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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第48話 忘れられないもの第5章 忘れられないもの

 静寂は長く続いた。

 誰も動かない。

 水谷は開かれた本を見つめたまま立っていた。

 梓もまた、その隣で八鍵を下ろしている。

 戦う場所ではない。

 そのことだけは、もう二人とも理解していた。

 やがて老人が静かに口を開く。

《我が名は、稗田阿礼。》

 その名が記録庫へ落ちる。

 書架という書架が、小さく震えた。

 何百年。

 何千年。

 積み重ねられた記録が、その名へ応えるように紙を鳴らす。

 梓は深く頭を下げた。

「あなたが……。」

 阿礼は頷く。

《我は語り部ではない。》

《歴史を作る者でもない。》

《ただ、忘れられぬよう記す者。》

 その声は穏やかだった。

 責める響きはない。

 ただ事実だけを積み重ねていく。

「あなたは、人を苦しめている。」

 梓は静かに言った。

「忘れられない記憶で。」

 阿礼は否定しない。

《苦しめているのは我ではない。》

《忘れたくないと願う人の心である。》

 一拍。

《人は都合の悪いことを忘却と呼び、都合の良いことを思い出と呼ぶ。》

《だが記録は選ばぬ。》

《全てを等しく残す。》

 梓は言葉を失う。

 その考えは間違っていない。

 だからこそ、修正できない。

 鬼でありながら、悪ではない。

 水谷は静かに阿礼を見つめていた。

「……俺は。」

 掠れた声だった。

「忘れてたんじゃない。」

 阿礼は頷く。

《違う。》

《お前は奪われた。》

《人格を書き換えられた結果、己の記録へ辿り着けなくなった。》

 水谷はゆっくり目を閉じる。

 今まで何度も考えてきた。

 どうして自分だけ生き残ったのか。

 どうして記憶がないのか。

 どうして夜になると、知らない夢を見るのか。

 ようやく、その理由が一本の線になり始めていた。

《人は記憶だけでは生きぬ。》

《昨日まで積み重ねた選択が人格となる。》

《寄生体は、その選択を上書きする。》

《ゆえに本人は、自分で選んだと錯覚する。》

 水谷は拳を握る。

「俺は……。」

「俺は、家族を。」

 言葉が止まる。

 阿礼は首を横へ振った。

《まだ読む時ではない。》

《結果だけを見れば、人は己を裁く。》

《だが修正とは裁きではない。》

《知り、受け入れ、前へ進むことだ。》

 その言葉に、梓が静かに顔を上げた。

 修正。

 それは自分がずっと信じ続けてきた祓屋としての在り方だった。

 消すことではない。

 受け入れること。

 阿礼は、水谷ではなく梓を見つめる。

《真名井梓。》

《お前は人を救うために修正する。》

《では問おう。》

《忘却は罪か。》

 梓はすぐには答えられなかった。

 この鬼が抱え続けた無念。

 「忘れられること」。

 それは悪意ではない。

 存在した証を失う恐怖だった。

 梓は静かに息を吸う。

「……違います。」

 その声は小さい。

 それでも真っ直ぐだった。

「人は忘れるから生きていけます。」

「悲しみを全部抱えたままでは、前へ進めません。」

「だから忘却は裏切りじゃない。」

 一拍。

「生き続けるために、世界が人へ与えた祈りなんです。」

 その言葉を聞いた瞬間だった。

 阿礼の瞳が、初めて揺れた。

 何百年もの間、一度も変わらなかった表情が、僅かに崩れる。

 驚きでもない。

 悲しみでもない。

 長い年月を経て、ようやく誰かが自分の願いへ辿り着いたような、静かな安堵だった。

 記録庫の奥で、一冊の古い本が音もなく閉じた。

閉じた本は一冊だけではなかった。

 乾いた音が、静かな波紋のように書架の奥へ広がっていく。

 一冊。

 また一冊。

 長い年月を閉じ込めていた記録が、小さく息を吐くように綴じられていく。

 阿礼はその音へ静かに耳を傾けていた。

