第1話 団地消失エリア事件 第2章 思い出せない隣人
北湾第六団地一号棟は、外から見ればただの古い集合住宅だった。
灰色の外壁。規則正しく並ぶ窓。ベランダには洗濯物が揺れている。生活の気配は、確かにある。だが、六階部分だけがわずかに異質だった。
高峰は車を降りた瞬間、その違和感に気づいた。
視線が、滑る。
六階に目を向けると、焦点が合わない。窓の位置は分かる。形も見えている。だが、そこに「意味」が乗らない。人が住んでいるはずの区画だけ、現実との接続が薄い。
(……写真と同じだな)
庁舎で見た画像を思い出す。ピントが甘いのではない。あそこだけ、世界の解像度が落ちている。
「高峰さん」
声をかけられて振り返る。所轄の刑事が軽く会釈した。三十代後半、現場慣れした顔だが、どこか落ち着きがない。
「上は封鎖してます。念のため住民の出入りも制限してますが……」
「何かあったか」
「……説明しづらいんですが」
刑事は言葉を選んだ。
「“いるはずの人間がいない”って通報が、複数来てます。同じフロアで」
「通報者は一人じゃないのか」
「ええ。ただ、全員言ってることが微妙に違うんです。“三人家族だった気がする”“いや、夫婦二人だった”“いや、一人暮らしだったはずだ”って」
「記憶が一致してない」
「はい。ただ、共通してるのは——」
刑事は六階を見上げた。
「“何かが足りない気がする”ってことだけです」
高峰は頷いた。
典型的な進行段階だ。個別の記憶は崩れ始めているが、“違和感”だけは共有される。人間の認識が、完全に書き換わる前の状態。
「現場は六〇一から六〇四だったな」
「はい。ただ——」
「ただ?」
「部屋の中、確認したんですが……生活感が薄いんです」
刑事の声がわずかに低くなる。
「家具はある。冷蔵庫も、テレビも、食器も。普通に生活してた形跡はある。でも、“誰が使っていたか”が分からない」
「指紋は?」
「出ます。ただ、照合できない。該当人物が存在しない扱いになってるんで」
高峰は小さく息を吐いた。
「入る」
そう言って、エントランスへ向かう。
自動ドアが開く。中は静かだった。掲示板には「設備点検中」の紙が貼られている。表向きはそれで通しているらしい。
エレベーターに乗る。六階のボタンを押す。上昇する間、金属音がやけに大きく響いた。
「……昨日の夜からです」
刑事が言う。
「最初の通報が入ったのが二十時過ぎ。その時点では“隣の住人の顔が思い出せない”程度だった。それが、今朝には“部屋ごと認識できない”状態になってる」
「進行が早いな」
「ええ。正直、普通じゃないです」
チン、と音が鳴る。
六階。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
温度ではない。匂いでもない。もっと曖昧な、“密度”の違い。
廊下はまっすぐ伸びている。照明は正常に点灯している。だが、奥行きが妙に長く感じる。遠近感がわずかに狂っている。
「……分かります?」
刑事が小声で言う。
「ああ」
高峰は短く答えた。
視界が安定しない。歩くたびに、距離感が微妙にずれる。床に足を置く感覚と、見えている位置が一致しない。
六〇一号室の前で止まる。
ドアは閉まっている。表札はない。インターホンの横には、うっすらと剥がれた跡がある。
「ここ、誰が住んでたか分かるか」
「……それが」
刑事は首を振った。
「思い出せないんです。記録も残ってない。住民票も、契約も、全部消えてる」
「だが、ここには人がいた」
「……はい」
鍵を開ける。ドアを押す。
中は、普通の部屋だった。
リビング。テーブル。ソファ。テレビ。冷蔵庫の低い音が響いている。
だが——
“誰の部屋か”が分からない。
生活の痕跡はある。だが、それがどの人間に結びつくのか、認識できない。
テーブルの上に皿が置かれている。料理の残り。箸が二膳。
「……二人分、か」
高峰が呟く。
「いや、違う気がするんです」
刑事が言う。
「三人だったような……いや、二人……」
言葉が曖昧になる。
高峰は皿に触れた。
冷たい。
だが、乾いてはいない。ついさっきまで誰かが触れていたような感触。
「冷蔵庫」
開ける。中には食材が入っている。賞味期限は切れていない。整理もされている。
普通の生活。
ただ、“誰の生活か”がない。
そのとき。
リビングの奥、壁に掛けられた写真に目が止まった。
家族写真。
笑顔の人物が並んでいる。
二人。
高峰はしばらく見ていた。
違和感がある。
何が足りないのか、言葉にならない。
だが——
足りない。
確実に。
「……なあ」
高峰が言う。
「この写真、二人だけか?」
「え?」
刑事が覗き込む。
「……そうですね。夫婦、ですかね」
「いや」
高峰は首を振った。
「違う」
何が違うのか、説明できない。
だが、この写真は——
本来、三人だった。
はずだ。
その瞬間。
写真の中の笑顔が、わずかに歪んだ気がした。
気のせいかもしれない。
だが、視線を逸らしたくなる感覚があった。
高峰はポケットから端末を取り出す。
画面に、通知が一つ。
開く。
ログ解析の簡易結果。
異常値が表示されている。
「……なんだこれ」
思わず呟く。
通信ログの一部が、重複している。
同じ時刻、同じ端末、同じ通信。
だが、送信先が——
二つある。
一つは通常のサーバー。
もう一つは、
存在しないアドレス。
登録も、記録もない。
にもかかわらず、通信だけが成立している。
「……二重接続か」
刑事が言う。
「そんなこと、あり得るんですか」
「通常はない」
高峰は画面を睨んだ。
だが、残響案件では——
あり得る。
現実の裏側に、もう一つの“接続先”が発生する。
記録に残らない場所。
だが、確実に存在している。
そのとき。
廊下のほうから、音がした。
足音。
ゆっくりと近づいてくる。
高峰と刑事が同時に振り返る。
誰もいない。
だが、音だけが続く。
一定のリズムで。
こちらに向かってくる。
「……誰か、いますか?」
刑事が声をかける。
返事はない。
足音は、止まらない。
そして——
六〇二号室の前で、ぴたりと止まった。
ドアノブが、わずかに動いた。
カチャ、と音がする。
鍵は、かかっているはずだった。
だが、ゆっくりと——
ドアが、開いた。
中は、暗かった。
照明はついていない。
だが、その奥に——
“何か”がいる。
と、感じた。
輪郭は見えない。
形も分からない。
ただ、そこに“認識されていない存在”がある。
高峰の喉が、わずかに乾いた。
(……早いな)
進行が。
想定よりも。
速い。
これは、もう——
初期段階ではない。
完全に、“向こう側”が干渉してきている。
高峰は、端末の画面を見たまま、小さく呟いた。
「……これは、祓屋案件だ」
その言葉が、廊下の空気に吸い込まれるように消えた。




