表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
260/262

第47話 痛いもの 第3章 不安の向こう側

 夕暮れだった。

 空は赤く染まっている。

 病院の屋上から見えた洋館は、目を離すたびに少しずつ場所を変えていた。

 近付けば遠ざかる。

 遠ざかれば近付く。

 蜃気楼だった。

 だが梓には分かった。

 残響空間の入口。

 現実へ完全に固定されていない。

 だから位置が揺れている。

「高峰さん」

 梓は静かに歩き出した。

「行きます」

 高峰は頷く。

 二人は病院を出た。

 夕方の道路は異様な静けさだった。

 車は何台も停車している。

 クラクションは鳴らない。

 誰も怒鳴らない。

 ただ運転席で身体を丸め、胸を押さえている。

 歩道にも人が座り込んでいた。

 会社員。

 学生。

 高齢者。

 子ども。

 誰も怪我をしていない。

 それでも苦しんでいる。

「痛い」

「痛い」

「痛い」

 街全体が、小さく呻いていた。

 梓は立ち止まらない。

 目の前の人を助けたい。

 そう思う。

 だが今ここで一人ずつ祓詞を施しても意味はない。

 源を絶たなければ、また感染する。

 高峰も同じことを理解していた。

 二人は無言で歩き続けた。

     ◇

 住宅街を抜ける。

 古い商店街。

 閉じたシャッター。

 人気はない。

 聞こえるのは遠くのサイレンだけだった。

 その時だった。

 高峰の足が止まる。

「……高峰さん?」

 返事がない。

 梓が振り向く。

 高峰は街灯へ手をついていた。

 顔色が白い。

 呼吸が浅い。

「どうしました」

「いや……」

 高峰は笑おうとした。

 だが笑えなかった。

「ちょっと胸が……」

 左胸を押さえる。

「違う」

 首を振る。

「胸じゃない」

 額を押さえる。

「頭でもない」

 膝をつく。

 アスファルトへ片手をついた。

 肩が震えている。

「痛い」

 小さな声だった。

 梓の表情が変わる。

 感染した。

 高峰は歯を食いしばる。

「すまん」

 息を整えようとする。

「少し休めば」

「違います」

 梓は即座に否定した。

「痛鬼です」

 高峰は目を閉じる。

 嫌な映像が頭へ浮かぶ。

 幼い頃。

 警察官になった日。

 初めて遺体を見た日。

 助けられなかった少女。

 愛音。

 水谷。

 梓。

 全部が一つになって押し寄せてくる。

(俺は失敗する)

 理由はない。

 根拠もない。

 それなのに確信だけがあった。

(全部失う)

 その不安が。

 激痛へ変わる。

「……っ!」

 高峰が呻いた。

 梓は量子暗号札を三枚取り出す。

 指先の感覚は曖昧だった。

 それでも静かに印を切る。

「起動」

 札が浮かぶ。

 淡い青白い光。

「祓詞」

 一呼吸。

「中和・復調」

 文字が光る。

 札が回転する。

 空気が震えた。

 青い光が高峰を包む。

 胸を締め付けていた何かが、少しずつ薄れていく。

 呼吸が戻る。

 震えが止まる。

 汗が引く。

 高峰は深く息を吐いた。

「……助かった」

「完全ではありません」

 梓はすぐに言った。

「痛みを消したのではありません」

「原因を抑えただけです」

「だから長くは持ちません」

 高峰は頷いた。

 立ち上がろうとする。

 しかし梓は首を振った。

「ここから先は駄目です」

「俺も行く」

「行けません」

「真名井!」

 梓は静かに札をもう五枚取り出した。

 円形に配置する。

 風が止む。

 空気が変わる。

「起動」

 札が地面へ突き刺さる。

「結界」

 淡い光が半球状に広がった。

「遮断・断界」

 光が閉じる。

 高峰の周囲だけが静かになる。

 外から聞こえていた呻き声も。

 痛みも。

 不安も。

 全てが一枚の膜の向こう側へ押し返されていく。

 高峰は周囲を見回した。

「静かだ……」

「ここなら」

 梓は頷く。

「しばらく感染は防げます」

「でもお前は」

「私は行きます」

 一瞬だけ沈黙が落ちる。

 高峰は苦笑した。

「止めても無駄か」

「はい」

 少しだけ。

 梓も笑った。

「いつもありがとうございます」

 高峰は言葉を失う。

 礼を言う場面ではない。

 だが梓は本気だった。

「必ず戻ります」

 それだけ言うと、梓は歩き出した。

     ◇

 商店街の奥。

 人通りのない細い路地。

 そこだけ空気が違った。

 夕焼けが届かない。

 風も吹かない。

 音もない。

 静寂だけが積もっている。

 梓が足を踏み入れる。

 景色が揺れた。

 アスファルトが消える。

 街灯が歪む。

 建物が本棚へ変わる。

 舗装道路は木の床へ。

 電柱は書架へ。

 住宅街そのものが、一冊の巨大な書庫へ姿を変えていく。

 紙の匂いだった。

 古い本。

 インク。

 湿った木材。

 誰もいない。

 静かだった。

 あまりにも静かだった。

 その静けさが。

 逆に恐ろしかった。

 奥に灯りが見える。

 古い机。

 硝子窓。

 ランプ。

 椅子。

 一人の男が座っていた。

 痩せている。

 青白い横顔。

 指先だけが静かに震えていた。

 机には白紙が一枚。

 何も書かれていない。

 男は窓の外を見ていた。

 夕焼けではない。

 夜でもない。

 ただ。

 どこにも存在しない景色を。

 ぼんやりと。

 眺め続けていた。

 梓は一歩踏み出す。

 床板が軋む。

 その音で。

 男はゆっくり振り返った。

 目が合う。

 その瞳には憎しみも。

 怒りも。

 怨みもなかった。

 ただ。

 終わることのない疲労だけがあった。

 男は梓を見つめる。

 静かに。

 本当に静かに口を開いた。

《君は》

 一拍。

《怖くないのですか》

 その問いと同時に。

 書庫全体へ、理由のない不安が静かに満ち始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