へ視線を落とした。
「ああ。」
「誰かに呼ばれる夢?」
「そう書いてある。」
「どんな人?」
颯は黙った。
数秒。
結衣には、もっと長く感じられた。
「顔は見えない。」
やがて颯は言った。
結衣の胸が縮む。
「どうして知ってるの?」
颯の目が、ゆっくりと結衣へ向けられる。
「資料に書いてあるから。」
「書いてないよ。」
言ってから、後悔した。
颯の表情が消えた。
怒りでもない。
驚きでもない。
顔から、感情だけが抜け落ちた。
結衣は一歩下がる。
机の角が腰へ当たった。
「お兄ちゃんも、見たの?」
颯の唇が僅かに動く。
声は出ない。
その代わり。
部屋のどこかで、誰かが息を吸った。
深く。
ゆっくりと。
結衣と颯以外の誰かが、すぐ近くにいる。
「……見てないよ。」
颯は笑った。
今度の笑顔は、うまく作れていなかった。
口元は笑っている。
目は、結衣ではない何かを見ている。
「そんな都合よく、同じ夢を見るわけないだろ。」
颯は結衣の横を通り、机の資料を集め始めた。
紙を一枚ずつ重ねる。
その動作は丁寧だった。
けれど、右手の人差し指だけが動いていない。
机の上へ触れたまま、微かに震えている。
まるで。
何かが、その指を通して兄の中へ入ろうとしているように。
結衣は部屋を出た。
廊下へ出てからも、背中へ視線を感じた。
扉を閉める直前。
颯の声が聞こえた。
「大丈夫。」
誰へ言った言葉なのか、分からなかった。
「まだ、気付いてない。」
結衣は扉を閉めた。
その日の学校では、授業の内容がほとんど頭に入らなかった。
帰宅しても、颯の姿はなかった。
大学へ戻ったのだろう。
夜になっても帰ってこない。
両親は仕事で遅くなると連絡があった。
午後十一時を過ぎた頃、玄関の鍵が開いた。
結衣は自室の扉を細く開ける。
颯が帰ってきた。
靴を脱ぎ。
廊下を歩き。
自分の部屋へ入る。
そこまでは、いつもと同じだった。
ただ。
足音が、一人分ではなかった。
颯の靴音の後ろを。
裸足の足音が。
濡れた床を踏むような音を立てながら、ゆっくりとついてきていた。
ぺたり。
ぺたり。
颯の部屋の扉が閉まる。
もう一つの足音も、そこで止まった。
結衣は朝まで、部屋から出られなかった。




