第8話 願いを奪うもの 第4章 救えない祈り
亮介はゆっくりと立ち上がった。
いや。
立ち上がったのではない。
何かに、立たされていた。
背筋だけが異様なほど真っ直ぐ伸びている。
俯いていた顔が、ゆっくりと上がった。
その瞳からは、先ほどまでの焦りも涙も消えていた。
妹を救いたいという必死ささえ、跡形もない。
「……願いは、受理されました」
静かな声だった。
高峰が一歩前へ出る。
「坂本」
「聞こえるか」
亮介は答えない。
ただ、ゆっくりと社殿へ向き直り、深く一礼した。
「感謝いたします」
梓は息を呑む。
(……人格がもう置き換えられている。)
(早すぎる……。)
わずか数十秒。
それだけで人格の核が奪われていた。
亮介は再び振り返る。
その視線が梓を捉える。
敵意はない。
怒りもない。
ただ、人形のような静けさだけがあった。
「次の願主を、お導きしなければなりません」
耳の後ろに貼られた〔祈印封子〕が微かに熱を帯びる。
梓は無意識にそこへ手を添えた。
(残響が……近い。)
高峰は慎重に亮介へ歩み寄る。
「坂本!」
「妹さんの名前を言えるか。」
数秒の沈黙。
亮介は首をわずかに傾けた。
「……妹。」
それだけだった。
高峰の表情が険しくなる。
「名前まで……。」
梓も静かに目を伏せる。
(願いだけを残して。)
(願った理由まで奪われている。)
亮介は社殿から石段へ向き直る。
「願う者は救われます。」
「次の願主を迎えなければ。」
ゆっくりと歩き始める。
その足取りは迷いがない。
まるで神社の案内人になったかのようだった。
「待ってください!」
梓が呼び止めても振り返らない。
「止まれ!」
高峰が肩を掴もうとする。
しかし、その瞬間。
指先が、するりと空を滑った。
触れたはずなのに。
触れていない。
妙な違和感だけが残る。
亮介はそのまま歩き続ける。
「願いは。」
「正しく書き換えられます。」
その声は、もう坂本亮介のものではなかった。
梓は高峰を制した。
「追ってください。」
「もう精神層と現実が重なっています。」
高峰は歯を食いしばる。
「……助けられるのか。」
「助けます。」
梓は迷わず答えた。
「人格は完全には消えていません。」
「深層へ沈められただけです。」
「なら俺は何をすればいい。」
「亮介さんを現実で止めてください。」
「新しい願主を近づけないでください。」
「私が戻るまで。」
高峰は短く頷いた。
「分かった。」
「現実は俺が守る。」
梓は社殿を見上げた。
御簾が静かに揺れている。
その奥から、筆を走らせる音だけが響いてくる。
さらさら。
さらさら。
誰かの願いを書き換える音。
梓は八鍵を静かに握り締めた。
(……今、止めます。)
(あなたの祈りも。)
(亮介さんの願いも。)
量子暗号札を指先へ挟み、静かに息を吸う。
「祓詞──《境界接続》」
白い光が足元から広がる。
境界がゆっくりと反転し、現実の色が一枚ずつ剥がれ落ちていく。
梓は一歩、御簾の向こう側へ踏み込んだ。
◇
足を踏み入れた瞬間、世界から色が消えた。
白でもない。
黒でもない。
墨だけで描かれた世界。
空は和紙のように淡く、地面には無数の文字が流れている。
それは人の足跡ではなかった。
祈りだった。
誰かが願い、
誰かが諦め、
誰かが縋った言葉。
それらすべてが墨となって地面を流れている。
梓は静かに周囲を見渡した。
(……ここが精神層。)
(いいえ。)
(もっと深い。)
(祈りそのものを記録する場所。)
量子暗号札が震える。
八鍵の演算表示が、今まで見たことのない波形を描いていた。
「情報……自動更新。」
「まるで世界そのものが、一冊の帳簿ですね。」
遠くで紙をめくる音がした。
ぱらり。
ぱらり。
一枚。
また一枚。
静かな音なのに、胸の奥まで響いてくる。
梓は音のする方へ歩き始めた。
やがて御簾が見えた。
一枚ではない。
二枚でもない。
何十枚。
何百枚。
幾重にも垂れ下がり、その向こう側を隠している。
その奥で、筆だけが動いていた。
さらさら。
さらさら。
一切迷いのない筆遣い。
(書いている、今も。)
(誰かの願いを。)
梓は御簾へ近付く。
その瞬間だった。
一枚の祈願書が宙へ浮かび上がる。
――母が元気になりますように
墨が滲む。
文字が勝手に増え始める。
――代価 願主の健康
さらに一文字。
また一文字。
