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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第49話 受け入れるもの 第1章 動き出すもの

 祀社は静かだった。

 夜だった。

 窓のない白い廊下がどこまでも続いている。

 天井へ埋め込まれた照明だけが、均一な白い光を床へ落としていた。

 音はない。

 人の気配も薄い。

 ここでは時間という概念が曖昧だった。

 朝も夜も意味を持たない。

 あるのは命令だけ。

 平山愛音は一人で歩いていた。

 黒いドレス。

 胸元には翡翠。

 漆黒の石は鼓動に合わせるように微かに脈打っている。

 その脈動が以前より少しだけ強くなっていた。

 本人だけが気付いていない。

 鬼を四体吸収した頃からだった。

 歩く速度が変わった。

 周囲を見る時間が増えた。

 誰かが落とした資料へ目を向けるようになった。

 ほんの僅かな変化だった。

 誰も気に留めないほど小さな違い。

 だが、祀社という組織では、その僅かな変化こそが異常だった。

 廊下の向こうから白衣姿の研究員が歩いてくる。

 愛音を見る。

 一瞬だけ視線が止まる。

 すぐに逸らす。

 何も言わず通り過ぎる。

 その行動が今日だけで五人目だった。

 愛音は立ち止まる。

(……?)

 理由は分からない。

 だが、何かが違う。

 今までと空気が違っていた。

 視線。

 歩幅。

 呼吸。

 全てがどこか固い。

 まるで誰もが同じ秘密を抱えているようだった。

 その時、頭の中に主様の声が響いた。

《愛音》

 低く落ち着いた声だった。

 愛音は即座に踵を返す。

「はい」

《来なさい》

 短い命令。

 それだけだった。

     ◇

 最奥部。

 誰も近付かない部屋がある。

 重い扉。

 白い壁。

 何の装飾もない空間。

 愛音は静かに一礼した。

「主様、どうしたの」

 部屋の奥には、一人の男が座っていた。

 逆光だった。

 顔は見えない。

 ただ、人影だけが静かに椅子へ腰掛けている。

 愛音は跪く。

 胸元の翡翠が一度だけ黒く明滅した。

 長い沈黙。

 やがて男が口を開く。

《門鬼となった者を回収せよ》

 それだけだった。

 愛音は頷く。

「うん。」

 命令は終わる。

 愛音は嬉しそうに立ち上がる。

 いつもなら、そのまま部屋を出ていた。

 しかし。

 今日は違った。

 部屋を出ようとした瞬間。

 足が止まる。

 自分でも理由が分からない。

 振り返る。

 逆光の中。

 男は静かに座ったまま動かない。

 その姿を見た瞬間。

 胸の奥が僅かに痛んだ。

 本当に僅かだった。

 針で刺されたような痛み。

(……何。)

 初めてだった。

 主様を見て、そのような感覚を抱いたことは。

 男はゆっくり顔を上げる。

《どうした》

「……ううん。」

 愛音は静かに頭を下げた。

「いってきます。」

 扉が閉まる。

 重い音が廊下へ響いた。

     ◇

 監視室。

 壁一面に並ぶモニターが、祀社の各施設を映していた。

 研究棟。

 保管庫。

 実験室。

 隔離区画。

 数十枚の映像が無音で流れている。

 その中の一つ。

 愛音が歩く廊下だけを映す画面があった。

 一人の男が、その映像を眺めている。

 美濃祐次。

 四十代後半。

 整えられた髪。

 皺一つないスーツ。

 表情は薄い。

 手には黒い革張りの手帳が一冊だけ握られていた。

 彼は映像から目を離さない。

 何も書かない。

 ただ観察する。

 やがて小さく呟いた。

「予定通りか。」

 感情はない。

 安堵も。

 期待も。

 ただ確認するだけだった。

 モニターの端には別の映像が映っている。

 地下区画。

 数人の構成員。

 武装。

 短刀。

 量子暗号札。

 通信機。

 誰も口を開かない。

 静かに装備を確認している。

 美濃はその光景を一瞥した。

 興味はない。

 彼が見ているのは、結果だけだった。

(仮説。)

(人格形成は鬼の吸収速度へ比例する。)

(検証開始。)

 黒い手帳を開く。

 一頁だけ。

 何も書かれていない白紙へ、万年筆を走らせる。

 『開始』

 たった二文字。

 それだけを書くと手帳を閉じた。

 その瞬間だった。

 地下区画の照明が一瞬だけ明滅する。

 誰も気付かない。

 誰にも見えない場所で。

 静かに歯車が動き始めていた。

     ◇

 廊下は静かだった。

 愛音は歩く。

 足音だけが白い床へ規則正しく響いていた。

 胸元の翡翠は穏やかに明滅を繰り返している。

 主様から命令を受けた。

 それだけで十分だった。

 これまでは。

 しかし今日だけは違う。

 廊下を歩くたび、周囲の視線が肌へ刺さる。

 誰も何も言わない。

 研究員も。

 構成員も。

 すれ違えば静かに頭を下げる。

 それだけだった。

 だが、愛音には分かった。

 誰も自分を見ていない。

 正確には。

 見ないようにしている。

(……どうして。)

