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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第49話 受け入れるもの 第3章 受け継ぐもの

 森は静かだった。

 風は吹いている。

 沢も流れている。

 それでも時間だけが止まったようだった。


 愛音は空海を見つめていた。

 大鎌は構えたまま。

 しかし、その切っ先は僅かに下がっている。

 これまで鬼を前にして、そのような構えをしたことは一度もなかった。


 鬼は吸収するもの。

 その考えは変わらない。

 だが、目の前の老人だけは違った。

 敵ではない。

 そう思った訳ではない。

 ただ、敵という言葉が当てはまらなかった。


 空海はゆっくりと愛音へ歩み寄る。

 恐れはない。

 迷いもない。

 一歩。

 また一歩。

 老人は愛音の目の前で静かに立ち止まった。


《お前は九つ受け取った。》

《器を整え。》

《人格を知り。》

《核へ触れた。》

《そして今。》

《最後の門へ来た。》


 愛音は答えない。

 胸元の翡翠だけが静かに鼓動を刻んでいる。


《鬼を吸収するとは。》

《鬼になることではない。》

《その者が歩いた道を、自らの中へ迎え入れることだ。》


 老人は愛音の胸元を見る。

 翡翠は深い翠色を帯びていた。


《その石は、お前の力ではない。》

《お前が受け入れた命の証だ。》


 その言葉と共に、翡翠の奥で小さな光が揺れた。

 一つ。

 また一つ。

 静かな光だった。


 骨。

 血。

 肉。

 皮。

 夢。

 影。

 鏡。

 虚。

 鎖。


 九つの残響は争わない。

 互いを押し退けることもない。

 静かに一つの器の中で眠っている。


 空海は微笑んだ。


《ようやく揃った。》

《だから我も安心して託せる。》


 老人は両手を胸の前で合わせる。

 祈るようだった。

 その姿を見た瞬間、愛音の胸が小さく痛んだ。

 理由は分からない。

 だが、その姿を壊したくないと思った。

 初めてだった。

 鬼を前にして、そのように感じたのは。


 愛音はゆっくりと大鎌を持ち直す。

 刃を向ける。

 しかし、そこに敵意はない。


 空海は静かに頷いた。


《それで良い。》

《斬るのではない。》

《導け。》


 愛音は目を閉じる。

 大鎌は武器ではない。

 残響を受け入れるための器。

 その意味を、今ようやく理解し始めていた。


 柄を握る手へ力が入る。

 胸元の翡翠が静かに呼応する。


 森を吹き抜ける風が、老人の法衣を優しく揺らした。

 誰も動かない。

 誰も急がない。

 まるで世界そのものが、この瞬間だけは別れを惜しんでいるようだった。


 そして。

 愛音は静かに、大鎌を前へ差し出した。


 大鎌の刃先が静かに空海の胸元へ触れた。

 冷たい鉄。

 だが、その刃は老人の身体を傷付けない。

 斬るための刃ではなかった。

 導くための器。

 受け入れるための門。


 空海は静かに目を閉じる。


《そうだ。》

《そのまま。》

《力ではなく、想いを受け入れよ。》


 胸元の翡翠が脈打つ。

 一度。

 また一度。


 その鼓動へ呼応するように、空海の身体が淡い光へ包まれていく。

 怒りではない。

 怨みでもない。

 穏やかな光だった。

 長い年月を生き、長い祈りを重ねた者だけが持つ静かな温もり。


 光はゆっくりと大鎌へ流れ始める。

 刃を伝い。

 柄を伝い。

 その全てが翡翠へ吸い込まれていく。


 何も暴れない。

 何も拒まない。

 まるで長い旅を終えた旅人が、ようやく帰る場所を見つけたようだった。


 愛音は目を閉じる。

 その瞬間だった。


 無数の景色が胸の奥を流れていく。


 山道。

 海。

 寺。

 雨の日。

 雪の日。

 幼子へ微笑む老人。

 泣いている者へ寄り添う僧。

 名も知らぬ人々が救われ、静かに去っていく姿。


 どれも戦いではない。

 誰かを倒した記憶でもない。

 ただ、人を受け入れ続けた人生だった。


 愛音は息を呑む。


 鬼とは。

 恐ろしいものだと思っていた。

 苦しみだけが残った存在だと思っていた。


 違う。


 鬼にも人生があった。

 願いがあった。

 守りたかったものがあった。


 その全てが翡翠の中へ静かに積み重なっていく。


《もう良い。》


 空海の声が優しく響く。


《これで我は終われる。》

《いや。》

《ようやく始まる。》


 老人の身体が光へ変わる。

 その姿は輪郭を失い、夜風へ溶けていった。


《忘れるな。》

《受け入れるとは。》

《誰かを許すことではない。》

《その者が生きた証まで否定しないことだ。》


 最後の言葉だった。


 光は静かに翡翠へ吸い込まれる。

 十度目の鼓動。

 翡翠が深い翠色へ染まる。


 その奥で、十の残響が静かに息づいていた。


 第一層、器。

 骨。

 血。

 肉。

 皮。


 第二層、人格。

 夢。

 影。

 鏡。

 虚。


 第三層、核。

 鎖。

 そして。

 門。


 十体は争わない。

 互いを侵さない。

 一つの器の中で、それぞれの役目を静かに受け入れていた。


 愛音は胸へ手を当てる。

 温かい。

 初めてだった。

 鬼を吸収して、温かいと思ったのは。


 ゆっくりと目を開く。


 空海の姿はもうなかった。

 静かな森だけが残っている。


 風が吹く。

 枝葉が揺れる。

 鳥が鳴く。


 先ほどまでと同じ景色。

 それでも何かが違う。


 愛音は無意識に空を見上げた。

 木々の隙間から、小さく月が覗いている。


「……きれい。」


 小さな呟きだった。

 誰へ聞かせる訳でもない。

 自然に零れた言葉だった。


 その瞬間。

 胸元の翡翠が静かに脈打つ。

 まるで空海が微笑んだように。


 しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。


 森の奥。

 十数本の木々の向こうから、一羽の鳥が鋭く飛び立つ。

 続いて、また一羽。

 そして、森全体がざわめき始める。


 獣ではない。

 風でもない。

 複数の人間が、音を殺して森を進んでいた。


 愛音はゆっくりと視線を向ける。

 その瞳から迷いは消えていた。


 だが、その奥には。

 これまで存在しなかった静かな感情だけが、確かに芽生え始めていた。

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