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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第47話 痛いもの 第4章 ぼんやりした不安

 書庫は静まり返っていた。

 誰もいない。

 時計もない。

 窓の外には景色すら存在しない。

 ただ、終わりのない静寂だけが積み重なっている。

 男は椅子へ腰掛けたまま、梓を見つめていた。

 痩せた身体。

 青白い顔。

 疲れ切った瞳。

 その姿には敵意がなかった。

 あるのは、終わりの見えない疲労だけだった。

《君は》

 静かな声だった。

《苦しくありませんか》

 梓は男を見る。

 そして小さく頷いた。

「苦しいです」

 男はゆっくり目を閉じる。

《そうでしょう》

 書棚の一冊が開く。

 ぱらり、と紙が鳴る。

《未来は怖い》

 もう一冊。

《失うことは怖い》

 さらに一冊。

《何もなくても怖い》

 無数の本が独りでに開き始めた。紙をめくる音だけが書庫へ響く。その文字は読むことができない。だが意味だけは流れ込んでくる。失敗するかもしれない。誰かが死ぬかもしれない。裏切られるかもしれない。朝が来ないかもしれない。理由はない。根拠もない。それでも胸の奥へ、不安だけが積み重なっていく。

 男は静かに言った。

《これが私です》

 書庫全体が揺れる。

 空気が重くなる。

《苦しみは終わりません》

《眠っても》

《起きても》

《書いても》

《歩いても》

《笑っても》

《終わらない》

 梓は量子暗号札を取り出した。

 指先の感覚は曖昧なままだ。

 それでも術式を組む。

「起動」

 札が浮く。

「遮断――」

 術式は最後まで完成しなかった。

 札が灰となって崩れる。

 男は首を振る。

《違います》

《それでは届きません》

 梓は次の札を手に取る。

「中和――」

 青白い光が広がる。

 だが、それも途中で霧散した。

 男は何もしていない。

 攻撃もしていない。

 ただ、不安が存在しているだけだった。

 その存在そのものが、術式を乱していた。

 梓は静かに息を吐く。

 祓詞が通らない。

 結界も張れない。

 今まで経験したことのない相手だった。

《痛くないのですか》

 男が聞いた。

 梓は自分の手を見る。

 指先へ触れる。

 何も感じない。

 掌へ爪を立てる。

 皮膚が白く沈む。

 それでも痛みはない。

 転位侵界。

 世界へ支払った代償。

 もう、自分には痛覚がない。

「感じません」

 その言葉に、書庫が静まり返った。

「痛みは、もうありません」

 男の表情が初めて揺らぐ。

《……ない》

「はい」

《それなのに》

 一歩。

 男が初めて椅子から立ち上がる。

《君は》

《どうしてここへ来たのです》

 梓は迷わなかった。

「苦しんでいる人がいたからです」

 短い答えだった。

 男は理解できないという顔をした。

《痛みを知らない》

《苦しみも感じない》

《それなのに》

《どうして寄り添える》

 梓はゆっくり首を振る。

「違います」

 静かな声だった。

「私は、痛みを忘れたんじゃありません」

 一拍。

「失っただけです」

 男は黙る。

 梓は続けた。

「痛みがないから平気なわけではありません」

「痛みがなくても、怖いものは怖いです」

「助けられないことは苦しいです」

「誰かが目の前で壊れていくのを見るのは、今でも嫌です」

 言葉を重ねるたび、書庫の本が一冊ずつ閉じていく。

 ぱたん。

 ぱたん。

 ぱたん。

 だが全てではない。

 奥の書架はまだ開いたままだった。

 男の不安は、まだ残っている。

《私は》

 男が呟く。

《誰にも分かってもらえませんでした》

 梓は答えない。

 ただ静かに聞いていた。

《痛い場所を聞かれる》

《理由を聞かれる》

《原因を聞かれる》

《でも》

 男は俯く。

《私にも分からなかった》

 沈黙。

 長い沈黙だった。

 梓は一歩だけ近付く。

 床板が軋む。

「分からなくてもいいと思います」

 男が顔を上げる。

「理由なんてなくても」

「不安になる時はあります」

「怖くなる時もあります」

「苦しくなる時もあります」

「それを否定しなくてもいいと思います」

 男の瞳が揺れた。

