第47話 痛いもの 第1章 分からないもの
第47話 痛いもの 第1章 分からないもの
最初の通報は、深夜のマンションからだった。
午前一時四十六分。雨は降っていなかった。風もない。近隣住民の話では、その夜は妙に静かだったという。街路樹の葉も揺れず、車の音も遠く、集合住宅特有の生活音だけが薄く壁を伝っていた。テレビの音。給湯器の作動音。どこかの部屋で閉まる扉の音。どれも普段なら気にも留めない程度のものだった。だが、その部屋から聞こえてきた声だけは違った。
「痛い」
叫び声ではなかった。
悲鳴でもなかった。
ただ、布団の中で寝言を言うような、妙に平坦な声だった。
隣室の住人は最初、夢でも見ているのだと思った。壁越しに声が聞こえることは珍しくない。だが、十分後にも同じ声が聞こえた。
「痛い」
それからまた。
「痛い」
間隔は不規則だった。長く空く時もあれば、続けて二度聞こえる時もあった。助けを呼ぶ声ではない。誰かへ向けた声でもない。ただ、自分の中にある何かを確かめるように、同じ言葉だけを繰り返していた。
隣室の住人が管理会社へ連絡したのは、午前三時を過ぎてからだった。
鍵を開けて入った管理人が見たのは、三十代の男だった。
男は寝室の床に座っていた。
照明は消えている。
カーテンも閉まっている。
エアコンは止まっていた。
部屋は少し寒かった。
男は膝を抱えて、壁にもたれていた。服は乱れていない。血もない。家具が倒れた様子もない。薬の袋や酒瓶も見当たらない。ただ、男は顔を真っ白にして震えていた。
「大丈夫ですか」
管理人が声をかける。
男はゆっくり顔を上げた。
目が赤い。
泣き続けた後の目だった。
「痛い」
それだけを言った。
「どこがですか」
管理人は聞いた。
男は黙る。
そして、子供のように首を振った。
「分からない」
救急車が呼ばれた。
駆けつけた救急隊員は、最初、急性腹症か心疾患を疑った。だが男は腹を押さえていない。胸を掻きむしってもいない。意識はある。受け答えもできる。外傷はない。血圧は少し高いが、異常値というほどではない。脈拍は速い。呼吸も浅い。だが、それだけだった。
「どこが痛いですか」
救急隊員が尋ねる。
男は涙を流しながら答えた。
「分からないんです」
「胸ですか。頭ですか。お腹ですか」
「違う」
「手足ですか」
「違う」
「では、どこです」
男はしばらく黙った。
そして、自分でも信じられないような顔で言った。
「生きてるのが痛い」
救急隊員たちは顔を見合わせた。
精神科案件。
そう判断するには早かったが、少なくとも通常の外傷や急病ではない。男は暴れていない。自傷行為もしていない。だが目だけが異様だった。自分の身体の中から逃げ出したいのに、逃げ場がどこにもない人間の目だった。
搬送中、男は何度も言った。
「痛い」
救急隊員の一人が肩へ手を添えた。
「大丈夫です。病院に着きます」
その瞬間だった。
救急隊員は、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。
痛みではない。
不安だった。
だが、それを痛みと呼ぶしかない感覚だった。
何か悪いことが起きる。
理由はない。
だが確信がある。
家に帰れない気がする。
明日の朝が来ない気がする。
自分が何か取り返しのつかないミスをした気がする。
それは一秒にも満たない違和感だった。
救急隊員はすぐに振り払った。
疲れているだけだ。
夜勤中だからだ。
そう思った。
だが病院へ着く頃には、同乗していたもう一人の隊員も手首を押さえていた。
「どうした」
「いや……何でもないです」
「痛いのか」
「分かりません」
その返事が、最初の男と同じだったことに、二人とも気付かなかった。
病院では検査が行われた。
血液検査。
心電図。
CT。
神経反射。
どれも大きな異常はなかった。
担当医は問診を繰り返した。
「痛みの強さは十段階でどれくらいですか」
男は答えられなかった。
「痛みの場所は」
「分かりません」
「刺すような痛みですか。焼けるような痛みですか。締め付けられる痛みですか」
男は首を振る。
「違うんです」
「では、どういう痛みですか」
男は泣いていた。
声を殺して。
大人の男が、診察台の上で、肩を震わせて泣いていた。
「不安なんです」
医師の手が止まる。
