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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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間話 鬼というもの 第5章 人になろうとするもの

 祀社は静かだった。


 深夜だった。


 白い廊下がどこまでも続いている。


 窓はない。


 時計もない。


 昼なのか夜なのかも分からない。


 ここでは時間そのものに意味がなかった。


 必要なのは命令だけだった。


 愛音は一人で歩いていた。


 黒いドレス。


 黒い髪。


 胸元の翡翠。


 いつもと変わらない。


 見た目だけなら。


 だが胸の奥が落ち着かなかった。


 理由は分からない。


 ずっとだった。


 松尾芭蕉の残響と接触してから。


 もっと言えば。


 あの日から。


 落合陽菜が消えた日から。


 何かがおかしくなっている。


 愛音は立ち止まる。


 白い壁を見つめる。


 何も映らない。


 鏡のように磨かれているのに、自分の顔だけが妙に遠く見えた。


「……変」


 小さく呟く。


 返事はない。


 当然だった。


 主様はいない。


 今は会えない。


 謹慎中だから。


 勝手に動いた。


 命令を破った。


 怒られた。


 それは理解している。


 理解しているのに。


 胸の奥が痛かった。


 怒られたからではない。


 もっと別の何かだった。


 愛音は目を閉じる。


 思い出したくないのに。


 思い出してしまう。


 寄生体。


 三人。


 名前はない。


 顔でもない。


 最後の言葉だけが残っている。


『行ってください』


『愛音様』


『貴女だけは』


『守ります』


 黒い空間。


 崩れる残響。


 迫る修正。


 そして。


 三人は残った。


 逃がすために。


 愛音を。


 自分を。


 逃がすために。


 消えた。


 吸収もされていない。


 回収もされていない。


 ただ壊れた。


 存在ごと。


 完全に。


「……どうして?」


 愛音は呟く。


 分からない。


 理解できない。


 寄生体は道具だ。


 使うもの。


 消耗品。


 祀社はそう扱う。


 愛音もそう教わった。


 落合陽菜もそうだった。


 任務を終えた。


 だから刈り取った。


 何もおかしくない。


 正しい。


 それが祀社だ。


 それなのに。


 胸が苦しい。


 理由が分からない。


 愛音は翡翠へ触れる。


 冷たい。


 本来なら安心する。


 主様から与えられたものだから。


 主様のための証だから。


 なのに今日は違った。


 冷たいだけだった。


 愛音はゆっくり歩き出す。


 廊下の先。


 重い扉。


 主様の部屋。


 その前で立ち止まる。


 入れない。


 許可がない。


 だから待つ。


 それが愛音の役目だった。


 だが。


 扉を見ているだけで少し安心した。


 胸の痛みが少しだけ薄れる。


「主様……」


 小さな声だった。


 返事はない。


 それでも。


 そこにいると思うだけで安心する。


 昔はこんなことはなかった。


 会えなくても平気だった。


 命令だけあればよかった。


 役目だけあればよかった。


 なのに今は違う。


 会いたい。


 褒めてほしい。


 認めてほしい。


 必要だと言ってほしい。


 その感情が止まらない。


 愛音は首を振った。


「わたし…変」


 また呟く。


 何度目か分からない。


 本当に変だった。


 鬼を吸収してから。


 少しずつ。


 少しずつ。


 何かが増えている。


 骨鬼。


 血鬼。


 肉鬼。


 夢鬼。


 影鬼。


 鏡鬼。


 虚鬼。


 そしてこれから核へ近付いていく。


 本来なら安定するはずだった。


 本来なら完成へ近付くはずだった。


 なのに。


 逆だった。


 理解できないものが増えていく。


 説明できない感覚が増えていく。


 胸が苦しい。


 悲しい。


 怖い。


 嬉しい。


 全部が分からない。


 愛音は扉の前で膝を抱えた。


 少女みたいな格好だった。


 本来ならしない。


 必要ない。


 だがそうしたかった。


 理由は分からない。


 ただ。


 一人でいたくなかった。


 祀社の廊下は静まり返っていた。


 誰も来ない。


 誰も通らない。


 白い世界の中で、愛音だけがそこにいた。


 主様の扉の前。


 膝を抱えたまま。


 ただ待っていた。


 待つことしかできなかった。


 胸元の翡翠が微かに脈打つ。


 愛音はそれを握る。


 冷たい。


 けれど離したくなかった。


「……どうして」


 誰にも聞こえない声。


 答えを求める声。


 だが返事はない。


 主様も。


 祀社も。


 誰も答えてくれない。


「どうして苦しいの……」


 静かな廊下へ問いが落ちる。


 その声だけが残った。


 

 ————————————


 中森はまだ起きていた。


 机の上には鬼の資料。


 残穢薬。


 葉巻。


 そして空になったグラス。


 水谷は帰っている。


 一人だった。


 静かだった。


 中森は天井を見上げる。


 嫌な流れだった。


 本当に。


 嫌な流れだった。


 梓は削れている。


 転位侵界に触れた。


 感覚を失い始めた。


 それでも止まらない。


 愛音は逆だった。


 感情を得ている。


 理解できない何かを抱え始めている。


 そして。


 水谷。


 あいつも変わっている。


 理由も分からず人を守る。


 理由も分からず前へ出る。


 本人すら理解していない。


 三人ともおかしい。


 三人とも本来の場所から外れ始めている。


 葉巻の火が揺れた。


 中森は目を閉じる。


「ろくなことにならねぇな」


 独り言だった。


 誰も聞いていない。


 だが本心だった。


 鬼は集まる。


 祀社は動く。


 梓は止まらない。


 愛音は変わる。


 水谷は混じる。


 そして原澤はいない。


 誰も止められない。


 だから嫌だった。


 本当に嫌だった。


 中森は灰皿へ葉巻を押し付ける。


 小さな火が潰れる。


 その赤だけが妙に目についた。


 嫌な予感がする。


 根拠はない。


 だが長く生きていると分かることがある。


 人が人でなくなっていく時。


 あるいは。


 人でなかったものが人になろうとする時。


 決まって碌な結末にならない。


 愛音の顔が脳裏をよぎる。


 あの少女は気付いていない。


 自分が何を失い。


 何を得始めているのか。


 中森は深く息を吐いた。


「……あれが一番まずいかもしれねぇな」


 誰に向けた言葉でもない。


 静かな地下室に沈むだけだった。


 そしてその夜。


 中森は妙な確信だけを抱いていた。


 鬼よりも。


 祀社よりも。


 これから起きる何かよりも。


 人になろうとしているあの少女が。


 一番不穏だった。

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