 その奥で何かが軋む。

 梓は感じた。

 この鬼は、自分と戦っている。

 世界と戦っているのではない。

 誰かを傷付けたいのでもない。

 終わりのない不安と、ずっと戦い続けている。

 戦って。

 疲れて。

 それでも眠れなかった。

 だから、その痛みだけが残った。

《君は》

 男は言う。

《怖くても》

《逃げないのですか》

 梓は少しだけ考えた。

 高峰のことを思い出す。

 水谷のことを思い出す。

 愛音のことを思い出す。

 徳川家康の残響空間で、助けられなかったものを思い出す。

 怖い。

 当然だ。

 梓も怖い。

 自分が削れていることも。

 転位侵界の代償が戻らないことも。

 いつか人間としての境界を失うかもしれないことも。

 怖くないはずがなかった。

 だが。

「逃げたい時もあります」

 梓は正直に答えた。

「でも、逃げたくない時もあります」

《なぜ》

「分かりません」

 男が目を細める。

 梓は続ける。

「でも、理由が分からなくてもいいと思います」

「不安に理由がなくてもいいなら」

「誰かに寄り添いたいと思う気持ちにも、理由がなくてもいいはずです」

 その言葉で。

 書庫が大きく揺れた。

 書架の奥。

 一番高い場所にあった本が落ちる。

 床へ開く。

 そこに文字が浮かび上がった。

『ぼんやりした不安』

 梓はその文字を見る。

 男は目を逸らさなかった。

 その言葉が、この残響の核だった。

 理由のない不安。

 説明できない恐怖。

 誰にも示せない痛み。

 それを否定され続けたまま、男はここに残っていた。

 梓は一歩近付く。

 もう男との距離は近かった。

 手を伸ばせば届く。

 だが触れても、梓には感触が分からない。

 温度も。

 震えも。

 痛みも。

 何も分からない。

 それでも梓は手を伸ばした。

 男はその手を見た。

《何も感じないのでしょう》

「はい」

《では、なぜ》

「感じられなくても」

 梓は言った。

「触れたいと思いました」

 その瞬間。

 男の表情が崩れた。

 泣きそうな顔だった。

 だが涙は出ない。

 もう涙を流す身体ではないのかもしれない。

 書庫全体へ黒い波紋が広がる。

 本棚が震える。

 床板がひび割れる。

 残響空間そのものが悲鳴を上げていた。

《違う》

 男が呟く。

《違う……》

 初めて感情が滲む。

《私は》

《ただ》

 その先が出てこない。

 梓は静かに待った。

 急かさない。

 否定しない。

 正解を言わない。

 ただ、待つ。

 男は胸を押さえる。

 苦しそうだった。

 だがそれは、今までの苦痛とは違って見えた。

 何かを思い出そうとしている。

 何かを言葉にしようとしている。

 その痛みだった。

 梓は理解する。

 修正は近い。

 だがまだ届かない。

 あと一歩。

 この男が何を恐れ、何を願ったのか。

 その最後の欠片だけが、まだ見えていない。

 書庫の奥で、灯りが一つ消えた。

 次に。

 もう一つ。

 暗闇が近付いてくる。

 男は震える声で呟いた。

《眠りたかった》

 梓は息を呑む。

《ただ》

《安心して》

《眠りたかった》

 その言葉が落ちた瞬間。

 閉じていた本が一斉に開いた。

 書庫全体が白く光る。

 梓は見た。

 痛鬼の本当の願いを。

 生きることをやめたかったのではない。

 苦しみを広げたかったのでもない。

 ただ。

 終わりのない不安から解放されて。

 一晩だけでも。

 安心して眠りたかった。

 梓は男の前へ立つ。

 静かに言った。

「怖かったんですね」

 男は答えない。

「理由が分からないまま」

「ずっと」

「怖かったんですね」

 書庫が震える。

 今度の震えは、崩壊ではなかった。

 長い間閉じ込められていた息が、ようやく外へ漏れたような震えだった。

 男は梓を見た。

 疲れ切った目で。

 けれど、初めて。

 そこに微かな安堵が見えた。

 その瞬間。

 男の背後に、一冊の本が現れた。

 表紙には、まだ名前がない。

 だが梓には分かった。

 次の言葉で。

 この鬼の正体が明らかになる。

 そして。

 修正は、もう避けられないところまで来ていた。

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