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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第49話 受け入れるもの 第2章 受け入れるもの

 森は深かった。

 月明かりは枝葉に遮られ、地面へ届かない。

 湿った土。

 苔の匂い。

 遠くで沢の流れる音だけが静かに響いている。

 愛音は歩いていた。

 急がない。

 足音すら森へ溶けていく。

 胸元の翡翠は一定の鼓動を刻み続けていた。

 鬼は近い。

 翡翠が教えている。

 だが、奇妙だった。

 今まで鬼へ近付けば近付くほど、翡翠は強く脈打った。

 残響が周囲を侵食し、世界そのものが歪んでいく。

 しかし、この森にはそれがない。

 静かだった。

 あまりにも静かだった。

 鳥は逃げない。

 虫も鳴き続けている。

 木々も枯れていない。

 残響が存在しているとは思えないほど、自然は自然のままだった。

 愛音は立ち止まる。

(……ここ。)

 翡翠は確かに反応している。

 だが、周囲には敵意が存在しない。

 その時だった。

 風が吹く。

 森全体を優しく撫でるような風だった。

 葉が揺れる。

 枝が鳴る。

 その音に混じって、一つの声が聞こえた。

《ようやく来たか。》

 老人の声だった。

 穏やかだった。

 怒りも。

 憎しみも。

 悲しみもない。

 愛音は静かに大鎌を構える。

「門鬼。」

 その一言だけだった。

 返事はない。

 代わりに風だけがもう一度吹き抜ける。

《武器を下ろせ。》

《我は争わぬ。》

 愛音は動かない。

 鬼は滅ぼすもの。

 吸収するもの。

 それ以外を知らない。

 だから構えを解かない。

 木立の向こうから、一人の僧がゆっくり姿を現した。

 質素な法衣。

 手には何も持っていない。

 白い髭。

 穏やかな眼差し。

 まるで寺で道を掃いている老人のようだった。

 その姿を見ても、翡翠は脈打ち続ける。

 間違いない。

 この老人こそ門鬼だった。

 老人は愛音を見る。

 ゆっくり微笑む。

《怖いか。》

 愛音は即座に答えた。

「怖くない。」

《そうか。》

 老人は頷く。

《ならば、お前は何を恐れている。》

 愛音は黙る。

 意味が分からない。

 恐れていない。

 だから答えようがなかった。

 老人は静かに森を見回した。

《人は受け入れぬものを恐れる。》

《知らぬものを拒む。》

《だから争う。》

 一拍。

《お前は何を受け入れてきた。》

 愛音は答える。

「命令。」

 老人は静かに笑った。

《違う。》

《それは従っただけだ。》

《受け入れたのではない。》

 愛音の表情が初めて僅かに揺れる。

 命令と受容。

 何が違うのか。

 分からない。

 老人は一本の若木へ手を添えた。

《木は雨を拒まぬ。》

《風も拒まぬ。》

《暑さも寒さも受け入れる。》

《だから育つ。》

 静かな声だった。

 説教ではない。

 教えるでもない。

 ただ、事実を語っている。

 愛音はその若木を見る。

 細い幹。

 小さな葉。

 風に揺れている。

 それでも折れない。

 その姿を見つめる時間が、少しだけ長くなった。

 門鬼は愛音へ視線を戻す。

《お前は今まで。》

《鬼を吸収した。》

《力を受け取った。》

《だが。》

《心は、一つも受け入れておらぬ。》

 その言葉が森へ静かに落ちる。

 胸元の翡翠が、小さく一度だけ脈打った。

 愛音は無意識に胸へ手を添える。

 その鼓動が、いつもより少しだけ温かく感じられた。

 風が止んだ。

 森は再び静寂へ包まれる。

 葉擦れの音さえ消え、沢の流れる音だけが遠くで細く続いていた。

 愛音は門鬼を見つめていた。

 敵意がない。

 殺気もない。

 これまで吸収してきた鬼とは決定的に違っていた。

 円山応挙は景色へ人を閉じ込めた。

 松尾芭蕉は痛みを世界へ染み渡らせた。

 徳川家康は人を縛った。

 目の前の老人は違う。

 何もしない。

 ただ、そこに立っている。

 それだけで森が静かだった。

《不思議か。》

 愛音は小さく頷く。

「戦わないの?」

《必要がない。》

 門鬼は穏やかな表情を崩さなかった。

《争いは拒む心から生まれる。》

《我は何も拒まぬ。》

 愛音は理解できなかった。

 鬼とは、人へ執着し、無念を抱き、現世へ留まり続ける存在。

 それが残響だった。

 だが、この老人からは執着すら感じない。

「……どうして。」

 初めて愛音から問いが零れた。

「残ってる。」

 門鬼は静かに目を閉じる。

《人は誤る。》

《世界もまた誤る。》

《誤りを拒めば、新たな誤りを生む。》

《だから見届けていた。》

《受け入れ続けてきた。》

「お前は…。」

《……儂は空海。》

 一枚の枯葉が枝から離れる。

 ゆっくりと地面へ落ちた。

 空海はその葉を見つめる。

《散ることも自然。》

《芽吹くことも自然。》

《受け入れるとは、諦めることではない。》

《ありのままを知ることだ。》

 愛音も枯葉を見る。

 葉は土へ触れた。

 そのまま動かない。

 誰も拾わない。

 誰も悲しまない。

 ただ森の一部になっていく。

《お前は吸収してきた。》

《だが、吸収とは受容ではない。》

《力を奪うだけでは、お前の中には何も残らぬ。》

 愛音は胸元の翡翠へ触れる。

 その中には四体の鬼が眠っている。

 骨。

 血。

 肉。

 影。

 力だけは確かに残っていた。

 だが、その鬼達が何を願い、何を残したかったのか。

 考えたことは一度もなかった。

 命令だったから。

 それだけだった。

《この森を見よ。》

 空海が静かに両手を広げる。

 風が吹く。

 枝が揺れる。

 鳥が飛び立つ。

 沢は流れ続ける。

《誰も誰かを支配しておらぬ。》

《それでも、一つの世界を形作っている。》

《受け入れるとは、そのことだ。》

 愛音は森を見渡す。

 静かな世界だった。

 敵もいない。

 恐怖もない。

 それでも満たされている。

 その感覚を、愛音は初めて知った。

《もう時間だ。》

 空海が愛音を見る。

 穏やかな笑みは変わらない。

《お前は我を吸収する。》

《それが役目なのだろう。》

 愛音は大鎌を静かに構えた。

 しかし、その手はわずかに止まる。

 ほんの一瞬だった。

 今まで一度もなかった迷い。

 空海はその変化を見逃さなかった。

《良い。》

《その一瞬が、お前を人へ近付ける。》

 老人は静かに目を閉じる。

《我は抗わぬ。》

《最後に一つだけ受け入れよう。》

《お前という未来を。》

 胸元の翡翠が強く脈打つ。

 森を満たしていた静寂が、ゆっくりと愛音の周囲へ集まり始めた。

 まるで森そのものが、老人を送り出そうとしているようだった。

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