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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第46話 縛れないもの 第2章 入れない場所

 建物全体が、低く軋んだ。


 それは音というより、圧だった。


 壁が鳴っているのではない。床が沈んでいるのでもない。もっと奥。建物の内部にいる人間の神経が、一斉に同じ方向へ引っ張られているような感覚だった。


 高峰は警察手帳を握ったまま、動けなかった。


 指が動かない。


 腕が下がらない。


 自分の身体なのに、まるで許可が必要になっている。何かをする前に、誰かへ申請し、承認を待ち、承認が下りなければ動けない。そんな馬鹿げた感覚が、高峰の骨の内側から湧いてくる。


 梓はその横を通り過ぎた。


 足取りは不安定だった。


 以前の梓なら、もっと静かに、もっと正確に歩いていた。床の歪みも、人の位置も、空気の濁りも、すべて測ったように動いた。今は違う。わずかに歩幅が乱れる。足先が床へ触れる瞬間、ほんの僅かに遅れる。自分の身体の位置を、目で確認しながら歩いている。


 高峰はそれを見て、胸の奥が冷えた。


「真名井」


 呼ぶ。


 梓は振り返らない。


「ここから先は、私が行きます」


 静かな声だった。


 高峰は眉を寄せる。


「……何を言ってる」


「この残響は、現実側からでは届きません」


「一人で入る気か?」


「はい」


 即答だった。


 高峰は一歩前へ出ようとした。


 だが足が動かない。


 正確には、動かす前に止まる。


 行くな。


 危険だ。


 踏み込むな。


 生き残れ。


 高峰の頭ではなく身体がそう判断している。


 自分で考える前に、神経が行動を却下していた。


「……くそっ」


 高峰が奥歯を噛む。


 梓は量子暗号札を取り出した。


 指先が少し震えている。


 札を一枚だけ取るはずが、二枚ずれた。梓は一瞬だけ手元を見る。何でもない動作のはずだった。それなのに、今の梓には確認が必要だった。


 触覚が薄れている。


 痛覚もない。


 身体の輪郭も曖昧になり始めている。


 それでも梓は札を揃えた。


「遮断・断界」


 札が浮く。


 青白い光が高峰の周囲を包んだ。


 薄い膜のような結界。


 空気が一枚挟まったように変わる。


 頭の奥へ流れ込んでいた命令が、少しだけ遠くなった。


 高峰の指が動く。


 やっと警察手帳を下ろせた。


「これは?」


「応急処置です」


 梓は建物の奥を見たまま言う。


「長くは持ちません。結界が切れたら、すぐに離れてください」


「…おまえは」


「中心へ行きます」


「待て!」


 高峰の声が低くなる。


「今のおまえは万全じゃない」


「万全で対応できる相手なら、ここまで広がっていません」


 高峰は言葉を失った。


 正論だった。


 腹立たしいほどに。


 梓は八鍵を取り出した。


 黒い棒状の祓具。


 その表面に刻まれた祝詞へ、指を添える。だが、触れている感覚はほとんどないのだろう。梓は指先を見る。確認する。握れているか。落としていないか。それを目で確かめる。


 高峰はそれが嫌だった。


 祓屋としてではなく、人間として、見ていられなかった。


「……高峰さん」


 梓が少しだけ振り返る。


「正しいと思ったことほど、疑ってください」


 高峰が電話越しに聞いた言葉。


 同じだった。


 だが今度はもっと近い。


 もっと重い。


「この残響は、正しさで人を止めます」


 梓は静かに続ける。


「だから、自分が正しいと思った瞬間に、もう半分は掴まれています」


 その時だった。


 建物の奥から、また声が落ちた。


《抑えろ》


 低い。


 深い。


 命令というより、法律に近かった。


 いや、それ以上だった。


 その言葉が発せられた瞬間、空間そのものが意味を書き換えられたように感じた。耳で聞いたのではない。骨が聞いた。内臓が聞いた。脳が理解する前に、身体が従属を選んでいた。


