第8話「祈りを書き換える者」 その5 祈願の余波
病院の廊下を歩くと、
消毒液の匂いがゆっくり肺に沁み込んだ。
沢田芳樹の病室は、
今朝と同じ、静かな光に満ちている。
私はそっとドアを開けた。
「……あ」
ベッドの上で、沢田がぼんやりと目を上げた。
意識は戻っている。
ただ、まだ思考に霞がかかったように、焦点が定まらない。
「大丈夫……ですか?」
私が声をかけると、
沢田は少しだけ笑おうとして、うまく形にならなかった。
「……友達……助かった、んですよね……?」
「はい。あなたが願った通りに……元の形に戻しています」
「……よかった……。
なんか……全部ぼやけてて……
あの神社のことも……半分くらい……」
(記憶欠損……避けきれなかったか……)
書き換えられた祈りを戻したことで、
“改竄された部分”は自然に欠落する。
残響に奪われた心身の一部はもう戻らない。
それでも、生きている。
意識が戻っただけで奇跡に近い。
そっと彼の額に八鍵をかざし、残響が残っていないかを確かめる。
(……大丈夫。
侵食も、祈願書の残りももう消えてる)
「ゆっくり休んでくださいね」
そう告げると、沢田はようやく安心した顔になった。
病室を出た途端、高峰が壁にもたれていた。
「どうだ」
「命に関わる後遺症はありません。
……ただ、祈願の“上書き部分”の記憶が抜けてます」
「書き換えられた願いの部分か」
「ええ。
あれは“彼の願いじゃない”。
残響……弓削道鏡の祈りですから」
高峰はひとつ息を吐いた。
「……人の願いを乗っ取る残響か。
ろくでもないもんだな」
「願いは、人の核みたいなものですから。
そこを書き換えるのは……殺すのと同じですよ」
しばらく無言の時間が続いた。
気づけば夕方の光が長く伸び、
病院の床に淡い影を落としていた。
「真名井」
「はい」
「……お前が戻してくれて助かった。
“願い”が壊れたままだったら、ここじゃ済まなかった」
珍しく、まっすぐな感謝だった。
私は少し頬が熱くなる。
「私は、直しただけです」
「直すってのは、すげぇことなんだよ」
高峰はそう言って、
どこか照れくさそうに後頭部をかいた。
(……この人、こういうところが不器用なんですよね)
と、ポケットのスマホが震えた。
『梓。終わったか?』
中森だった。
『祈りの改竄なんざ、十年に一度あるかどうかのレア物だ。
コードの断片、少し分けてほしいんだが?』
「……中森さん。
これは人の“願い”を奪う残響よ。
危険すぎるって分かってんでしょ」
『危険だからこそ価値がある。
ほら、祓屋ってのは“現場にいた者が一番詳しい”。
そういう役得ってやつだよ』
「却下。
これは封じたまま保管する。
迂闊に扱うと、あなたの願いまで書き換えられるよ」
『……おお、それは怖ぇな。
じゃあ、そのうち何か使える情報だけくれや。
ビジネスだしな』
「…はいはい」
通話を切ると、高峰が呆れた顔をした。
「……中森って、いつもあんな調子なのか」
「ええ。あれで“情”なんかなくて、全部お金と打算です。
でも……まあ、最低限の線は守る人です」
「守ってるのは自分の利益だろ」
「そうですね」
ふっと笑うと、高峰が目を細めた。
「……ところで真名井。
山の神社、あれ結局なんだったんだ?
参拝者記録が全部空欄ってのは……」
「願いを書き換えた残響の性質です。
祈りの“所有権”を奪うために、
参拝ログの方まで上書きしてたんでしょうね」
「祈願主:弓削……か」
「ええ。
古い時代の人間ですけど……残響は思想を保ったまま変異しますから」
廊下の先、窓の外に、
夕日が山の端に沈んでいくのが見えた。
(祈りを書き換える権力……
こんなものが増えたら、世界ごと歪む)
八鍵の柄を握りしめる。
その時、廊下の端で風が揺れた。
誰もいない角に、
すっと“人影”が立ったように見えた。
黒いロングコート。
ショートカットの横顔。
視線だけはこちらを向いている。
(結衣……?)
瞬きしたら消えた。
ただ、その佇まいだけで思う。
(願いを書き換える残響なんて、
……結衣が一番嫌いなタイプだよね)
いつか必ず、彼女は衝突する。
その気配が胸の奥に残ったまま、私は歩き出した。




