第48話 忘れられないもの 第3章 先に読まれた者
水谷真が旧郷土資料館へ着いた時、建物の前にはまだ誰もいなかった。
雨は降っていない。だが、資料館の敷地だけが濡れているように見えた。古びた門扉。剥がれかけた案内板。蔦の絡まった外壁。閉館して十年が経つはずなのに、入口のガラス戸の奥には、うっすらと明かりが揺れていた。
水谷は八咫刃を右手に下げたまま、しばらく建物を見ていた。
嫌な場所だった。
残響の気配はある。だが、いつものように濁っていない。怒りでも怨みでもない。もっと乾いている。埃を被った書類の束を開いた時のような、古くて薄い匂いがした。
「……記録か」
中森から渡された情報には、そう書かれていた。
旧郷土資料館。地下収蔵庫。入った者が過去に戻る。出ても戻らない。
梓が来る前に片付けるつもりだった。
理由は単純だった。梓は修正しようとする。水谷は滅殺する。それだけの違いだ。水谷にとって、残響は壊れた情報でしかない。壊れているなら消す。人の形をしていようが、何かを訴えようが、関係ない。放置すれば誰かが壊れる。
だから、水谷は中へ入った。
入口の扉は鍵が掛かっていなかった。押すと、軋む音もなく開いた。展示室は暗い。懐中電灯の光が、古い農具、陶器、戦災地図、寄贈者の名前が並ぶプレートを順に照らしていく。ガラスケースの中にあるはずの資料が、どれもこちらを見ているようだった。
地下へ続く階段は、展示室の奥にあった。
水谷は足を止めない。
一段下りるごとに、空気が重くなる。紙の匂いが濃くなる。湿気ではない。年月そのものが腐らずに溜まっているような匂いだった。
地下へ降りきった先に、収蔵庫の扉がある。
扉は半分開いていた。
その隙間から、白い紙が一枚、床へ滑り出してくる。
水谷は八咫刃を構えた。
「出てこい」
返事はない。
代わりに、紙がひとりでに裏返った。
そこには何も書かれていなかった。
だが、水谷が目を離そうとした瞬間、墨のような黒い染みが紙の中央に広がった。
文字になる。
名前ではない。
日付でもない。
ただ一言。
《忘れるな》
水谷は舌打ちした。
「うるさい」
八咫刃を振る。
紙は裂けた。
だが裂けた紙片は床へ落ちず、細かな黒い粒になって収蔵庫の奥へ吸い込まれていく。
水谷は扉を押し開けた。
そこに収蔵庫はなかった。
棚が続いている。
天井が見えない。
奥行きも分からない。
木製の書架が、暗闇の中へどこまでも並んでいた。巻物、和綴じの本、古い写真帳、新聞の束、日記、戸籍簿、手紙。それらが隙間なく詰め込まれている。
記録庫。
そう呼ぶしかない場所だった。
水谷が一歩入ると、背後の扉が消えた。
振り返っても、そこには同じ棚が続いている。
「閉じ込める気か」
声は思ったより小さく響いた。
その時、足元へ一冊の本が落ちた。
乾いた音。
表紙には何も書かれていない。
水谷は見ないようにした。
だが、見ないという行為そのものを読まれたように、本は勝手に開いた。
そこに、少女がいた。
幼い少女だった。
髪を揺らして振り返り、こちらへ笑う。
(お兄ちゃん)
声ではない。
頭の中へ直接落ちてきた。
水谷の身体が止まる。
知らない。
知らないはずだった。
それなのに、その呼び方だけが胸の奥を掴んだ。
「誰だ」
本の中で少女が走る。転ぶ。泣く。誰かが手を差し伸べる。少年だった。顔は見えない。だが手だけは見えた。少女の膝についた土を払い、頭を撫でる手。
自分の手に似ていた。
「違う」
水谷は本を踏みつける。
紙は潰れなかった。
映像だけが揺れ、次の頁へ進む。
◇
雨の日の大学だった。
傘を差した学生たちが、正門から駅へ流れていく。
一人の青年がいた。