――祈願主 弓削
梓は眉をひそめた。
(やっぱり……。)
(願いを書き換えている。)
(しかも、一人や二人じゃない。)
周囲を見る。
御簾の間を埋め尽くす祈願書。
何百枚。
いや。
何千枚あるのか分からない。
そのすべてに、
――祈願主 弓削
の文字が刻まれていた。
「……過去から現在まで全部。」
「書き換えたんですね。」
その声に反応するように、筆の音が止まる。
さらり。
最後の一画を書き終える音。
静寂が訪れた。
御簾がゆっくりと左右へ開いていく。
その奥には玉座があった。
漆黒の玉座。
周囲には硯が並び、巨大な筆が何本も宙へ浮かんでいる。
そこへ、一人の僧が静かに座っていた。
年老いているようにも見える。
若くも見える。
輪郭は墨で描かれたように揺らぎ、その表情だけが異様に穏やかだった。
僧は一本の筆を置く。
そして梓を見た。
《来たか。》
低く、落ち着いた声だった。
《祈りを修正する者。》
梓は静かに八鍵を構える。
「あなたが、弓削……」
言いかけて、梓は一瞬だけ言葉を止めた。
八鍵の表示が激しく変動する。
識別情報が再構築される。
古い記録。
歴史層データ。
封印された識別名。
それらが一つに収束する。
梓は息を呑んだ。
「……弓削道鏡。」
その名を口にした瞬間。
空間がわずかに歪んだ。
墨の流れが逆巻く。
祈願書がざわめく。
僧はゆっくりと目を細めた。
《……その名を知るか。》
梓は静かに頷く。
「記録に残っています。」
「かつて、権力の頂点に立ち。」
「神に最も近づいた僧。」
「そして――」
「歴史から排除された存在。」
僧は小さく笑った。
《そう呼ばれた時代もあった。》
《今は違う。》
《我は祈りを導く者。》
《願いを正す者。》
《世界は人の願いで歪む。》
《ならば。》
《正しい願いへ書き換える者が必要だ。》
梓は真っ直ぐ見返した。
「違います。」
「願いは。」
「その人自身のものです。」
「誰にも書き換える権利はありません。」
僧――弓削道鏡はゆっくりと首を振る。
《対価なき願いは、人を堕落させる。》
《努力も覚悟もなく、ただ望むだけで叶うならば。》
《人は歩むことをやめる。》
《だからこそ、願いには代価が必要だ。》
《相応の覚悟を差し出してこそ、願いは現実となる。》
梓は一瞬、言葉を失った。
その理屈自体は、完全に間違っているとは言い切れない。
だが――
彼女は足元の祈願書を拾い上げる。
――子どもが助かりますように
――代価 願主の命
――祈願主 弓削
さらに別の一枚。
――仕事がうまくいきますように
――代価 願主の人生
――祈願主 弓削
梓はそれらを突きつけた。
「これが。」
「あなたの言う“相応”ですか。」
弓削道鏡は静かに目を細める。
《願いには重さがある。》
《軽き願いに軽き代価。》
《重き願いに重き代価。》
《だがその軽重は、我が定める。》
《人の感覚とは一致せぬ。》
《それでも構わぬ。》
《我が秤こそが基準だからだ。》
梓は首を振った。
「違います。」
「それは軽重の等価交換じゃない。」
「あなたは“覚悟”と言った。」
「でもこれでは搾取です。」
空気がわずかに軋む。
墨の流れが乱れた。
弓削道鏡の表情が、ほんのわずかに揺らぐ。
《……人は、自らの願いの重さを理解していない。》
《だから我が測り、定める。》
《それが秩序というものだ。》
梓は一歩前へ踏み出した。
「違います。」
「それは秩序じゃない。」
「あなたが勝手に決めているだけです。」
「しかも。」
「その代償は、あなたには一切返ってこない。」
「全部、願った人が背負っている。」
弓削道鏡の周囲で、筆がわずかに震えた。
さらり、と墨が一滴落ちる。
それは床に触れた瞬間、黒い波紋となって広がった。
《……それでも。》
《願いは叶い。》
《救われる者がいる。》
梓は即座に言い返す。
「その裏で。」
「どれだけの人が壊れているか、見ていないだけです。」
沈黙。
重い沈黙。
墨の世界が、わずかに軋む。
そして――
弓削道鏡の背後に浮かぶ無数の祈願書が、一斉にざわめいた。
その名を知ったことで。
その正体を暴いたことで。
精神世界全体が、大きく震えた。
◇
祈願書が、一斉にめくれた。
ぱらり。
ぱらり。
いや。
それは紙の音ではなかった。
誰かの願いだった。
『助けてください。』
『生きたい。』
『治してください。』
