第1話 団地消失エリア事件 その3 子どもが消える
最初におかしいと思ったのは、朝だったかもしれない。
目覚ましの音が鳴る前に、目が覚めた。
スマホの画面には、六時二十三分と表示されている。
あと三十七分で、息子が起きる時間。
——なのに。
隣にいるはずの小さな寝息が、聞こえなかった。
「……?」
私は、ゆっくりと体を起こした。
六畳一間の部屋。
古い団地の寝室。
畳はすでに柔らかくなっていて、体の重みが少し沈んでいる。
布団の隣。
本来、そこにあるはずのものが、なかった。
「……優斗?」
小さく名前を呼んだ。
声が少しだけ震えていた気がしたけれど、それが寒さのせいなのか、夢の残りなのかはわからない。
返事はない。
一瞬、心臓の奥が沈んだ。
でも、すぐに打ち消す。
昨日も、寝付けなかったのは私だ。
優斗はいつも、夜中にトイレに起きる癖がある。
きっと部屋を出て、また戻ってくるのを忘れただけ。
そう、思うようにした。
布団から出る。
キッチンに向かう。
四歩。五歩。六歩。
「……優斗?」
小さく、二度目の名前。
返ってくるのは、団地特有の“空気の音”。
壁の向こうで水道が流れる音。
どこかの部屋のテレビの音だけが、かすかに漏れている。
でも、いつもなら聞こえるはずの——
子どもの足音がしない。
嫌な予感、というほどの感情でもなかった。
ただ、“何かが足りない”感覚。
冷蔵庫を開ける。
牛乳が目に入る。
昨日、買ったばかりの。
ああ、そうだ。
昨日、優斗が「また飲みたい」って言ってた。
……昨日?
「昨日……」
思わず、声が漏れた。
優斗が、昨日、何を言ったのか。
思い出そうとすると、
頭の中で何かがすべる。
音を立てずにずれる。
記憶が、壁に手がかからないみたいに。
(……寝ぼけてるのかな)
一度息を吐いて、自分に言い聞かせる。
洗面所を見る。
いない。
トイレを確認。
いない。
「……おかしい」
小さく呟く。
その声が、部屋の中で消えていく。
玄関を見る。
靴は、ある。
小さなスニーカー。
青いラインが入ったやつ。
ちゃんと、ある。
(じゃあ……なんで……)
胸の中に、じわりと冷たいものが広がり始めた。
——そのとき。
「ママ」
背中から、声がした。
一瞬、
身体の中で時間が止まった。
振り返るのが、
怖かった。
「……優斗?」
恐る恐る、声を返した。
そこに、いた。
ちゃんと。
そこに。
パジャマ姿の、小さな息子。
少しだけ寝癖がついていて、右の前髪が跳ねている。
いつも通りの、朝。
「どうしたの、もう起きちゃったの?」
声を出した途端、
なぜか安心した。
ほっとして、
膝の力が少し抜ける。
でも——
(……なんで、気づかなかったの?)
さっきの“空白”は、なんだったのか。
「ねえ、ママ」
優斗が、私を見上げて言った。
「きょう、ぼく、いくの?」
「……え?」
「いくの、きえちゃうとこ」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……なに、それ?」
できるだけ普通に言う。
できるだけ、いつもと同じ声色で。
「……えへへ」
優斗は、笑った。
その笑い方が——
いつもと少しだけ、違う。
口角の動かし方が、わずかに遅れている。
目の焦点が、微かに合っていない。
(疲れてるだけよね……)
そう思いたかった。
でも、そのとき、
子どもの足元。
畳の上に落ちた影が、
ほんの少しだけずれて見えた。
光が当たっているのに、
影だけが遅れて動く。
まるで、現実からワンテンポ遅れた存在みたいに。
「優斗……?」
声が少しだけ、上ずった。
「だいじょぶだよ」
彼はそう言って、笑った。
「ぼく、すぐもどってくるから」
「……どこに?」
「きえちゃうところ」
その言葉を聞いた瞬間。
体の内側が
冷水をかぶせられたみたいに冷えた。
(冗談でしょ……?)
でも、冗談を言う子じゃない。
優斗は、じっと私を見ていた。
目の奥に、
私の知らない“何か”がいた。
子どもの目なのに。
子どもじゃない“何か”。
(……違う)
心の中で、何度も否定する。
でも、
その否定は、どこか空虚だった。
「ねえ」
彼が、ふと、言う。
「ママ……ぼくって、ほんとうに、ここにいるの?」
その言葉で、
世界が、一瞬だけ、歪んだ。
視界の端が、白くなる。
部屋の輪郭が、ぼやける。
気づいた時には、
私は畳に手をついていた。
「なに、言ってるの……」
やっとの思いで、そう返す。
「いるに決まってるでしょ。
……あなたは、私の」
そこで、言葉が止まった。
——私の?
……何?
息子。
当然。
そう言えたはずなのに。
舌が、それを拒んだ。
(……なんで、言えないの)
優斗の顔を見ようとする。
でも、
目の焦点が合わない。
彼の輪郭が、あいまいになっている。
人なのに、
スクリーン越しの映像みたいに。
「……ママ?」
その声が、遠くなる。
私の頭の中で、何かが崩れ始めている。
思い出そうとすると、
彼との記憶が、
写真みたいに、
一枚ずつ剥がれていく。
保育園の入園式。
初めての運動会。
眠る前の絵本。
……あれ?
これって、本当にあったことだっけ?
(……嘘でしょ……)
恐ろしくなって、
私はその場にしゃがみ込んだ。
「お願い……」
声が震える。
「やめて……
優斗……」
名前を呼ぶたびに、
彼の存在が遠くなっていく。
呼べば呼ぶほど、
輪郭が薄くなる。
「ママ」
彼はそれでも、
私の方を見ていた。
「だいじょうぶだよ」
そう言って、
小さく、
私に手を振った。
あのとき、
私は気づいていたのだ。
——彼はもう、
私の知っている「息子」じゃないと。
そしてきっと、
私はもうすぐ、
この恐怖すら
忘れるんだろうと。
鍋の中の水が、
火にもかけていないのに
小さく泡を立てていた。
時計の針は、
止まっていた。
その中で、
子どもの影だけが、
少しずつ、
遅れて、
溶けていっていた。




