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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第48話 忘れられないもの第4章 読まれていく者

「水谷さん!」

 梓の声が、記録庫の奥へ鋭く響いた。

 書架の間を駆け抜け、彼の肩へ手を伸ばす。しかしその瞬間、水谷は反射的に腕を振り払った。

「触るな!」

 鋭く、拒絶の色を帯びた声だった。

 梓は一歩だけ後退する。拒まれたことよりも、その表情に息を呑んだ。

 額には脂汗が滲み、呼吸は荒い。だが苦しんでいるのは肉体ではない。彼は何かを見ている――目の前ではなく、自分の内側を。

「何が見えているんです」

 問いかけても、水谷は答えない。視線だけが宙を彷徨っていた。

 梓には何も見えない。古びた書架、積み重なる本、静まり返った空間。それだけだ。残響の気配も、敵意も、殺気もない。

 これほど濃密な残響空間でありながら、祓屋としての直感が何も掴めない。その異様な静けさが、かえって不気味だった。

 梓は左手に量子暗号札を挟む。

「遮断――断界」

 札が青白く発光し、足元から淡い光が広がる。水谷を包むように結界が形成された。

 しかし――何も変わらない。

 術式は正常に機能している。それなのに、水谷の状態だけが変化しない。

(遮断できない……)

 対象が存在しないのか。それとも、存在しているのに認識できないのか。

「真名井……」

 水谷がかすかに呟いた。

「見るな」

「何をです」

「……見るな」

 同じ言葉を繰り返すだけだった。

 梓は静かに彼を見つめる。水谷は何かと戦っている。それは残響でも他者でもない――記憶だった。

     ◇

 水谷の世界だけが変わる。

 夕暮れの研究室。窓には雨粒が流れ、薄暗い室内にパソコンの光だけが浮かんでいる。

 青年が画面を見つめていた。机には専門書と資料、冷めたコーヒー。どこにでもある大学生の風景だ。

 しかし彼は何も入力しない。ただ、待っている。

 やがて画面の隅でカーソルが動いた。青年は眉をひそめる。マウスには触れていない。それでもカーソルは滑るように動き続ける。

「フリーズしたか」

 再起動しようと手を伸ばした瞬間、画面が黒く切り替わった。

 音はない。カーソルだけが点滅する。

 一回、二回、三回。

 そして文字が打ち込まれた。

 update_host();

 水谷の全身が震える。

「やめろ……」

 声は届かない。青年はただ画面を見ている。まだ恐怖はない。ただの不具合だと思っている。

 だが水谷は知っている。ここから始まることを。

 変わるのは機械ではない。人間の方だ。

     ◇

「水谷さん!」

 梓の声で意識が戻る。

 水谷は荒く息を吐いた。

「……見た」

 掠れた声だった。

「俺も……同じだった」

 梓は黙って続きを待つ。

「俺も、読んだ」

 その一言に、確かな実感が宿っていた。思い出したのではない。忘れていた自分に追いついた声だった。

 その時、書架の奥で一冊の本が閉じる。乾いた音が響く。

 続いて別の本も、また別の本も。

 まるで何者かが水谷を読み終え、新たな頁を開こうとしているかのようだった。

 紙をめくる音が、ゆっくりと近づいてくる。

     ◇

 再び映像が切り替わる。

 深夜の部屋。青年は眠っている。その隣で、閉じたはずのノートパソコンがひとりでに開いた。

 黒い画面にカーソルが点滅する。

 update_host();

 その文字が消え、新たな表示が現れる。

 verify_personality… processing…

 人格照合。

 意味は分からない。それでも本能が危険を告げる。

 authority…accepted.

 最後に表示された一行。

 administrator changed.

     ◇

 朝。

 青年はいつも通り目を覚まし、大学へ向かう。笑い、話し、講義を受ける。

 何も変わらない。

 だが、水谷には分かる。

 変わっているのに、誰も気付かない。

 窓ガラスに映る横顔が、一瞬だけ別人のように笑った。

 あの日、自分も同じだった。

 家族も、皆。

「もう……俺じゃなかった」

     ◇

 梓は水谷を見つめる。

「中和――復調」

 柔らかな光が彼を包む。しかし触れた瞬間、霧散した。

「……効かない」

 傷でも穢れでもない。人格そのものが侵されている。

 その時、巻物がひとりでに開いた。

《人は忘れる》《記録は忘れぬ》《されど、記録もまた人を書き換える》

 梓の背筋に冷たいものが走る。

 書架の奥に、白い狩衣の老人が立っていた。

 敵意はない。ただ静かに見つめている。

 それは人を襲うものではない。

 人を読むものだった。

     ◇

 水谷は震える声で言う。

「残響は……霊じゃない。情報だ」

 記録され、読まれ、入り込む。

 人格の隙間へ。

「寄生体は……人を殺さない。先に、人を消す」

 梓は息を呑む。

 老人が一歩前へ出る。

《記憶を書き換えられた者は、誰なのだ》

 答えはない。ただ問いだけが残る。

     ◇

 記録は続く。

 家族との日常。笑顔。会話。

 だが影が一拍遅れて動く。

 違和感は小さい。だから誰も気付かない。

 少しずつ、確実に。

 人格は置き換えられていく。

     ◇

 やがて一冊の本が水谷の足元に落ちた。

 黒く焼け焦げた表紙。

 ――水谷 真。

《ようやく、お前自身の記録を読む時が来た》

 本が開く。

 そこには、何でもない朝の風景があった。

 家族の声、匂い、温もり。

「……思い出した」

 それは記憶ではなく、感覚だった。

     ◇

 頁が進むにつれ、違和感が積み重なる。

 忘れる。遅れる。笑わなくなる。

 ほんの僅かな変化。

 だが確実に、自分が削られていく。

《人格とは積み重ねである》《それを書き換えれば、人は別人となる》

「俺じゃ……なかった」

《消えたのではない。書き換えられたのだ》

     ◇

 最後の頁が現れる。

 黒く染まり、脈打つ。

 そこに記された一文。

 ――人格更新完了。

 水谷の瞳から光が消えた。

     ◇

「……終わってた」

 掠れた声が漏れる。

「俺は……もう」

 梓は静かに言う。

「全部、思い出してください」

 その言葉だけが、水谷の胸に落ちた。

《知るとは、受け入れること》

 老人の声が響く。

     ◇

 最後の記録が現れる。

 水谷家 最終記録。

《ここから先は、お前自身が読むしかない》

 静寂が訪れる。

 水谷は拳を握った。

「……逃げない」

 短く、しかし確かな決意だった。

 老人は微笑む。

 巻物に新たな名が浮かぶ。

 ――稗田阿礼。

 その瞬間、記録庫全体が静かに揺れた。

 深い静寂が、二人を包み込んだ。

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