『会いたい。』
『返してください。』
無数の願いが重なり、空間そのものを震わせる。
梓は目を見開いた。
(……違う。)
(これは本物の祈り。)
(世界へ向けて放たれた願い。)
弓削道鏡は静かに両手を広げる。
《聞こえるか。》
《これが人の願いだ。》
《弱く、脆く、儚い。》
《迷いに満ちている。》
《だから我が導き、我が完成させる。》
その声音には、かつて人を救おうとした者の名残があった。
だが同時に、それは人を見下す響きでもあった。
無数の祈願書が梓を取り囲む。
どの願いも途中までしか書かれていない。
――母が……
――息子を……
――どうか……
――お願いします……
未完成。
最後まで書けていない。
そこへ黒い筆が滑り込み、一枚ずつ続きを書いていく。
――代価 寿命
――代価 記憶
――代価 幸福
――代価 人格
さらさら。
さらさら。
迷いのない筆だった。
それは冷酷に整っていた。
梓はその光景を見つめた。
(違う。)
(この人は楽しんでいるわけじゃない。)
(苦しめたいわけでもない。)
(本気で。)
(これが救済だと信じてる。)
(でも――もう、人を信じていない。)
だから厄介だった。
悪意ではない。
善意が歪みきっている。
人に絶望し、人に期待することをやめた果ての思想。
「弓削さん。」
梓は静かに口を開く。
「一つだけ教えてください。」
「あなたは。」
「誰に願ったんですか。」
その瞬間。
筆が止まった。
墨が一滴、静かに落ちる。
弓削道鏡は初めて視線を逸らした。
《……我に。》
《願いだと?》
「ええ。」
「あなたにも願いはあったはずです。」
「人の願いを書き換える前に。」
「あなた自身が誰かへ願ったことが。」
沈黙。
御簾が揺れる。
墨の流れが止まる。
梓は確信した。
(触れた、ここが核。)
「あなたは最初から。」
「人の願いを書き換えたかったわけじゃない。」
弓削道鏡は何も答えない。
だが。
玉座の足元へ、一枚だけ古びた祈願書が落ちた。
他のものとは違う。
真っ白ではない。
何度も書き直され、何度も破かれた跡が残っている。
それは、迷い続けた証だった。
梓はゆっくり拾い上げた。
そこには、かすれた文字が残っていた。
――世を……
その先は墨で塗り潰されている。
さらに下。
――民を……
ここも読めない。
最後だけが残っていた。
――救いたい……
梓は静かに目を閉じた。
(あなたは最初から悪人だったわけじゃない。)
(ただ、救えなかった。)
(だから、人に絶望した。)
弓削道鏡が低く呟く。
《……救えなかった。》
その一言だけだった。
だが、その声には今までになかった感情が滲んでいた。
《人は愚かだ。》
《救いを求めながら。》
《自ら堕ちる。》
《何度も、何度でも。》
それは怒りではなかった。
諦めだった。
かつて期待していたからこそ生まれた、深い絶望。
梓は祈願書を胸へ抱いた。
「だから。」
「誰かの願いなら叶えられると思った。」
「自分では救えなかったから。」
「願いを完成させれば救えると。」
弓削道鏡はゆっくり目を閉じる。
《人は弱い。》
《願いだけでは救われぬ。》
《力が要る。》
《秩序が要る。》
《我はそれを与えた。》
その言葉には、かつて権力にすがりついた者の影があった。
救うために力を求め。
やがて力そのものに囚われ。
人を導くはずが、人を支配する側へと堕ちていった。
そして死してなお、その思想はさらに強固になっている。
「違います。」
梓は静かに首を振った。
「あなたが与えたのは。」
「救いじゃありません。」
「諦めです。」
その言葉と同時に。
世界中の祈願書が、一斉に震え始めた。
祈願書が一斉に浮かび上がる。
白かった和紙は黒く染まり、墨が空へ噴き上がった。
弓削道鏡はゆっくりと立ち上がる。
先ほどまで残っていた悲しみは、もう瞳にはない。
残ったのは、揺るぎない支配の意志だけだった。
《……諦めだと。》
《我が積み重ねた祈りを!》
《我が導いてきた願いを!》
《その一言で否定するか!》
御簾が裂ける。
玉座が崩れる。
無数の筆が宙へ浮かび、梓を取り囲んだ。
一筆。
二筆。
十筆。
百筆。
その一本一本が祈願を書き換える刃だった。
梓は静かに八鍵を構える。
「あなたはもう願う人を見ていません。」
「見ているのは従わせる相手だけです。」
