表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
PR
268/269

第49話 受け入れるもの 第4章 拒むもの

 森の空気が静かに張り詰めた。

 風が止む。

 沢のせせらぎだけが、遠くから微かに聞こえていた。

 愛音はゆっくりと振り返る。

 木々の隙間。

 黒い人影が一つ。

 また一つ。

 音もなく、しかしじわりと滲み出るように姿を現していく。

 七人。

 全員が黒い戦闘服を纏い、白い仮面で顔を隠していた。

 祀社直属の制圧部隊。

 誰も名乗らない。

 誰も言葉を発しない。

 ただ任務だけを遂行する者達だった。

 愛音は静かに黒い布袋を下ろす。

 布を解く。

 柄を取り出す。

 続いて銀色の刃を静かに装着する。

 カチリ、と乾いた金属音が森へ小さく響いた。

 その瞬間、大鎌は本来の姿へ戻る。

 長い柄。

 弧を描く黒い刃。

 光を吸い込むような静かな存在感だけが漂っていた。

「排除命令。」

 愛音は小さく呟く。

「確認。」

 誰も返事をしない。

 先頭の男がゆっくりと短刀を抜く。

 シャッ、と鋭い音が空気を裂いた。

 続く六人も同時に武器を構える。

 愛音は七人を見つめる。

 恐怖。

 敵意。

 殺意。

 僅かな焦燥。

 それら全てが、以前より鮮明に伝わってきた。

 胸の奥に、ざらりとした感触が広がる。

 これは――ただの情報ではない。

 重い。

 冷たい。

 刺さるような感覚。

 まるで他人の感情が、そのまま自分の内側に流れ込んでくるようだった。

 空海を受け入れてから初めてだった。

 感情が、力ではなく意味を持って伝わってくる。

《人は受け入れぬものを恐れる。》

 空海の声が胸の奥で静かに響く。

 愛音は七人を見つめ続けた。

 この者達は。

 私を恐れている。

 その理解は、思考としてではなく、感覚として落ちてきた。

 喉の奥がわずかに締まる。

 胸の奥が、ほんの一瞬だけ鈍く痛む。

 ――恐れている。

 自分を。

 それは、これまで感じたことのない種類の認識だった。

 敵意や殺意は、ただ排除すべきものだった。

 だが今は違う。

 その奥にあるものが見える。

 理解できてしまう。

 なぜ恐れるのか。

 何を恐れているのか。

 それが、分かってしまう。

 理解した瞬間、ほんの僅かに――迷いが生まれた。

 この者達は、ただ命令に従っているだけだ。

 自分と同じように。

 その事実が、胸の奥に引っかかる。

 だが。

 その感覚はすぐに沈んだ。

 命令は変わらない。

 敵は排除する。

 それもまた、変わらない。

 理解しただけだった。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 一人が地面を蹴る。

 ドンッ、と土が弾ける。

 空気がビュン、と裂ける。

 一直線に首筋を狙う黒い刃が閃いた。

 愛音は半歩だけ身体をずらした。

 スッ、と風を切る刃先が頬を掠める。

 同時に、大鎌の柄が男の胸へ触れる。

 ただ、それだけだった。

 次の瞬間――ドゴォッ!!