《乱れるな》


《耐えろ》


《勝手に動くな》


 言葉が落ちるたび、見えない重石が積み上がる。


 結界の外で、警官の一人が膝をついた。


 救急隊員が担架を持ったまま止まる。


 社員たちは動かない。


 全員が静かだった。


 静かすぎた。


 誰も命令されていないはずなのに、誰もが命令を受けた顔をしていた。


 肩が下がり、視線が伏せられ、呼吸まで小さくなる。


 まるでこの建物全体が巨大な牢獄となり、人間を収監しているようだった。


 梓は八鍵を床へ突き立てた。


「接続祓詞」


 声は小さい。


 だが空気が応じた。


 八鍵の表面に刻まれた祝詞が淡く光る。一本、また一本と文字列が浮かび上がり、床へ沈み込んでいく。会社の玄関ホールだった場所に、見えない円が広がった。床材の模様が歪み、受付カウンターの輪郭が薄れ、自動ドアの向こうの駐車場が遠ざかる。


 高峰はその変化を結界の内側から見ていた。


 異様な光景だった。


 会社が消えていく。


 いや、剥がれていく。


 現実の表面が薄い壁紙みたいにめくれ、その奥から別の空間が滲み出していた。


 梓は目を閉じる。


「座標固定」


 八鍵が低く唸る。


「残響深度、第三層」


 第三層。


 器でも精神でもない。


 人間の中心へ食い込む鬼。


 梓は続ける。


「接続開始」


 空間が裂けた。


 音はなかった。


 だが、高峰には悲鳴のように感じられた。


 玄関ホールが縦に割れ、その向こうに別の景色が見えた。


 城だった。


 巨大な城。


 だが美しくはない。


 白く輝く天守でも、絢爛な城下町でもない。空は曇っている。道は整っている。町人はいる。商人もいる。武士もいる。だが、誰も笑っていない。誰も走っていない。子供の声も、喧嘩の声も、酒場の騒ぎもない。


