第46話 縛れないもの第1章 動かない人たち
最初の通報は、会社の会議室からだった。
午前九時二十分。始業からまだ間もない時間だった。中堅の建設会社で、いつもなら朝礼を終えた社員たちが各部署へ散っている頃だという。だがその日は違った。総務課の女性社員が会議室の前を通りかかった時、中から人の声が聞こえた。
「失敗できない」
それだけだった。
大声ではない。怒鳴り声でもない。机に向かって誰かが独り言を言っているような、低く平坦な声だった。
女性社員は最初、上司が電話でもしているのだと思った。だが、二度目の声が聞こえた時、足を止めた。
「失敗できない」
今度は一人ではなかった。
数人が同時に言っていた。
気味が悪くなり、扉の小窓から中を覗いた。
会議室には八人いた。
部長、課長、営業主任、設計担当、事務員、若手社員。普段から同じ会議へ参加する者たちだった。全員が椅子に座っている。資料も開かれている。ホワイトボードには、納期遅延対策と書かれていた。異常な光景ではない。むしろ、どこにでもある朝の会議だった。
ただ、誰も動いていなかった。
椅子に座ったまま、全員が両手を膝の上へ置いている。背筋はまっすぐ伸び、視線は正面へ固定されていた。瞬きはしている。呼吸もしている。だが、それ以外の動作がない。
女性社員が扉を開けた。
「大丈夫ですか」
誰も答えない。
「部長?」
部長が、ゆっくり口を開いた。
「不用意な発言は、混乱を招く」
それだけを言った。
女性社員は意味が分からなかった。
「何かあったんですか」
今度は課長が答えた。
「確認できないことは言わない」
若手社員が続けた。
「勝手に動かない」
事務員が言った。
「迷惑をかけない」
全員が、順番に口を開く。
声はそれぞれ違う。
だが、内容は同じ方向へ向かっていた。
「失敗しない」
「怒らせない」
「波風を立てない」
「最悪を想定する」
「勝手に判断しない」
「余計なことはしない」
女性社員は怖くなり、後ずさった。
その瞬間、会議室の八人が一斉にこちらを見た。
首だけが動いた。
音もなく。
全員が同じ表情をしていた。
真面目な顔だった。
怒りでも狂気でもない。
むしろ、正しいことをしている顔だった。
「席へ戻ってください」
部長が言った。
「規律を乱さないでください」
女性社員は廊下へ逃げた。
それが最初だった。
異常は、同じ会社の中へ広がっていった。
営業部の男が、客先へ向かう途中で車を止めた。理由を聞かれると、事故を起こす可能性があるから運転できないと答えた。体調不良ではない。酒気もない。だが男はハンドルを握ったまま、一ミリも動けなくなった。道路の端に停めた車の中で、ずっと前方を見ていた。
「今動けば、誰かを傷つけるかもしれない」
そう繰り返した。
製造課では、作業員が工具を持てなくなった。ミスをすればラインを止める。ラインを止めれば納期が遅れる。納期が遅れれば会社に迷惑がかかる。だから自分は動かない方がいい。そう言って、機械の前で立ったまま固まった。
経理では、女性社員が伝票の承認ボタンを押せなくなった。金額は正しい。上司も確認済みだった。だが、もし間違っていたらどうするのか。もし自分が見落としていたらどうするのか。もし後で問題になったらどうするのか。そう言い続け、指をマウスの上へ置いたまま、三時間動かなかった。
誰も暴れていない。
誰も叫んでいない。
だから余計に発見が遅れた。
異常者に見えないのだ。
むしろ、真面目に見える。
責任感が強いように見える。
慎重に見える。
だが実際には、全員が自分で自分を監禁していた。
動くな。
言うな。
間違えるな。
失敗するな。
迷惑をかけるな。
その命令が、頭の中で膨らみ続けていた。
救急隊が到着した時、会議室の八人はまだ座っていた。
血圧は高い。
脈も速い。
瞳孔も開いている。
交感神経が異常に緊張していた。だが本人たちは、落ち着いていると言う。むしろ、今が一番安全だと言う。
「動かなければ失敗しない」
部長が言った。
「黙っていれば怒られない」
課長が続けた。
「耐えれば済む」
事務員が微笑んだ。
