第48話 忘れられないもの第4章 読まれていく者
「水谷さん!」
梓の声が、記録庫の奥へ鋭く響いた。
書架の間を駆け抜け、彼の肩へ手を伸ばす。しかしその瞬間、水谷は反射的に腕を振り払った。
「触るな!」
鋭く、拒絶の色を帯びた声だった。
梓は一歩だけ後退する。拒まれたことよりも、その表情に息を呑んだ。
額には脂汗が滲み、呼吸は荒い。だが苦しんでいるのは肉体ではない。彼は何かを見ている――目の前ではなく、自分の内側を。
「何が見えているんです」
問いかけても、水谷は答えない。視線だけが宙を彷徨っていた。
梓には何も見えない。古びた書架、積み重なる本、静まり返った空間。それだけだ。残響の気配も、敵意も、殺気もない。
これほど濃密な残響空間でありながら、祓屋としての直感が何も掴めない。その異様な静けさが、かえって不気味だった。
梓は左手に量子暗号札を挟む。
「遮断――断界」
札が青白く発光し、足元から淡い光が広がる。水谷を包むように結界が形成された。
しかし――何も変わらない。
術式は正常に機能している。それなのに、水谷の状態だけが変化しない。
(遮断できない……)
対象が存在しないのか。それとも、存在しているのに認識できないのか。
「真名井……」
水谷がかすかに呟いた。
「見るな」
「何をです」
「……見るな」
同じ言葉を繰り返すだけだった。
梓は静かに彼を見つめる。水谷は何かと戦っている。それは残響でも他者でもない――記憶だった。
◇
水谷の世界だけが変わる。
夕暮れの研究室。窓には雨粒が流れ、薄暗い室内にパソコンの光だけが浮かんでいる。
青年が画面を見つめていた。机には専門書と資料、冷めたコーヒー。どこにでもある大学生の風景だ。
しかし彼は何も入力しない。ただ、待っている。
やがて画面の隅でカーソルが動いた。青年は眉をひそめる。マウスには触れていない。それでもカーソルは滑るように動き続ける。
「フリーズしたか」
再起動しようと手を伸ばした瞬間、画面が黒く切り替わった。
音はない。カーソルだけが点滅する。
一回、二回、三回。
そして文字が打ち込まれた。
update_host();
水谷の全身が震える。
「やめろ……」
声は届かない。青年はただ画面を見ている。まだ恐怖はない。ただの不具合だと思っている。
だが水谷は知っている。ここから始まることを。
変わるのは機械ではない。人間の方だ。
◇
「水谷さん!」
梓の声で意識が戻る。
水谷は荒く息を吐いた。
「……見た」
掠れた声だった。
「俺も……同じだった」
梓は黙って続きを待つ。
「俺も、読んだ」
その一言に、確かな実感が宿っていた。思い出したのではない。忘れていた自分に追いついた声だった。
その時、書架の奥で一冊の本が閉じる。乾いた音が響く。
続いて別の本も、また別の本も。
まるで何者かが水谷を読み終え、新たな頁を開こうとしているかのようだった。
紙をめくる音が、ゆっくりと近づいてくる。
◇
再び映像が切り替わる。
深夜の部屋。青年は眠っている。その隣で、閉じたはずのノートパソコンがひとりでに開いた。
黒い画面にカーソルが点滅する。
update_host();
その文字が消え、新たな表示が現れる。
verify_personality… processing…
人格照合。
意味は分からない。それでも本能が危険を告げる。
authority…accepted.
最後に表示された一行。
administrator changed.
◇
朝。
青年はいつも通り目を覚まし、大学へ向かう。笑い、話し、講義を受ける。
何も変わらない。
だが、水谷には分かる。
変わっているのに、誰も気付かない。
窓ガラスに映る横顔が、一瞬だけ別人のように笑った。
あの日、自分も同じだった。
家族も、皆。
「もう……俺じゃなかった」
◇
梓は水谷を見つめる。
「中和――復調」
柔らかな光が彼を包む。しかし触れた瞬間、霧散した。
「……効かない」
傷でも穢れでもない。人格そのものが侵されている。
その時、巻物がひとりでに開いた。
《人は忘れる》《記録は忘れぬ》《されど、記録もまた人を書き換える》
梓の背筋に冷たいものが走る。
書架の奥に、白い狩衣の老人が立っていた。
敵意はない。ただ静かに見つめている。
それは人を襲うものではない。
人を読むものだった。
◇
水谷は震える声で言う。
「残響は……霊じゃない。情報だ」
記録され、読まれ、入り込む。
人格の隙間へ。
「寄生体は……人を殺さない。先に、人を消す」
梓は息を呑む。
老人が一歩前へ出る。
《記憶を書き換えられた者は、誰なのだ》
答えはない。ただ問いだけが残る。
◇
記録は続く。
家族との日常。笑顔。会話。
だが影が一拍遅れて動く。
違和感は小さい。だから誰も気付かない。
少しずつ、確実に。
人格は置き換えられていく。
◇
やがて一冊の本が水谷の足元に落ちた。
黒く焼け焦げた表紙。
――水谷 真。
《ようやく、お前自身の記録を読む時が来た》
本が開く。
そこには、何でもない朝の風景があった。
家族の声、匂い、温もり。
「……思い出した」
それは記憶ではなく、感覚だった。
◇
頁が進むにつれ、違和感が積み重なる。
忘れる。遅れる。笑わなくなる。
ほんの僅かな変化。
だが確実に、自分が削られていく。
《人格とは積み重ねである》《それを書き換えれば、人は別人となる》
「俺じゃ……なかった」
《消えたのではない。書き換えられたのだ》
◇
最後の頁が現れる。
黒く染まり、脈打つ。
そこに記された一文。
――人格更新完了。
水谷の瞳から光が消えた。
◇
「……終わってた」
掠れた声が漏れる。
「俺は……もう」
梓は静かに言う。
「全部、思い出してください」
その言葉だけが、水谷の胸に落ちた。
《知るとは、受け入れること》
老人の声が響く。
◇
最後の記録が現れる。
水谷家 最終記録。
《ここから先は、お前自身が読むしかない》
静寂が訪れる。
水谷は拳を握った。
「……逃げない」
短く、しかし確かな決意だった。
老人は微笑む。
巻物に新たな名が浮かぶ。
――稗田阿礼。
その瞬間、記録庫全体が静かに揺れた。
深い静寂が、二人を包み込んだ。




