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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第46話 縛れないもの 第5章 怯えていたもの

 徳川家康が歩く。


 静かだった。


 急がない。


 焦らない。


 勝利を確信している者の歩みだった。


 梓は動けない。


 神経拘束。


 今までとは桁が違う。


 腕が上がらない。


 足が動かない。


 祓詞を唱えようとしても喉が閉じる。


 転位侵界の代償で感覚を失った身体へ、徳川家康の支配が深く食い込んでいた。


《動くな》


 声が落ちる。


 身体がさらに重くなる。


《失敗するな》


 頭の中へ直接響く。


《生き残れ》


 その言葉に、梓は違和感を覚えた。


 生き残れ。


 正しい。


 間違っていない。


 だから恐ろしい。


 この鬼は悪意で人を縛らない。


 善意で縛る。


 守るために。


 失敗させないために。


 傷付けないために。


 だから人は逆らえない。


 徳川家康が目前まで来る。


 右手が上がる。


 梓は動けない。


 その時だった。


 黒い影が割り込んだ。


 轟音。


 八咫刃と徳川家康の腕が激突する。


 衝撃で城下町が揺れた。


 梓の目が見開かれる。


「……水谷さん」


 長い髪。


 黒い刃。


 水谷真だった。


 徳川家康を見るその目には、迷いがある。


 理解できない感情。


 理由の分からない衝動。


 それでも身体は動いていた。


《退け》


 徳川家康が言う。


 水谷の身体が止まりかける。


 神経拘束。


 だが止まらない。


 八咫刃が紫電を纏う。


「……断る!」


 自分でも意味が分からなかった。


 なぜ守る。


 なぜ庇う。


 なぜ助ける。


 答えは出ない。


 それでも、目の前で梓が死ぬことだけは許せなかった。


《愚かな、死を恐れぬか》


 徳川家康が言う。


《……だから死ぬ》


 水谷の膝が沈む。


 八咫刃を握る指が軋む。


 だが、その瞬間。


 世界が揺れた。


 愛音だった。


 翡翠が暴走している。


 今川義元。


 武田信玄。


 石田三成。


 三人の消滅。


 理解できない。


 なぜ残った。


 なぜ逃げなかった。


 なぜ自分を守った。


 その答えが分からない。


 だから苦しい。


 だから怒っている。


 だから悲しい。


 感情が制御できない。


 翡翠から黒い光が噴き上がる。


《封じろ》


 徳川家康が命じる。


 だが遅い。


 愛音の感情は限界を超えていた。


「……いや」


 震える声。


「嫌、嫌、嫌、嫌、嫌」


 もう一度。


「もう消えないでーーっ!」


 少女の叫びだった。


 初めてだった。


 命令でもない。


 主様への執着でもない。


 自分自身の感情だった。


 徳川家康の動きが止まる。


 梓はそこに隙を見た。


 同時に、無念も見た。


 天下を取った男。


 国を守った男。


 それでも最後まで安心できなかった男。


 壊れる恐怖。


 裏切られる恐怖。


 失う恐怖。


 だから縛った。


 だから管理した。


 だから統制した。


 梓は八鍵を握る。


 感覚はない。


 握れているかも分からない。


 それでも声を出す。


「修正対象を確認」


 祓詞が走る。


 量子暗号札が浮く。


 徳川家康が振り向く。


 梓を見る。


 その目に、初めて疲労が見えた。


「……あなたは」


 梓が言う。


「安心したかっただけなんですね」


 徳川家康は答えない。


 梓は続ける。


「壊れない国」


「崩れない秩序」


「裏切らない人」


「乱れない感情」


 一拍。


「そんなものありません」


 城下町全体が止まる。


「人は裏切ります」


「感情は暴走します」


「時代は崩れます」


「国も終わります」


 徳川家康が目を細める。


 修正が届きかけていた。


 縛れないものを認める。


 完璧な統制など存在しないと認める。


 それだけで鎖鬼は崩れる。


 梓はさらに踏み込もうとした。


 だが。


 その言葉が届き切るより早く。


 愛音の翡翠が弾けた。


 黒い奔流。


 暴走した吸収機構が徳川家康へ食らいつく。


《なっ――》


 驚愕の声。


 だが止まらない。


 修正されかけていた核が、強引に、無理やり、翡翠の内部へ引きずり込まれていく。


 愛音は泣いていた。


 徳川家康の粒子。


 記憶。


 怨念。


 執着。


 数百年積み重なった残穢ごと、全てを飲み込む。


 翡翠が悲鳴を上げる。


 空間が軋む。


 梓の顔色が変わる。


「まずい……!」


 修正された鬼の残滓ではない。


 第三層全域に染み込んだ徳川家康の残響。


 城下町。


 天守。


 空。


 地面。


 全てが共鳴している。


 黒い亀裂が空間中へ走った。


 愛音は何も見えていない。


 何も聞こえていない。


 ただ苦しそうに胸を押さえすべてを吸収する。


 次の瞬間。


 残響空間を切り裂き、愛音はその闇へと姿を消した。


