表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
258/261

第47話 痛いもの 第1章 分からないもの

第47話 痛いもの 第1章 分からないもの


 最初の通報は、深夜のマンションからだった。

 午前一時四十六分。雨は降っていなかった。風もない。近隣住民の話では、その夜は妙に静かだったという。街路樹の葉も揺れず、車の音も遠く、集合住宅特有の生活音だけが薄く壁を伝っていた。テレビの音。給湯器の作動音。どこかの部屋で閉まる扉の音。どれも普段なら気にも留めない程度のものだった。だが、その部屋から聞こえてきた声だけは違った。

「痛い」

 叫び声ではなかった。

 悲鳴でもなかった。

 ただ、布団の中で寝言を言うような、妙に平坦な声だった。

 隣室の住人は最初、夢でも見ているのだと思った。壁越しに声が聞こえることは珍しくない。だが、十分後にも同じ声が聞こえた。

「痛い」

 それからまた。

「痛い」

 間隔は不規則だった。長く空く時もあれば、続けて二度聞こえる時もあった。助けを呼ぶ声ではない。誰かへ向けた声でもない。ただ、自分の中にある何かを確かめるように、同じ言葉だけを繰り返していた。

 隣室の住人が管理会社へ連絡したのは、午前三時を過ぎてからだった。

 鍵を開けて入った管理人が見たのは、三十代の男だった。

 男は寝室の床に座っていた。

 照明は消えている。

 カーテンも閉まっている。

 エアコンは止まっていた。

 部屋は少し寒かった。

 男は膝を抱えて、壁にもたれていた。服は乱れていない。血もない。家具が倒れた様子もない。薬の袋や酒瓶も見当たらない。ただ、男は顔を真っ白にして震えていた。

「大丈夫ですか」

 管理人が声をかける。

 男はゆっくり顔を上げた。

 目が赤い。

 泣き続けた後の目だった。

「痛い」

 それだけを言った。

「どこがですか」

 管理人は聞いた。

 男は黙る。

 そして、子供のように首を振った。

「分からない」

 救急車が呼ばれた。

 駆けつけた救急隊員は、最初、急性腹症か心疾患を疑った。だが男は腹を押さえていない。胸を掻きむしってもいない。意識はある。受け答えもできる。外傷はない。血圧は少し高いが、異常値というほどではない。脈拍は速い。呼吸も浅い。だが、それだけだった。

「どこが痛いですか」

 救急隊員が尋ねる。

 男は涙を流しながら答えた。

「分からないんです」

「胸ですか。頭ですか。お腹ですか」

「違う」

「手足ですか」

「違う」

「では、どこです」

 男はしばらく黙った。

 そして、自分でも信じられないような顔で言った。

「生きてるのが痛い」

 救急隊員たちは顔を見合わせた。

 精神科案件。

 そう判断するには早かったが、少なくとも通常の外傷や急病ではない。男は暴れていない。自傷行為もしていない。だが目だけが異様だった。自分の身体の中から逃げ出したいのに、逃げ場がどこにもない人間の目だった。

