第1話 団地消失エリア事件 第4章 残されないもの
六階の廊下は、静まり返っていた。
照明は復旧している。蛍光灯の白い光が、何事もなかったかのように床を照らしている。だが、その明るさが逆に異常だった。影が浅い。奥行きがない。すべてが、表面だけで構成されているように見える。
高峰は六〇二号室のドアを見つめていた。
ノックは、止まっていない。
コン、コン、コン。
一定の間隔で、内側から叩かれている。
強くも弱くもない。感情がない。ただ“続いている”という事実だけがある。
刑事は壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返していた。顔色が悪い。額に汗が滲んでいる。
「……見ました」
掠れた声で言う。
「何を」
「分かりません。でも、知ってる顔だった気がする。なのに、思い出せない。思い出そうとすると……」
言葉が途切れる。
高峰は短く息を吐いた。
「無理に思い出すな。そこに引きずられる」
刑事は頷いたが、視線は安定しない。焦点が定まらず、廊下の一点を見つめている。
その先には、何もない。
はずだった。
だが——
「……あれ」
刑事が小さく呟いた。
「今、誰か通りませんでしたか」
高峰は反応しない。
「見てない」
「でも——」
「見てないなら、それでいい」
言い切る。
見たことにするな。
認識した瞬間、それは“確定する”。
ノックの音が、わずかに速くなった。
コン、コン、コン、コン。
リズムが崩れる。
焦っているようにも、苛立っているようにも感じられる。
だが、そこに感情はない。
ただ、変化だけがある。
高峰はポケットから端末を取り出した。通話はすでに接続済みのままになっている。応答はない。だが、切れてもいない。
「……位置は送った」
独り言のように呟く。
誰に向けてかは言わない。
そのとき。
廊下の奥で、何かが動いた。
音はしない。
だが、視界の“歪み”だけが移動する。
空間の一部が、わずかに濁る。
そこを、何かが通った。
高峰は目を細めた。
数が増えている。
六〇二号室の中だけではない。
廊下にも、広がっている。
「……広がってるな」
低く言う。
「え?」
「部屋の中だけじゃない。フロア全体に侵食が出てる」
刑事の喉が鳴る。
「じゃあ……ここにいる全員が——」
「まだだ」
即座に否定する。
だが、時間の問題だった。
ドアの向こうで、何かが動く音がした。
今度はノックではない。
引きずるような音。
床を擦る、重い音。
そして——
ドアの下の隙間から、影が伸びた。
細い。
指のように細長い影。
それがゆっくりと廊下に這い出てくる。
照明は正常だ。
だが、影だけが“別の光源”で動いている。
「……下がれ」
高峰が言う。
二人は一歩、後退する。
影は止まらない。
ドアの下から、じわじわと広がる。
一本、二本、三本。
やがてそれらは、まとまりを持ち始める。
形になりかけている。
だが——
完成しない。
輪郭が定まらない。
人の形に近づいては、崩れる。
顔らしき部分が浮かび上がり、消える。
何度も。
何度も。
「……やめろ」
刑事が呟いた。
誰に向けてか分からない言葉。
だが、その声に反応するように、影が揺れた。
ゆっくりと、こちらを向く。
顔がない。
だが、“見られている”と分かる。
高峰の背中に、冷たいものが走った。
この状態は、危険だ。
認識の境界が曖昧になっている。
現実と、そうでないものの区別が、維持できていない。
「目を逸らすな」
自分に言い聞かせるように言う。
逸らせば、消える。
だが、その瞬間に“別の場所に現れる”。
位置を固定しなければ、対処できない。
端末を構える。
ログを再取得。
だが——
画面が、真っ白になる。
表示が消える。
通信が遮断されたわけではない。
“取得する対象が存在しない”。
「……消されたか」
低く呟く。
現実側の記録から、完全に切り離された。
この空間だけが、孤立している。
影が、もう一歩前に出る。
床に触れていない。
だが、確実に近づいてくる。
刑事が後退する。
足がもつれる。
壁にぶつかる。
その瞬間。
刑事の体が、わずかに“ずれた”。
高峰は目を見開いた。
輪郭が、ぼやける。
焦点が合わない。
「……おい」
声をかける。
刑事が振り返る。
だが、その顔に違和感がある。
見慣れているはずなのに、認識が追いつかない。
「……誰だ」
思わず口に出た。
刑事の動きが止まる。
「……え?」
自分を指差す。
「俺、ですよ」
だが、その声も、少し遅れて聞こえる。
音と口の動きが、合っていない。
ズレている。
同期が外れている。
「……名前、言えるか」
高峰が問う。
刑事は口を開く。
止まる。
眉をひそめる。
「……あれ」
何も出てこない。
自分の名前が。
出てこない。
その瞬間。
影が、伸びた。
一気に距離を詰める。
刑事の足元に絡みつく。
「——っ!」
声にならない声。
引きずられる。
床に倒れる。
影が、腕に、首に、絡みつく。
高峰は手を伸ばした。
掴む。
だが——
感触がない。
手が、すり抜ける。
存在が、固定されていない。
「……くそっ」
歯を食いしばる。
引き戻せない。
影が、刑事を覆う。
輪郭が、崩れる。
人の形が、維持できない。
ノイズのように、ばらけていく。
「……やめろ」
意味のない言葉が口から出る。
だが、止まらない。
影が収束する。
そして——
消えた。
何も残らない。
床には、何もない。
血も、衣服も、痕跡も。
最初から、そこに誰もいなかったかのように。
高峰は、その場に立ち尽くした。
呼吸が浅い。
理解が、追いつかない。
今、何が起きたのか。
分かっている。
だが、受け入れられない。
端末を握る。
ログを確認する。
記録は、残っていない。
同行者の記録が、消えている。
最初から、一人で来ていたことになっている。
「……ふざけるな」
低く吐き捨てる。
ドアの向こうで、ノックが止まった。
完全な静寂。
だが、それは終わりではない。
むしろ——
“次”の前兆だった。
廊下の照明が、ゆっくりと暗くなる。
光が弱まる。
影が、濃くなる。
そして。
六階全体が——
“薄く”なった。
高峰は、はっきりと感じた。
この場所が、現実から切り離されかけている。
このままでは——
フロアごと、消える。
誰にも認識されないまま。
記録も残らず。
なかったことになる。
高峰は、震える指で端末を握り直した。
通話は、まだ繋がっている。
応答はない。
だが——
切れていない。
「……早く来い」
誰に向けた言葉かは、もうはっきりしていた。
この状況を止められるのは——
自分ではない。
論理でもない。
記録でもない。
“それ以外”のやり方だ。
高峰は、六〇二号室のドアを睨んだ。
その向こうにあるもの。
それはもう、単なる現象ではない。
意思を持っている。
そして、選別している。
残すものと。
消すものを。
廊下の奥で、再び何かが動いた。
今度は、はっきりと見えた。
人影。
だが、顔がない。
形が定まらない。
それが、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
音はしない。
だが、確実に近づいてくる。
高峰は、その場を動かなかった。
逃げても無意味だ。
このフロアにいる限り、どこにも行けない。
影が、目の前で止まる。
そして——
手を伸ばしてきた。
触れれば、終わる。
理解している。
だが、避けられない距離。
その瞬間。
端末が、わずかに震えた。
画面が点灯する。
通信状態が変わる。
ノイズの中に、微かな音声が混じる。
高峰は、反射的に画面を見た。
そして——
初めて、確信した。
まだ、終わっていないと。