その笑顔を見た救急隊員の一人が、手を止めた。
理由は分からない。
だが、急に自分の処置が怖くなったという。
もし間違ったら。
もし胸骨圧迫の位置がずれたら。
もし薬剤の量を間違えたら。
もし自分の判断で人を殺したら。
そう思った瞬間、手が動かなくなった。
同じ症状だった。
感染している。
現場の空気に。
言葉に。
正しさに。
高峰修一が報告を受けたのは、その一時間後だった。
電話口の警官は、妙に小さな声で話していた。
『大声を出すと、悪化する気がします』
「何がだ?」
『分かりません。ただ、みんな静かにしているんです。静かにしている方が正しい気がするんです』
高峰は、その時点で残響案件と判断した。
ただし、嫌な種類だった。
派手な怪異ではない。
人を殺すのではなく、人を止める。
そして、その止め方があまりにも正しい。
我慢する。
空気を読む。
迷惑をかけない。
勝手に動かない。
全部、現代の社会では褒められる言葉だった。
だからこそ危険だった。
人は、正しさには抵抗しにくい。
高峰はすぐに梓へ連絡した。
だが、電話をかける指が一瞬止まった。
梓の状態を知っている。
痛覚を失い、触覚も失い始めている。最近は物を落とすことが増えた。自分の足がどこにあるのか分からない、と一度だけ漏らしたこともある。
それでも呼ばなければならない。
高峰は自分の中に湧いた躊躇を、腹立たしいほど仕事の判断として押し殺した。
電話はすぐ繋がった。
『はい』
「真名井、残響案件だ」
梓はしばらく黙った。
『場所は』
高峰が住所を告げる。
返事は短かった。
『向かいます』
「すまん…無理はするな」
言ってから、高峰は自分の言葉が薄いと感じた。
梓は電話の向こうで、少しだけ息を吐いた。
『無理をしない範囲で済むなら、私を呼んでいないはずです』
何も言えなかった。
梓は続ける。
『現場の人たちへ伝えてください。できるだけ意思決定をさせないでください。判断そのものが拘束に変わる可能性があります』
「分かった」
『それと、高峰さんも』
「なんだ?」
『正しいと思ったことほど、疑ってください』
電話が切れる。
高峰はしばらくスマートフォンを見ていた。
正しいと思ったことほど、疑え。
その言葉は、妙に嫌な重さを持っていた。
会社の前へ着いた時、建物は静かだった。
警察車両と救急車が並んでいる。だが、騒がしくない。むしろ異様に整っていた。警官たちは無駄口を叩かず、救急隊員も必要最低限の動きだけをしている。
整然としている。
だからこそ、気味が悪かった。
高峰が入口へ向かう。
自動ドアの前で、一人の若い社員が立っていた。
スーツ姿。
背筋を伸ばし、両手を体側へ揃えている。
「関係者以外は立ち入り禁止です」
高峰は警察手帳を見せる。
「警察です」
「確認します」
若い社員はそう言って、動かなくなった。
確認しない。
電話もしない。
ただ立っている。
「確認は?」
高峰が聞く。
社員は真っ直ぐ前を見たまま言った。
「私の判断で通すと、規則違反になる可能性があります」
「なら上司を呼んでください」
「上司へ連絡することで、業務を妨害する可能性があります」
「では、あなたは何をするんですか?」
社員は少しだけ微笑んだ。
「何もしません」
高峰の背中が冷えた。
その時だった。
建物の奥から、低い声が聞こえた。
《抑えろ》
耳ではない。
頭の中へ直接落ちてきた。
《乱れるな》
《耐えろ》
《動くな》
高峰の右手が止まった。
警察手帳を持ったまま。
指が動かない。
自分で命令している。
しまえ。
動け。
入れ。
だが、身体が従わない。
神経そのものを掴まれている。
高峰は歯を食いしばった。
遠くで、エレベーターの到着音が鳴った。
扉が開く。
黒いスーツの女が降りてくる。
真名井梓だった。
歩き方が少し不安定だった。
それでも、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
梓は建物の奥を見た。
そして、静かに言った。
「恐らく…鎖鬼と呼ばれる残響です」
その声を聞いた瞬間。
建物全体が、低く軋んだ。




