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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第47話 痛いもの 第2章 広がるもの

 午前十一時。

 東湾市中央消防指令センター。

 受話器の音が止まらなかった。

 鳴る。

 鳴る。

 鳴る。

 切っても鳴る。

 別の回線が鳴る。

 保留が増える。

 切断される。

 また鳴る。

 オペレーターたちは対応を続けていた。

 だが限界だった。

「救急ですか」

『痛い』

「どこがですか」

『分からない』

「意識はありますか」

『あります』

「呼吸は」

『してます』

「外傷は」

『ありません』

 同じ会話。

 何百回目か分からない。

 受話器の向こう側では誰かが泣いている。

 怒っている者もいる。

 叫ぶ者もいる。

 だが最後は皆同じだった。

『助けて』

 そして。

『痛い』

 その言葉を聞き続けたオペレーターの一人が、突然机へ突っ伏した。

 周囲が振り向く。

「どうした」

 返事がない。

 肩が震えている。

 泣いていた。

「痛い」

 小さな声だった。

「俺も痛い」

 誰も何も言えなかった。

 それはもう。

 現場だけの話ではなくなっていた。

     ◇

 市内の病院は機能停止寸前だった。

 待合室は満員。

 廊下にも患者。

 駐車場にも患者。

 救急搬入口にも患者。

 だが検査をしても異常は出ない。

 骨折なし。

 出血なし。

 感染症なし。

 心筋梗塞なし。

 脳梗塞なし。

 それでも患者は苦しんでいる。

「先生」

 若い看護師が涙を流していた。

「私も痛いです」

 担当医は答えられなかった。

 自分も痛いからだ。

 胸の奥。

 心臓の裏側。

 神経ではない。

 感情でもない。

 説明できない何か。

 それが激痛へ変わっている。

 医師は診察椅子へ座った。

 立てなくなった。

 患者も。

 看護師も。

 医師も。

 同じ場所へ落ち始めていた。

     ◇

 正午。

 消防局は非常事態宣言を出した。

 だが意味はなかった。

 出動できない。

 隊員が足りない。

 車両が足りない。

 病院も足りない。

 全てが足りない。

 最初は救急だけだった。

 だが。

 午後一時七分。

 市内南部で住宅火災が発生した。

 木造二階建て。

 通報は即座に入った。

 だが出動が遅れた。

 出動隊の隊員二人が発症していた。

 車両は出た。

 だが途中で停止した。

 運転手が胸を押さえた。

「痛い」

 それだけだった。

 意識はある。

 運転技術もある。

 だがハンドルを握れない。

 痛いから。

 理由もなく。

 消防車は路肩へ停車した。

 その十分後。

 住宅は全焼した。

 死者二名。

 重傷者三名。

 今回初めて。

 直接被害が発生した。

     ◇

 午後一時三十分。

 東湾総合病院。

 救急外来。

 搬送されてきた男性が心停止した。

 本来なら助かった。

 AEDもある。

 医師もいる。

 薬剤も揃っている。

 だが。

 処置を行う医師が発症していた。

 胸骨圧迫ができない。

 身体を動かせない。

 恐ろしくて。

 苦しくて。

 痛くて。

 結果。

 男性は死亡した。

 原因は心停止。

 だが本当の原因は違った。

 医療が機能しなかったのだ。

     ◇

 午後二時。

 SNSが爆発した。

【痛み感染】

【原因不明の病気】

【終末病】

【呪い】

【東湾市】

 情報が飛び交う。

 動画が投稿される。

 泣きながら配信する女性。

 床で震える男性。

 救急車の列。

 病院の行列。

 消防車が止まった映像。

 全てが拡散される。

 そして。

 動画を見る。

 コメントを見る。

 心配する。

 共感する。

 その行為自体が感染経路になっていた。

 午後三時には、市外でも発症報告が出始めた。

 感染速度が異常だった。

 ウイルスではない。

 細菌でもない。

 情報だった。

 痛みが。

 人間の感情を媒介に増殖している。

     ◇

 午後四時。

 交通網が麻痺した。

 バス運転手が発症。

 タクシー運転手が発症。

 配送ドライバーが発症。

 信号機の保守員も発症。

 物流が止まり始める。

 駅員が発症。

 運行管理者が発症。

 列車は減便された。

 市内は渋滞で埋まった。

 クラクションも鳴らない。

 怒鳴り声もない。

 皆、苦しそうにハンドルへ額を押し当てている。

 静かだった。

 だから余計に怖かった。

     ◇

 午後五時。

 高峰は警察本部の会議室にいた。

 空気が重い。

 誰も声を荒げない。

 怒鳴る者もいない。

 だが全員の顔色が悪い。

 刑事。

 警備課。

 機動隊。

 幹部。

 全員が疲弊していた。

「発症者数は」

 高峰が聞く。

「推定二万七千」

 会議室が静まる。

「病院は」

「限界です」

「消防は」

「機能低下」

「警察は」

「応援要請を検討中」

 最悪だった。

 残響案件としては過去最大級だった。

 誰かを殺す怪異ではない。

 もっと悪質だった。

 助ける機能そのものを壊している。

 医療。

 消防。

 警察。

 物流。

 交通。

 全てを。

     ◇

 午後六時。

 梓は病院の屋上に立っていた。

 高峰から送られてきた資料を見ている。

 風が吹く。

 冷たい。

 徳川家康戦で失われた感覚は戻っていない。

 それでも。

 異常は分かった。

「違う」

 小さく呟く。

 高峰が振り向く。

「何がです」

「痛みじゃありません」

 梓は空を見る。

 夕暮れだった。

 赤い空。

 その向こう側に。

 何かがいる。

「これは」

 一拍。

「不安です」

 高峰は黙る。

 梓は続ける。

「理由のない不安」

「説明できない恐怖」

「未来への怯え」

「それが痛覚へ変換されている」

 高峰の背筋が冷える。

「そんなことが」

「あります」

 梓は即答した。

「残響なら」

 沈黙。

 病院の下では救急車が並んでいる。

 サイレンが鳴る。

 だが間に合わない。

 患者が増え続けている。

 発症者も増え続けている。

 そして。

 梓はようやく見つけた。

 夕焼けの空。

 その奥。

 誰もいないはずの場所。

 古い洋館のような影。

 黒い書斎。

 本棚。

 机。

 そして。

 誰かが座っている。

 細い身体。

 青白い横顔。

 疲れ切ったような目。

 その男は静かに窓の外を見ていた。

 まるで。

 世界そのものへ怯えているように。

 梓は理解した。

 今回の残響。

 原因はあそこだ。

 そして同時に。

 胸の奥へ、説明できない寒気が落ちた。

 この鬼は。

 今までの鬼とは違う。

 人を殺したいわけではない。

 世界を壊したいわけでもない。

 ただ。

 苦しんでいる。

 誰よりも。

 本人が。

 最も深く。

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