手には資料とコンビニ袋。肩には使い古した鞄。水谷はその背中を見て、息を詰めた。
自分ではない。
だが、似ている。
年齢も。雰囲気も。何かへ不用意に近づいていく感じも。
青年の携帯電話が震える。
画面には妹の名前が表示されていた。
『お兄ちゃん、今日帰り遅い?』
「少しだけ」
『また事件の資料?』
「卒論だよ」
『怖いのばっか見てると、変になるよ』
「もう変だろ」
妹は笑った。
青年も笑った。
何も起きていない。
ただの会話だった。
なのに、水谷の背筋は冷えていた。
大学生の兄。
高校生の妹。
父と母のいる家。
四人家族。
それが自分の中の何かを、ゆっくり削っていく。
景色が変わる。
研究室。
青年は古い事件記録を調べている。猟奇殺人。未解決。奇妙な映像データ。削除されたはずの添付ファイル。文字化けした名前。
青年は迷わず開いた。
黒い画面が映る。
ノイズだけが流れる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
閉じようとした瞬間、画面が暗く沈んだ。
液晶に映った青年の顔が、一瞬だけ別のものに変わる。
水谷は歯を食いしばった。
「見るな」
青年には届かない。
青年は小さく笑い、ウィンドウを閉じる。
それで終わった。
終わったはずだった。
◇
記録庫へ戻った時、水谷の呼吸は荒くなっていた。
足元の本は閉じていない。
むしろ頁が増えている。
青年の日常が、そこに続いていた。翌朝、閉じたはずの画面が開いている。送った覚えのないメール。消えた履歴。妹の話に一拍遅れる返事。母の心配。父の長い視線。
小さい。
どれも小さい。
異常と呼ぶには弱すぎる。
だが、積み重なる。
積み重なって、ある日にはもう、元の形が分からなくなる。
「……同じだ」
水谷の喉から声が漏れた。
自分にもあった。
覚えのない履歴。
夜中の画面。
家族の声が遠く聞こえる感覚。
自分の返事が、少しだけ他人の声に聞こえた夜。
忘れていた。
いや、忘れたのではない。
そこだけが、何かに削られていた。
背後で、紙がめくれる音がした。
水谷は振り返る。
誰もいない。
だが声だけがあった。
《記録は忘れぬ》
老人の声だった。
水谷は八咫刃を握り直す。
「出てこい」
《忘れた者にも》
声は続く。
《忘れさせられた者にも》
棚の奥が暗く沈む。
そこから、ゆっくりと白い狩衣の裾だけが見えた。
《記録は、残る》
水谷は一歩下がった。
その時、記録庫のどこか遠くで扉が開く音がした。
誰かが入ってきた。
足音。
軽い。
迷いがない。
水谷は顔を歪める。
来るな。
そう思った。
足音はゆっくり近付いてきた。書架の向こうに人影は見えない。それでも、水谷には分かった。この足音は現実のものではない。誰かが歩いているのではない。記録そのものが、自分へ近付いてきている。
八咫刃を握る手に力が入る。呼吸を整えようとしても、胸の鼓動だけが速くなった。静かな場所だった。静か過ぎた。これまで対峙してきた残響は、怨嗟を撒き散らし、人を襲い、己の存在を誇示した。だが、この場所は違う。何も求めてこない。何も奪おうともしない。ただ、記す。ただ、読む。それだけだった。
乾いた音が響く。一冊。また一冊。本が棚から滑り落ちる。どれも題名はない。表紙を開く必要もなかった。頁は勝手に開き、水谷の周囲へ浮かび上がる。青年が笑う。妹が手を振る。母が夕食を運ぶ。父が新聞を畳む。どこにでもある家庭だった。誰も不幸ではない。誰も苦しんでいない。だからこそ、水谷は息苦しさを覚えた。
あまりにも、自分と似ていた。大学へ通う兄。高校へ通う妹。仕事から帰る父。台所へ立つ母。違う人間の人生なのに、そこへ自分の記憶が少しずつ重なっていく。