その言葉と同時に、弓削道鏡の精神世界が大きく揺れた。
《黙れっ!!》
《我なくして秩序はない。》
《我なくして救済はない。》
《我なくして世界は成り立たぬ。》
筆が一斉に走る。
空間そのものへ文字が刻まれていく。
――改竄
――上書
――再定義
梓は量子暗号札を展開した。
「祓詞――遮断・断界。」
白い演算式が空間へ広がる。
しかし弓削道鏡は静かに筆を滑らせた。
――断界・服従
それだけを書き換える。
白い演算式が黒く染まり、祓詞が反転した。
「……!」
結界が梓自身へ牙を剥く。
咄嗟に横へ飛ぶ。
白かった光が黒く変質し、通り過ぎた空間を切り裂いた。
(祓詞を書き換えた……。)
(術式そのものを改竄している。)
弓削道鏡は静かに笑う。
《祈りから生まれた術ならば。》
《祈りを書き換える我には敵わぬ。》
《人の理など我が一筆で十分だ。》
再び筆が走る。
梓も次の演算へ移る。
「祓詞――遮断・浄界。」
白い演算式が完成する。
しかし。
――遮断・侵界
文字だけが書き換えられた。
術式が反転する。
浄化するはずの祓詞が、侵食する祓詞となって梓へ襲い掛かった。
「っ……!」
避けきれない。
その瞬間だった。
耳の後ろへ貼られた〔祈印封子〕が強く発光する。
ぱきん。
乾いた音。
封子へ刻まれた紋様が展開され、反転した祓詞の演算を書き換え不能な状態へ固定した。
黒い祓詞は空中で停止し、ゆっくりと崩壊していく。
弓削道鏡が初めて表情を変えた。
《……封印符。》
《……願いの改竄を拒絶する固定術式か。》
梓は静かに息を整える。
(中森さん……。)
(このための用意だったんですね。)
封子は完全な防御ではない。
祓詞が改竄される瞬間だけ、世界演算への介入を拒絶する応急処置。
その一瞬が、梓へ時間を与えた。
梓は八鍵を握り直す。
弓削道鏡を見る。
その背後を見る。
さらに奥を見る。
精神世界の最深部。
そこには巨大な文字が絡み合っていた。
《権》
《位》
《支配》
《秩序》
その中心だけが淡く輝いている。
《――救》
梓は目を閉じた。
(見つけました。)
(あなたの無念。)
(あなたの願い。)
(救いたかった。)
(誰一人苦しまない世界を。)
(でも。)
(力を求め。)
(支配へ変わってしまった。)
梓は静かに語り掛ける。
「弓削道鏡。」
「あなたは。」
「世界を支配したかったんじゃない。」
「本当は。」
「誰も苦しまない世界を作りたかった。」
弓削道鏡の身体が大きく震えた。
しかし次の瞬間、その瞳は再び濁る。
《違う。》
《支配こそ救済だ。》
《従えば迷わぬ。》
《従えば苦しまぬ。》
《それが唯一の慈悲だ。》
精神世界が悲鳴を上げる。
梓は静かに理解した。
(……もう、修正だけでは届かない。)
(業が深すぎる。)
(思想そのものが固定されてしまっている。)
修正だけでは足りない。
今ここで救うことはできない。
梓は静かに八鍵を握り直した。
「……ごめんなさい。」
「今の私では。」
「あなたを救い切れません。」
祓屋として導き出した答えは、一つだった。
八鍵を構え直す。
量子暗号札が四枚、円環を描く。
「祓詞、制限・幽閉。」
続けて。
「祓詞、遮断・封界。」
二系統複合祓詞。
白い演算式が幾重にも重なり、精神世界全体を包み込んでいく。
御簾が静止する。
祈願書が止まる。
筆が止まる。
弓削道鏡は巨大な封印陣の中心で動きを失った。
《封じるのか……。》
梓は静かに頷く。
「ええ。」
「あなたは消せません。」
「あなたの願いは本物だから。」
「でも。」
「今のあなたでは。」
「人を救えません。」
封印陣が完成する。
白い光が御簾の奥まで広がり、祈りを書き換える世界そのものを静かに閉じていく。
「時間をかけます。」
「少しずつ。」
「あなた自身の願いを。」
「本来あるべき形へ修正します。」
弓削道鏡は長い沈黙のあと、小さく目を閉じた。
《……終わらぬぞ。》
梓は辛そうに答える。
「……はい、終わりではありません。」
「本当の修正は時間をかけておこないます。」
封印陣がゆっくりと閉じていく。
しかし梓には分かっていた。
これは事件の解決ではない。
世界に残された、『修正ではなく封印を選ばなければならなかった残響』だった。
墨の世界は静寂を取り戻し、無数の祈願書は白紙へ戻っていった。
――そして。
梓の意識は現実へと引き戻される。