 全てが整いすぎていた。


 道の端を歩く者は端だけを歩き、中央を歩く者はいない。店先に並ぶ商品は一寸の乱れもなく揃えられ、客は手を伸ばさない。門番は瞬きすら控えているように立っている。


 町ではない。


 巨大な規律だった。


 高峰は息を呑む。


「……何だ、これは!?」


「残響空間です」


 梓が答える。


「私は入ります」


「……現実側をお願いします」


 それだけだった。


 高峰が伸ばそうとした手は、結界に阻まれた。


 梓は裂け目へ歩く。


 歩幅が少し乱れる。


 それでも進む。


 黒いスーツの背中が、異様に小さく見えた。


 裂け目の向こうへ足を踏み入れた瞬間、梓の姿が揺らいだ。


 そして消えた。


 空間が閉じる。


 高峰だけが残された。


 結界の中で。


 現実の会社の玄関で。


 だが完全な現実ではなかった。


 建物の奥から、まだ声が聞こえる。


《抑えろ》


《耐えろ》


《動くな》


 高峰は額に汗を浮かべる。


 結界は薄くなり始めていた。


 長くは持たない。


 梓が言った通りだった。


——————————————


 残響空間の中。


 梓は城下町へ立っていた。


 空気が重い。


 湿っているわけではない。


 圧がある。


 ただ重いのではない。


 空間そのものが上から押さえつけてくる。


 肩に重石を載せられたような圧迫感ではない。見えない手が関節一つ一つを掴み、勝手な動きを許さないよう固定している感覚だった。


 梓には、歩くだけで何かに許可を求めているような気分になった。


 町人たちは梓を見ない。


 見ないようにしている。


 異物が現れても騒がない。


 騒げない。


 騒ぐことが禁じられているのだ。


 通りの向こうで、一人の男が荷物を落とした。


 木箱が割れる。


 中の野菜が転がる。


 男はそれを見た。


 だが拾わない。


 拾えば列を乱す。


 列を乱せば迷惑をかける。


 迷惑をかければ失敗する。


 だから動かない。


 野菜は道へ転がったまま、誰にも触れられず、黒い粒子になって消えた。


 梓はその光景を見て、理解した。


 ここでは失敗しないことが最優先されている。


 動かないことが正しい。


 迷わないことが正しい。


 従うことが正しい。


 その正しさが、人間を殺している。


 遠くから声が響く。


《抑えろ》


 その瞬間、町全体が沈んだ。


 目には見えないのに、巨大な蓋が上から閉じたようだった。


 町人たちが一斉に頭を下げた。


 頭を下げたのではない。


 下げさせられた。


 首の角度まで揃い、背筋の曲がり方まで統一される。


《乱れるな》


 武士たちも膝をつく。


 鎧が鳴る音すら最小限だった。


 誰も逆らえない。


 逆らうという発想そのものが削り取られている。


《耐えろ》


 子供まで動きを止める。


 泣きそうな顔をしている子供がいる。


 だが泣かない。


 泣くことすら許可されていない。


 梓は八鍵を構える。


 だが手元が心許ない。


 握っている感覚が薄い。


 強く握り過ぎれば落とす前に手を痛める。だが梓には痛みも分からない。緩めれば落とす。それも分からない。


 その時だった。


 城下町の一角が裂けた。


 黒い粒子が吹き込む。


 梓の表情が変わる。


 嫌な予感がした。


 裂け目から現れたのは、黒いドレスの少女だった。


 胸元の翡翠。


 赤い瞳。


 巨大な大鎌。


 平山愛音。


「そこにいたんだ」


 愛音は嬉しそうだった。


 その声が、整いすぎた町の中でひどく異物に聞こえた。


「見つけた」


 梓は息を吐く。


「…帰ってください」


「やだ」


 即答だった。


「あいつ、取るの」


 愛音は城の奥を見る。


 まだ姿を見せない鎖鬼を。


 第三層の核を。


 その後ろに、さらに三つの影が現れた。


 一人は甲冑を纏った大柄な男。


 一人は軍配を持つ優雅な男。


 一人は細い打刀を携えた男。


 人間ではない。


 寄生体だった。


 祀社が作った使い捨ての器。


 この鎖鬼を攻略するためだけに調整された、三つの対抗因子。


 愛音は振り返らない。


「邪魔しないでね」


 その言葉は梓に向けられていた。


 梓は八鍵を構える。


「それはこちらの台詞です」


 その瞬間。


 城の奥。


 天守閣の闇から声が落ちた。


《動くな》


 たった一言。


 それだけで。


 梓の足が止まった。


 愛音の呼吸が止まった。


 三体の寄生体の身体が硬直した。


 命令を聞いたのではない。


 身体の支配権を奪われた。


 筋肉が凍りつく。


 関節が閉じる。


 肺が膨らむことを忘れる。


 指先一本動かそうとしても、その命令が途中で握り潰される。


 神経が命令を拒否している。


 動こうとしている。


 だが動けない。


 まるで身体そのものが、自分の敵になったみたいだった。


 愛音の翡翠が脈打つ。


 それでも愛音は一歩も動けない。


 寄生体の一体が膝をつく。


 別の一体は武器を持ち上げることすらできない。


 空間全体が巨大な拘束具だった。


 城下町も、空気も、地面も、すべてが同じ意思で彼らを押さえ込んでいる。


 鎖鬼はまだ姿を見せていない。


 それなのに、梓も愛音も理解した。


 格が違う。


 今までの残響とは根本から違う。


 これは第三層。


 核。


 鬼を束ねる鬼。


 命令ではなく支配。


 説得ではなく拘束。


 存在するだけで、人間から自由を剥ぎ取る領域そのものだった。


 そして。


 城の最奥。


 天守閣の闇の中で。


 誰かが静かに笑った。

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