 男の身体が弾丸のように吹き飛ぶ。

 背後の大木へ激突する。

 バキィッ、と骨が砕ける鈍い音。

 幹が揺れ、葉がざわりと震える。

 身体は力なく地面へ崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 死んでいた。

 残る六人は一瞬たりとも止まらない。

 仲間の死を確認することもなく、一斉に包囲を狭める。

 ザッ、ザッ、と足音が重なり、円が縮まる。

 前。

 後ろ。

 左右。

 上。

 死角を作らない見事な連携だった。

 愛音はその中心で静かに立っている。

 逃げない。

 焦らない。

 だが、先ほど感じた感覚が、まだ胸の奥に残っていた。

 恐怖。

 それは、ただ排除すべきものではなく――

 理解できてしまうものへと変わっていた。

 大鎌をゆっくりと横へ払う。

 ヒュン――と低く唸る風切り音。

 刃は誰も斬らない。

 だが、黒い軌跡が稲妻のように森を走る。

 その軌跡へ七人が纏う残穢だけが、ズズッ、と吸い寄せられていった。

 敵意。

 殺意。

 恐怖。

 覚悟。

 全てが黒い粒子となり、ザラザラと音を立てるように大鎌を伝って胸元の翡翠へ流れ込む。

 流れ込むたびに、先ほどと同じ感覚が胸をかすめる。

 重い。

 冷たい。

 だが、拒絶はしない。

 門鬼は拒まない。

 与えられたものを、そのまま受け入れる。

 六人の術式札が、パキ…パキ…とひび割れるように崩れ始めた。

 一枚。

 また一枚。

 ボロボロと崩れ落ちる。

 術式の核となる残穢が消えたことで、札そのものが存在を保てなくなっていた。

 仮面の奥で、一人の男が初めて息を呑む。

「……何だ。」

 小さな声だった。

 愛音は答えない。

 翡翠だけがドクン、と静かに脈打つ。

 敵意すら。

 殺意すら。

 拒まない。

 全てを受け入れ、自らの力へ変えていく。

 その姿を見た瞬間、一人の構成員が後ずさった。

 ザリ、と足が土を擦る。

 目の前にいるのは、自分達が知る『器』ではない。

 もっと別の存在へ変わり始めている。

 そう理解した時には、既に遅かった。

 愛音は大鎌を静かに構え直した。

 その動きは滑らかで、しかし次の瞬間には嵐のような一撃を予感させる。

 その瞳には怒りも憎しみもない。

 ただ、次の一撃を放つためだけの静かな意思が宿っていた。


 森は静まり返っていた。

 風が枝葉を擦る音だけが、かすかに耳へ届く。

 湿った土の匂いと、踏み荒らされた落ち葉の感触が足裏に伝わる。

 誰も動かない。

 張り詰めた空気が、肌に刺さるようだった。

 動いたのは愛音だけだった。

 胸元の翡翠が、微かに脈打つ。

 鼓動に合わせるように、淡い光が内側で揺れる。

 大鎌の刃は誰にも触れていない。

 だが、振るわれた軌跡だけが黒い残像となって森を走り、七人の身体へ絡みついていた残穢を引き剥がしていく。

 ざらり、と空気が擦れる音。

 黒い粒子が剥離し、糸のように引き伸ばされる。

 敵意。

 殺意。

 恐怖。

 覚悟。

 それらが形を失い、細かな粒となって大鎌へ吸い寄せられる。

 吸い込まれるたびに、翡翠が低く震えた。

 門は拒まない。

 与えられたものを、そのまま受け入れる。

 ただ、それだけだった。

 七人の術式札が、ぱらり、と乾いた音を立てて崩れ落ちる。

 一枚。

 また一枚。

 紙が裂けるような微かな音と共に、力を失った札が風に舞い上がる。

 術式を維持していた残穢が消え、ただの紙片へと戻っていく。

 構成員達の呼吸が乱れる。

 仮面越しでも分かる。

 肩がわずかに揺れ、足の踏み込みが鈍る。

 初めての動揺だった。

 だが。

 誰一人として退かなかった。

「任務を続行する。」

 先頭の男が低く告げる。

 その声はわずかに掠れていたが、迷いはなかった。

 次の瞬間。

 六人が同時に地面を蹴る。

 乾いた土が弾け、落ち葉が舞い上がる。

 踏み込みの衝撃が地面を震わせた。

 命令だけが彼らを動かしていた。

 愛音は静かに大鎌を下ろす。

 刃先が地面すれすれで止まり、風を切る音が消える。

 もう使う必要はなかった。

 残穢は受け入れた。

 残されたのは人間だけだった。

 一人が拳を振り上げる。

 空気を裂く音が耳元をかすめる。