《……そうか。》

 短い一言だった。

《忘却は、喪失ではないか。》

 梓は頷く。

「思い出まで消える訳ではありません。」

「痛みは薄れても。」

「誰かを大切に思った気持ちは残ります。」

「だから人は、また誰かを好きになれる。」

「また笑える。」

「また、生きようと思える。」

 記録庫を満たしていた空気が、僅かに和らいだ。

 今まで微動だにしなかった書架が、小さく軋む。

 まるで長い眠りから目覚めたようだった。

 阿礼はゆっくりと目を閉じる。

《我は恐れていた。》

《誰も覚えておらぬ世界を。》

《誰も語らぬ歴史を。》

《誰も名を呼ばぬ人生を。》

 その声は鬼ではなかった。

 一人の人間だった。

 記すことでしか、人を残せなかった男の声だった。

「でも。」

 梓は静かに言う。

「全部を抱え続けることは、人には出来ません。」

「だから記録がある。」

「だから歴史がある。」

「人は忘れても。」

「世界は覚えていてくれる。」

「あなたが残してきたものは、消えていません。」

 阿礼は梓を見つめる。

 長い沈黙だった。

 やがて、小さく笑う。

 本当に僅かな笑みだった。

《そうか。》

《我は忘れられたのではない。》

《役目を果たしていたのか。》

 その瞬間だった。

 記録庫の奥で、一冊の巻物がひとりでにほどける。

 そこへ記されていた無数の文字が、静かに空へ溶けていく。

 黒い粒子ではない。

 淡い光だった。

 梓はその光景を見つめたまま動かなかった。

 滅びではない。

 修正だった。

 記録が消えるのではない。

 執着だけがほどけていく。

     ◇

 その光を見ながら、水谷はゆっくりと口を開いた。

「……俺も。」

 声は震えていた。

「忘れていいのか。」

 阿礼は静かに首を横へ振る。

《違う。》

《忘れようとするな。》

《受け入れよ。》

《受け入れた記憶は、やがて静かになる。》

《拒み続けた記憶だけが、人を縛る。》

 水谷は目を閉じた。

 今なら分かる。

 自分は記憶を恐れていたのではない。

 記憶を知れば、自分自身を許せなくなることを恐れていた。

 だから無意識に蓋をしていた。

 だが、その蓋は自分が閉めたものではなかった。

 寄生体によって削られ。

 結衣によって命を繋がれ。

 中森によって生かされ。

 梓と出会い。

 ようやく、ここまで辿り着いた。

 その全てが一本の道だった。

 阿礼は巻物を抱き直す。

《水谷真。》

《お前の記録は、まだ終わっておらぬ。》

《終わらせるのは過去ではない。》

《これからのお前だ。》

 水谷はゆっくりと頷いた。

「……ああ。」

 短い返事だった。

 しかし、その一言には今までにはなかった重みがあった。

 阿礼は最後に梓を見る。

《真名井梓。》

《修正とは、消すことではない。》

《受け継ぐことだ。》

《その答えを、お前は既に知っていた。》

 梓は静かに頭を下げた。

「……ありがとうございます。」

 その言葉と同時に、阿礼の身体が淡く光り始める。

 白い狩衣が風もない記録庫で静かに揺れる。

 巻物が音もなく閉じられた。

 無数の書架から、一斉に紙をめくる音が響く。

 それは別れではなかった。

 長い役目を終えた記録者へ送られる、世界そのものの静かな返答だった。

 阿礼は穏やかに微笑む。

《人は忘れる。》

《だからこそ、人は前へ進める。》

《ならば我も、安心して筆を置こう。》

 その言葉を最後に、阿礼の姿は光の粒となって静かに記録庫へ溶けていった。

 残されたのは、閉じられた巻物と、どこまでも続く静かな書架だけだった。

 そして水谷は、頬を伝う涙を拭うことなく、ただ長い時間、その場へ立ち尽くしていた。

光は静かだった。

 激しく弾けることもない。

 音を立てて崩れることもない。

 稗田阿礼の姿は、春先の朝靄が陽光へ溶けるように、ゆっくりと世界へ還っていく。

 記録庫を満たしていた圧迫感も、少しずつ薄れていた。

 書架はもう軋まない。

 本も落ちない。