「……違う。」
水谷は呟く。映像は止まらない。青年は研究室でパソコンを開いていた。昨日まで存在しなかったフォルダが、一つだけ増えている。題名は読めない。文字化けしていた。青年は少しだけ眉をひそめ、それでも開く。黒い画面。何も映らない。その静けさが、かえって不気味だった。
水谷は思わず目を逸らそうとする。その瞬間、映像の中の青年がこちらを見た。画面越しではない。真正面から、水谷を見ていた。水谷の背筋に冷たいものが走る。
「お前……誰だ。」
青年は答えない。静かに口だけが動く。声は聞こえない。それでも意味だけが頭へ流れ込んだ。――見た。たった、それだけだった。世界が揺れる。研究室の景色が崩れ、本棚へ変わる。次の瞬間には、青年の部屋だった。閉じたはずのパソコンが開いている。送信した覚えのないメール。削除したはずの履歴。午前二時三分。時計だけが赤く点滅している。
水谷の喉が鳴る。覚えている。自分にもあった。夜中に目が覚めること。閉じた画面が開いていたこと。誰にも話さなかった違和感。その記憶だけが、深い霧の中へ沈められていた。
「……俺も。」
口から漏れた声は、自分のものではないようだった。その言葉を待っていたかのように、記録庫全体が小さく軋む。無数の本が一斉に開いた。文字が空へ浮かび上がる。日記。新聞。診断書。卒業文集。メール。写真。記録という記録が、水谷の周囲をゆっくり回り始める。知らない人生。知らない名前。それなのに、一つひとつが懐かしい。胸の奥で、誰かが泣いていた。妹だった。いや、違う。自分の妹ではない。それでも涙だけが止まらない。
「やめろ……。」
八咫刃を振るう。刃は本を裂く。しかし裂けた頁は黒い粒となって宙へ溶け、別の本へ吸い込まれるだけだった。壊せない。滅ぼせない。この場所は残響そのものではなく、残響を記録した世界だった。記録は消えない。だから、滅殺も届かない。
水谷は初めて焦りを覚えた。自分の戦い方が通じない。その事実より恐ろしかったのは、自分の記憶が、ゆっくりと他人の記憶へ塗り替えられていく感覚だった。青年が笑う。その笑顔を見た瞬間、水谷は反射的に笑い返していた。自分の意思ではない。頬が勝手に動いた。次の瞬間には我に返る。
「……何だ、今の。」
呼吸が乱れる。手を見る。震えていた。恐怖ではない。自分という輪郭が、少しだけ曖昧になっていた。
その時だった。書架の最奥から、一冊だけ他とは違う本が落ちた。厚い和綴じ。古い革表紙。表紙には何も書かれていない。だが、水谷には分かった。これは、今までとは違う。この本を開けば、自分は戻れない。
本はひとりでに開く。頁は白紙だった。白紙のまま、一滴の黒い染みが落ちる。それは文字ではなく、人の形を描き始めた。老人だった。白い狩衣。痩せた身体。巻物を抱え、静かにこちらを見る。
《記す者は裁かぬ。》
初めて、その声がはっきりと響いた。
《善も悪も。》
《罪も祈りも。》
《ただ、残す。》
老人が一歩踏み出す。その瞬間、水谷の頭へ鋭い痛みが走った。大学の研究室。真夜中の画面。誰かの妹。自分の妹。二つの記憶が混ざる。どちらが自分だったのか分からなくなる。
「……違う!」
叫ぶ。八咫刃を床へ突き立てる。紫電が走る。だが記録庫は焼けない。紫電は文字だけを照らし、無数の人生を青白く浮かび上がらせた。
その光の向こうで、新しい足音が止まる。
「水谷さん。」
聞き慣れた声だった。梓。水谷は振り向いた。安堵より先に、恐怖が込み上げる。ここへ来てはいけない。この場所は、戦う場所ではない。読まれる場所だ。水谷は喉を震わせ、絞り出すように叫んだ。
「……来るな!」
その声と同時に、記録庫という世界が、大きく呼吸を始めた。