 愛音は避けない。

 右手を伸ばす。

 掴む。

 男の顔。

 仮面に触れた瞬間、ぎしり、と嫌な音が鳴る。

 そのまま握り締めた。

 砕ける。

 硬質な破砕音が森に響き、仮面が粉々に砕け散る。

 破片が頬をかすめ、地面へ散った。

 男の身体が一瞬硬直する。

 振り下ろす。

 叩き付ける。

 ドン。

 鈍い衝撃。

 地面が沈み、土が跳ね上がる。

 男は動かない。

 二人目が背後から組み付く。

 腕が首へ回り、締め上げようとする。

 だが愛音は振り返らない。

 腕を掴む。

 骨が軋む音が指先に伝わる。

 そのまま身体ごと持ち上げた。

 軽い。

 空気を切る音。

 放る。

 次の瞬間、大木へ叩き付けられた。

 轟音。

 幹が裂け、木片が飛び散る。

 葉が一斉に揺れ、ざわりと森が鳴る。

 男の身体はそのまま崩れ落ち、動きを止めた。

 残る五人は止まらない。

 足音が重なり、地面を打つ振動が連続する。

 愛音も止まらない。

 拳が振るわれる。

 風を裂く鋭い音。

 蹴りが放たれる。

 空気が唸る。

 愛音は最小限の動きでかわす。

 わずかな体重移動だけで攻撃を外し、間合いへ入り込む。

 掴む。

 腕。

 折る。

 関節が逆方向へ折れ曲がる音が響く。

 短い悲鳴が途切れる。

 打つ。

 腹部へ拳を沈める。

 衝撃が内部へ伝わり、空気が押し出される音が漏れる。

 持ち上げる。

 叩き付ける。

 岩へ。

 砕ける。

 石が砕け、破片が飛び散る。

 人の身体は脆かった。

 圧倒的な筋力の前では、抵抗にもならない。

 四人目。

 五人目。

 六人目。

 七人目。

 衝撃音が重なる。

 そして。

 途切れた。

 数分後。

 森には風だけが流れていた。

 揺れる枝葉の音が、先ほどまでの激しさを嘘のように消し去る。

 七人全員が息絶えている。

 誰一人、生きてはいなかった。

 愛音は静かに立っている。

 呼吸一つ乱れていない。

 胸も上下せず、ただそこに存在しているだけだった。

 任務は終わった。

 それだけのはずだった。

 以前なら。

 そのまま踵を返していた。

 しかし。

 足が動かない。

 七つの亡骸を見つめる。

 砕けた仮面。

 折れた木。

 抉れた地面。

 戦闘の痕跡が、静かに残っている。

 命令通り排除した。

 間違ってはいない。

 それでも。

 胸の奥へ、小さな穴が開いたような感覚だけが残っていた。

 それは、冷たい風が通り抜ける空洞のようでもあり、底の見えない水面に石を落としたときの、波紋だけが広がっていくような感覚でもあった。

 何かが欠けたのか、それとも初めて何かが生まれたのか、自分でも判別がつかない。

「……。」

 初めてだった。

 何を感じているのか分からない。

 悲しいのでもない。

 苦しいのでもない。

 もっと曖昧で、名前の付けられない何か。

 それは霧のように輪郭を持たず、掴もうとすれば指の間からすり抜けていく。

 けれど確かにそこにあり、胸の奥で静かに揺れている。

 翡翠へそっと手を添える。

 ひんやりとした感触が掌に伝わる。

 十体の鬼は静かだった。

 骨。

 血。

 肉。

 皮。

 夢。

 影。

 鏡。

 虚。

 鎖。

 門。

 誰も語り掛けてこない。

 それなのに。

 空海の言葉だけが、静かに胸の奥で響いた。

《失うことを知る。》

《それもまた、受け入れるということだ。》

 その言葉は、水面に落ちた一滴のように、愛音の内側へゆっくりと沈んでいく。

 理解はできない。

 だが、拒むこともできない。

 ただ、そこにある。

 愛音はもう一度だけ亡骸を見つめる。

 理解できない。

 理解できないまま、その感覚だけを胸へ残した。

 だが歩き出す直前、もう一度だけ振り返った。

 七人は動かない。

 恐怖も。

 敵意も。

 命令も。

 全て終わっていた。

 それでも。

 愛音の胸の奥だけは、静かに揺れ続けていた。

 それは消えかけの灯火のように弱く、しかし確かに消えずに残り続ける。

 名もないその感情は、まだ形を持たないまま、彼女の内側でゆっくりと息をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