「愛音さん!」


 梓が叫ぶ。


 だが届かない。


 少女はそのまま闇へ消えた。


 残されたのは、暴走する残響空間だけだった。


 轟音。


 城下町の残骸から黒い瘴気が噴き上がる。


 徳川家康を失った空間は、制御を失っていた。


 長年蓄積された統制と執着の呪いが、主を失ったまま膨れ上がっていく。


《従え》


《乱れるな》


《失敗するな》


《生き残れ》


 無数の声。


 無数の命令。


 空間全体から降り注ぐ。


 梓の身体が軋む。


 神経拘束が何倍にも膨れ上がる。


 膝をつく。


 呼吸が止まりそうになる。


 その肩を、水谷が支えた。


「立てるか」


「厳しい……です」


 正直な答えだった。


 感覚がない。


 術式もまともに組めない。


 だが呪いは迫る。


 黒い波となって。


 世界そのものを埋め尽くしながら。


 水谷は前へ出た。


 八咫刃を地面に突き立てる。


 その動きに迷いはなかった。


 だが水谷自身の顔には困惑があった。


 前にも梓を守った祓詞だが水谷は本来知らない。


 それなのに身体が知っている。


 刀が知っている。


 指が、足が、呼吸が、勝手に手順をなぞっている。


 周囲の色が失われた。


 音が遠ざかる。


 境界が消える。


「零域――」


 静かな声。


「断絶!」


 突き立てた八咫刃を中心に、紫電を纏った漆黒の円陣が広がっていく。


 水谷を中心に広がる絶対の滅殺。


 呪いが止まる。


 瘴気が止まる。


 空間の暴走さえ一瞬停止する。


 円陣は残響空間を紫電で焼き払いながら広がり続ける。


 人を祓うためではない。


 鬼を祓うためでもない。


 残響空間そのものへ向けた滅却の言葉。


 白黒反転。


 轟音。


 第三層全体へ巨大な亀裂が走る。


 徳川家康の残穢。


 蓄積された呪い。


 暴走する残響空間。


 その全てが断絶の境界へ飲み込まれていく。


 梓は見た。


 世界が崩れていく光景を。


 そして。


 消えゆく呪いの中で、水谷の背中だけが立っていた。


「真名井!」


 水谷が振り返る。


「今だ、出口が開く。行くぞ」


 崩壊する空間の先。


 紫電に裂かれた亀裂の向こうに白い光が見えた。


 現世へ繋がる裂け目だった。


 梓は頷く。


 身体は限界だった。


 それでも立つ。


 愛音はもうここにはいない。


 ならば自分たちが生きて帰らなければならない。


 水谷が梓の腕を取る。


 次の瞬間、足場が崩れた。


 城下町の残骸が奈落へ落ちていく。


 空も砕ける。


 地面も消える。


 残響空間そのものが終わろうとしていた。


「急げ!」


 二人は走った。


 崩壊する世界の中を。


 白い出口へ向かって。


 背後では断絶の境界が全てを飲み込んでいく。


 徳川家康の残穢も。


 蓄積された呪いも。


 第三層の残響空間そのものも。


 そして。


 二人が光へ飛び込んだ瞬間。


 残響空間は完全に崩壊した。


 視界が白く染まる。


 浮遊感。


 転移の感覚。


 次に梓が目を開いた時、そこは会社の玄関ホールだった。


 割れた自動ドア。


 倒れた警官。


 止まっていた救急隊員。


 結界の残光。


 現実の空気。


 梓は膝をつく。


 身体が動かない。


 触覚は戻らない。


 感覚もない。


 それでも、戻ってきた。


 水谷が隣に立っていた。


 八咫刃を握る手が僅かに震えている。


「……なんで」


 水谷が呟く。


 自分の声なのに、どこか他人事のようだった。


「あの祓詞が使える」


 梓は答えられない。


 水谷本人も知らない祓詞。


 けれど八咫刃は知っていた。


 そしておそらく。


 水谷の中に残っている何かも。


 高峰が駆け寄ってくる。


「真名井!」


 声が遠い。


 梓は顔を上げようとして、できなかった。


 その横で、水谷は無言のまま立っている。


 理由は分からない。


 なぜ守ったのか。


 なぜ助けたのか。


 なぜあの祓詞を使えたのか。


 何一つ分からないまま……。


————————————


 その頃。


 祀社では、愛音が白い廊下に倒れていた。


 胸元の翡翠は静かだった。


 鎖鬼を吸収した。


 本来なら安定するはずだった。


 吸収体を制御する核。


 暴走を抑える部品。


 完成へ近付くための鬼。


 それなのに、愛音は震えていた。


 胸が痛い。


 苦しい。


 悲しい。


 理由が分からない。


 今川義元。


 武田信玄。


 石田三成。


 三人の最期が消えない。


 なぜ残った。


 なぜ守った。


 なぜ笑った。


 翡翠の中で、鬼たちは静かになっている。


 なのに心だけが乱れている。


「主様……」


 小さく呟く。


 返事はない。


 だが初めてだった。


 愛音は思った。


 褒めてほしい。


 ではなく。


 会いたい。


 と。


 誰も知らなかった。


 完成へ近付くはずだった愛音が。


 逆に。


 人間へ近付き始めていることを。

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