 紙をめくる音だけが、どこか遠くで静かに響いている。

 最後の一冊が閉じる。

 乾いた音だった。

 その音を聞いた瞬間、水谷は胸の奥から何かが抜けていく感覚を覚えた。

 重かった。

 ずっと重かった。

 何年も。

 理由も分からないまま胸へ沈み続けていた石のようなものが、静かにほどけていく。

 消えたのではない。

 そこにある。

 だが、もう自分を押し潰そうとはしなかった。

 水谷はゆっくりと息を吐く。

 今まで気付かなかった。

 呼吸とは、こんなにも深く吸えるものだったのか。

「……真名井。」

 梓が振り返る。

 水谷は小さく笑った。

 本当に僅かだった。

 だが、梓はその笑みを見て目を細める。

 これまでの水谷は笑っても、どこか影が残っていた。

 心の一部だけが置き去りになったまま笑っているような、不自然さがあった。

 今の笑顔は違う。

 苦しみは消えていない。

 罪も消えていない。

 それでも、自分の人生として受け止めようとする覚悟だけが、静かに宿っていた。

「……ありがとう。」

 水谷はそう言った。

 梓は首を横へ振る。

「私は何も。」

「いや。」

 一拍置く。

「逃げなかった。」

「俺から。」

 梓は返事をしない。

 その沈黙だけで十分だった。

     ◇

 書架の奥から、微かな風が吹く。

 今まで閉ざされていた空気が流れ始める。

 積み重ねられた本の隙間から、小さな紙片が一枚だけ舞い上がった。

 梓は手を伸ばく。

 紙は掌へ静かに落ちた。

 そこには墨で、一文だけ記されていた。

 ――記録は残る。

 その下へ、新しい文字がゆっくりと浮かぶ。

 ――受け継ぐ者がいる限り。

 梓は静かに紙を畳み、胸元へしまった。

 阿礼が最後に残した記録だった。

     ◇

 遠くで、何かが崩れる音がした。

 記録庫ではない。

 もっと現実に近い場所。

 天井から細かな砂が落ちる。

 壁へ亀裂が走る。

 長い年月、この場所を支えていた残響が修正されたことで、残響空間そのものが役目を終えようとしていた。

「出ましょう。」

 梓が言う。

 水谷は頷く。

 二人は並んで歩き始める。

 来た時には果てが見えなかった書架が、今は一本道になっていた。

 迷うことはない。

 出口は一つだけだった。

 歩きながら、水谷は一度だけ後ろを振り返る。

 誰もいない。

 白い狩衣の姿もない。

 ただ静かな書架だけが、長い役目を終えた図書館のように佇んでいる。

「忘れない。」

 水谷は小さく呟いた。

「でも、縛られない。」

 その言葉は阿礼へ向けたものだったのか。

 結衣へ向けたものだったのか。

 それとも、自分自身へ向けたものだったのか。

 もう水谷にも分からなかった。

 ただ一つだけ分かることがある。

 人は過去だけでは生きられない。

 過去を抱えたまま、明日を選び続ける。

 それが、生きるということだった。

     ◇

 二人が記録庫を抜けた瞬間、背後で静かに扉が閉まった。

 振り返る。

 そこには古びた地下収蔵庫しかない。

 どこまでも続いていた書架は消えていた。

 床には埃だけが積もっている。

 何百年もの記録が存在していた痕跡さえ、もう残っていなかった。

 朝焼けが窓から差し込む。

 淡い橙色の光が資料館の廊下を照らしていた。

 水谷はその光へ目を細める。

 頬を撫でる風が心地よかった。

 その風を感じられることが、今はただ嬉しかった。

 梓も静かに空を見上げる。

 夜は終わる。

 だが、祀社は終わらない。

 記録の奥で垣間見た、世界を書き換えようとする巨大な意思。

 あれはまだ動き続けている。

 忘却も、記録も、人を救うために存在する。

 だが、それを利用する者がいる限り、祓屋の戦いも終わることはない。

 朝焼けの中、水谷と梓は無言のまま資料館を後にした。

 新しい一日が始まろうとしていた。

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