 理由は分からない。

 考えても答えは出ない。

 だから歩き続ける。

 角を曲がった時だった。

 研究員が一人、床へ書類を落とした。

 紙が散らばる。

 男は慌てて膝をついた。

「しまっ……。」

 その瞬間、愛音も立ち止まっていた。

 自分でも無意識だった。

 一枚だけ。

 床へ落ちた資料を拾う。

 研究員は目を丸くした。

「……ありがとう、ございます。」

 愛音は資料を渡す。

「落ちてた。」

「は、はい。」

 男は両手で受け取った。

 愛音はそのまま歩き始める。

 後ろで男が固まったまま立ち尽くしていることにも気付かない。

 今までの愛音なら、止まることすらなかった。

 命令以外へ興味を示さなかった。

 その小さな変化を、廊下の監視カメラだけが静かに映していた。

     ◇

 監視室。

 美濃は映像を見続けていた。

 研究員へ資料を返す愛音。

 その場面で映像を止める。

 数秒。

 何も言わない。

 黒い手帳を開く。

 『対象、自発行動を確認』

 そこまで書き、万年筆が止まる。

 少し考える。

 その一文へ一本線を引いた。

 書き直す。

 『命令外行動を確認』

 静かに頷く。

「そういうことか。」

 それ以上の感想はない。

 結論だけが重要だった。

 手帳を閉じる。

 彼の興味は既に次の検証へ移っていた。

     ◇

 搬出口は静まり返っていた。

 夜風だけが、開いた搬入口からゆっくりと流れ込んでくる。

 愛音は足を止めた。

 誰もいないことを確認すると、背中へ背負った黒い布袋を静かに下ろす。

 布袋は長かった。

 一般人が見れば、演武用の薙刀か、スポーツ用品を運ぶ袋にしか見えない。

 愛音は慣れた手つきで袋を開いた。

 一本の長い柄を取り出す。

 続いて、布へ丁寧に包まれていた半月状の刃を取り出した。

 刃には装飾がない。

 黒く鈍い光を返すだけの、静かな鉄だった。

 柄の先端へ重ねる。

 小さな固定音が響いた。

 それだけだった。

 派手な光も。

 機械音もない。

 ただ、二つの部品が一つになり、本来の姿を取り戻した。

 胸元の翡翠が微かに脈打つ。

 愛音は完成した大鎌を静かに握り直した。

 これは武器ではない。

 残響を切り裂くものでもない。

 残響を絡め取り、導き、受け入れるための器。

 その役目だけを持つ道具だった。

 愛音は刃先を何もない空間へゆっくりと滑らせる。

 刃が触れた場所から、細い黒い線が現れた。

 空間が裂けたのではない。

 世界へ染み込んでいる残響が、大鎌へ引き寄せられた痕跡だった。

 黒い線は静かに揺らぎながら広がっていく。

 やがて人一人が通れるほどの闇となり、向こう側には深い森が映り始めた。

 愛音は躊躇なく歩き出す。

 闇へ身体が溶ける。

 黒いドレスが消え、最後に胸元の翡翠だけが一度だけ淡く明滅した。

 門は静かに閉じる。

 搬出口には、再び何事もなかったような静寂だけが残った。

     ◇

 同じ頃。

 監視室では、美濃祐次が無言でモニターを見つめていた。

 愛音が門を形成する様子。

 映像は何度も見てきた。

 変化はほとんどない。

 だが、一つだけ違っていた。

 門を開く直前。

 愛音はほんの一瞬だけ、森の景色を見つめていた。

 以前ならあり得なかった間だった。

 目的地へ転位する。

 それだけだった少女が、景色を認識している。

 美濃は黒い手帳を開く。

 万年筆を走らせる。

 『対象、外界への関心を確認』

 書き終える。

 少しだけ考える。

 静かに首を横へ振った。

 一本線で消す。

 書き直す。

 『対象、命令外情報を観測』

 今度は頷く。

「これでいい。」

 それだけだった。

 結果が得られた。

 もう興味は次へ移っている。

 手帳を閉じる。

 モニターの一つを切り替えた。

     ◇

 地下区画。

 照明は半分しか点いていない。

 七人の構成員が円形に並んでいた。

 全員が黒い戦闘服を纏い、顔は仮面で隠されている。

 中央の机には、一枚の写真が置かれていた。

 平山愛音。

 誰も名前を口にしない。

 一人が写真を裏返す。

「対象は単独行動。」

「主様の命令を最優先する。」

「鬼を吸収する前に処理する。」

 短い確認だけだった。

 質問はない。

 返事もない。

 静かに立ち上がる。

 全員が一斉に歩き出した。

 目的は一つ。

 平山愛音の排除。

 その命令が誰から出たのか。

 七人は知らない。

 知る必要もなかった。

     ◇

 夜の山中。

 門を抜けた愛音は静かに地面へ降り立つ。

 湿った土の匂い。

 風が木々を揺らす音。

 虫の声。

 森は生きていた。

 愛音はゆっくりと息を吸う。

 以前なら感じなかった空気の重さが、胸へ静かに流れ込んでくる。

(……静か。)

 その一言が、心の奥で小さく響いた。

 理由は分からない。

 だが、その静けさを、少しだけ心地良いと思った。

 その変化を知る者は、まだ誰もいなかった。

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