「不安?」
「はい」
「何が不安ですか」
「分かりません」
男は顔を覆う。
「でも痛いんです」
その言葉を聞いた看護師が、胸を押さえた。
ほんの一瞬だった。
自分の奥にある柔らかい部分を、誰かに爪で押されたような感覚。
痛い。
そう思った。
けれど場所が分からない。
手術痕でも、筋肉痛でも、神経痛でもない。
理由のない不安が、そのまま神経へ変換されたような痛みだった。
看護師は勤務を続けた。
医師も診察を続けた。
救急隊員も次の出動へ向かった。
誰もその時点では異常だと気付かなかった。
なぜなら全員、こう思ったからだ。
気のせいだ。
疲れているだけだ。
寝れば治る。
それが間違いだった。
朝までに、同じ病院の救急外来へ二十七人が運ばれた。
全員が同じことを言った。
「痛い」
外傷はない。
検査異常もない。
熱もない。
薬物反応もない。
だが、全員が痛がっている。
最初はパニック障害や集団ヒステリーが疑われた。だが奇妙なのは、患者同士に接点があることだった。
最初の男を搬送した救急隊員。
その救急隊員と会話した看護師。
看護師から申し送りを受けた医師。
医師の説明を聞いた患者家族。
家族から電話を受けた職場の同僚。
痛みは、人から人へ移っていた。
接触だけではない。
声。
視線。
説明。
心配。
共感。
それらを媒介にして広がっていた。
午前七時を過ぎる頃には、救急外来の待合は異様な静けさに包まれていた。
誰も大声を出さない。
暴れない。
だが全員がどこかを押さえている。
胸。
喉。
腕。
腹。
額。
場所は違う。
しかし、誰に聞いても答えは同じだった。
「分からない」
そして。
「痛い」
午前八時二十二分。
病院の内線が鳴り続けた。
救急外来の医師が対応できなくなったからだ。
痛みに感染した。
医師は机に手をつき、呼吸を荒くしていた。
心臓発作ではない。
脳卒中でもない。
だが診察ができない。
次の患者へ向き合った瞬間、患者の不安が自分の中へ入ってくる。
それが痛みになる。
痛い。
何が。
分からない。
だから怖い。
怖いから、さらに痛い。
午前九時前には、救急隊の出動率が異常値に達した。
同じ訴えの通報が市内全域から入っていた。
痛い。
助けて。
どこが痛いか分からない。
死にたいわけではない。
でも生きているのが痛い。
オペレーターの一人が受話器を置けなくなった。
相手の声を聞きすぎたのだ。
痛みを聞いた。
不安を聞いた。
その不安が、耳から入り、喉を通り、胸へ沈んだ。
そして自分のものになった。
東湾市消防局は、一時的に救急要請の優先度判定を変更した。
だが無駄だった。
判定する職員が発症する。
患者を搬送する隊員が発症する。
受け入れる病院が発症する。
痛みは治療網そのものを伝って広がっていた。
午前十時三十分。
高峰修一の端末へ最初の報告が届いた。
原因不明の疼痛訴えが市内で急増。
外傷なし。
検査異常なし。
精神症状あり。
感染経路不明。
医療機関複数で対応不能。
高峰はその文章を読んだ瞬間、嫌な汗をかいた。
残響案件だ。
そう判断するまでに時間はかからなかった。
だが、いつもの残響とは違う。
今回は現場が一つではない。
病院。
救急車。
電話回線。
待合室。
家庭。
職場。
痛みは、すでに市内を移動している。
しかも人間が人間を助けようとするほど広がる。
高峰は梓へ連絡しようとして、指を止めた。
徳川家康戦からまだ時間が経っていない。
梓の触覚は戻っていない。
深部感覚も不安定だ。
零域・断絶の直後、水谷も異常を抱えている。
それでも、呼ばないという選択肢はなかった。
高峰は電話をかける。
数回のコール。
梓が出る。
「はい」
声は静かだった。
「真名井、残響案件だ」
高峰は言った。
「市内で原因不明の痛みが広がっている」
電話の向こうで、梓が少し黙る。
「痛みですか」
「ああ。場所が分からない痛みだ」
高峰は資料を見る。
「患者は全員、同じことを言ってる」
「何と」
高峰は短く答えた。
「生きているのが痛い、と」
電話の向こうで、梓の息が止まった。
その沈黙の中で。
東湾市の救急車が、また一台止まった。
サイレンを鳴らしたまま。
運転席の隊員が、ハンドルへ額を押し当てていた。
「痛い」
そう呟きながら。
どこが痛いのかも分からないまま。