 搬送中、男は何度も言った。

「痛い」

 救急隊員の一人が肩へ手を添えた。

「大丈夫です。病院に着きます」

 その瞬間だった。

 救急隊員は、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。

 痛みではない。

 不安だった。

 だが、それを痛みと呼ぶしかない感覚だった。

 何か悪いことが起きる。

 理由はない。

 だが確信がある。

 家に帰れない気がする。

 明日の朝が来ない気がする。

 自分が何か取り返しのつかないミスをした気がする。

 それは一秒にも満たない違和感だった。

 救急隊員はすぐに振り払った。

 疲れているだけだ。

 夜勤中だからだ。

 そう思った。

 だが病院へ着く頃には、同乗していたもう一人の隊員も手首を押さえていた。

「どうした」

「いや……何でもないです」

「痛いのか」

「分かりません」

 その返事が、最初の男と同じだったことに、二人とも気付かなかった。

 病院では検査が行われた。

 血液検査。

 心電図。

 CT。

 神経反射。

 どれも大きな異常はなかった。

 担当医は問診を繰り返した。

「痛みの強さは十段階でどれくらいですか」

 男は答えられなかった。

「痛みの場所は」

「分かりません」

「刺すような痛みですか。焼けるような痛みですか。締め付けられる痛みですか」

 男は首を振る。

「違うんです」

「では、どういう痛みですか」

 男は泣いていた。

 声を殺して。

 大人の男が、診察台の上で、肩を震わせて泣いていた。

「不安なんです」

 医師の手が止まる。

「不安?」

「はい」

「何が不安ですか」

「分かりません」

 男は顔を覆う。

「でも痛いんです」

 その言葉を聞いた看護師が、胸を押さえた。

 ほんの一瞬だった。

 自分の奥にある柔らかい部分を、誰かに爪で押されたような感覚。

 痛い。

 そう思った。

 けれど場所が分からない。

 手術痕でも、筋肉痛でも、神経痛でもない。

 理由のない不安が、そのまま神経へ変換されたような痛みだった。

 看護師は勤務を続けた。

 医師も診察を続けた。

 救急隊員も次の出動へ向かった。

 誰もその時点では異常だと気付かなかった。

 なぜなら全員、こう思ったからだ。

 気のせいだ。

 疲れているだけだ。

 寝れば治る。

 それが間違いだった。

 朝までに、同じ病院の救急外来へ二十七人が運ばれた。

 全員が同じことを言った。

「痛い」

 外傷はない。

 検査異常もない。

 熱もない。

 薬物反応もない。

 だが、全員が痛がっている。

 最初はパニック障害や集団ヒステリーが疑われた。だが奇妙なのは、患者同士に接点があることだった。

 最初の男を搬送した救急隊員。

 その救急隊員と会話した看護師。

 看護師から申し送りを受けた医師。

 医師の説明を聞いた患者家族。

 家族から電話を受けた職場の同僚。

 痛みは、人から人へ移っていた。

 接触だけではない。

 声。

 視線。

 説明。

 心配。

 共感。

 それらを媒介にして広がっていた。

 午前七時を過ぎる頃には、救急外来の待合は異様な静けさに包まれていた。

 誰も大声を出さない。

 暴れない。

 だが全員がどこかを押さえている。

 胸。

 喉。

 腕。

 腹。

 額。

 場所は違う。

 しかし、誰に聞いても答えは同じだった。

「分からない」

 そして。

「痛い」

 午前八時二十二分。

 病院の内線が鳴り続けた。

 救急外来の医師が対応できなくなったからだ。

 痛みに感染した。

 医師は机に手をつき、呼吸を荒くしていた。

 心臓発作ではない。

 脳卒中でもない。

 だが診察ができない。

 次の患者へ向き合った瞬間、患者の不安が自分の中へ入ってくる。

 それが痛みになる。

 痛い。

 何が。

 分からない。

 だから怖い。

 怖いから、さらに痛い。

 午前九時前には、救急隊の出動率が異常値に達した。

 同じ訴えの通報が市内全域から入っていた。

 痛い。

 助けて。

 どこが痛いか分からない。

 死にたいわけではない。

 でも生きているのが痛い。

 オペレーターの一人が受話器を置けなくなった。

 相手の声を聞きすぎたのだ。

 痛みを聞いた。

 不安を聞いた。

 その不安が、耳から入り、喉を通り、胸へ沈んだ。

 そして自分のものになった。

 東湾市消防局は、一時的に救急要請の優先度判定を変更した。

 だが無駄だった。

 判定する職員が発症する。

 患者を搬送する隊員が発症する。

 受け入れる病院が発症する。

 痛みは治療網そのものを伝って広がっていた。

 午前十時三十分。

 高峰修一の端末へ最初の報告が届いた。

 原因不明の疼痛訴えが市内で急増。

 外傷なし。

 検査異常なし。

 精神症状あり。

 感染経路不明。

 医療機関複数で対応不能。

 高峰はその文章を読んだ瞬間、嫌な汗をかいた。

 残響案件だ。

 そう判断するまでに時間はかからなかった。

 だが、いつもの残響とは違う。

 今回は現場が一つではない。

 病院。

 救急車。

 電話回線。

 待合室。

 家庭。

 職場。

 痛みは、すでに市内を移動している。

 しかも人間が人間を助けようとするほど広がる。

 高峰は梓へ連絡しようとして、指を止めた。

 徳川家康戦からまだ時間が経っていない。

 梓の触覚は戻っていない。

 深部感覚も不安定だ。

 零域・断絶の直後、水谷も異常を抱えている。

 それでも、呼ばないという選択肢はなかった。

 高峰は電話をかける。

 数回のコール。

 梓が出る。

「はい」

 声は静かだった。

「真名井、残響案件だ」

 高峰は言った。

「市内で原因不明の痛みが広がっている」

 電話の向こうで、梓が少し黙る。

「痛みですか」

「ああ。場所が分からない痛みだ」

 高峰は資料を見る。

「患者は全員、同じことを言ってる」

「何と」

 高峰は短く答えた。

「生きているのが痛い、と」

 電話の向こうで、梓の息が止まった。

 その沈黙の中で。

 東湾市の救急車が、また一台止まった。

 サイレンを鳴らしたまま。

 運転席の隊員が、ハンドルへ額を押し当てていた。

「痛い」

 そう呟きながら。

 どこが痛いのかも分からないまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