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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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間話 鬼というもの 第3章 削れていくもの

 中森はしばらく黙っていた。


 葉巻の煙だけが動いている。


 水谷も急かさなかった。


 地下室は静かだった。


 鬼の話が終わった今、空気は少し重い。


 だが水谷には分かっていた。


 中森が本当に話したいのは鬼ではない。


 別のことだ。


 真名井梓。


 その名前が出た瞬間から、中森の声は少し変わっていた。


 怒りでもない。


 嫌悪でもない。


 心配に近い。


 もっと言えば。


 諦めに近かった。


「……転位侵界ってのはな」


 中森が言った。


「祓詞じゃねぇ」


 水谷が眉を動かす。


「違うんですか」


「ああ」


 葉巻の先が赤く光る。


「みんな勘違いしてる」


 煙を吐く。


「便利な必殺技みてぇに思ってる」


「だが、違う!」


 短く断言する。


「人間が使うもんじゃねぇ」


 地下室が静かになる。


 中森は机の上の紙へ指を置いた。


 人体図。


 鬼の資料。


 その上をゆっくりなぞる。


「世界にはな」


 低い声だった。


「元へ戻ろうとする力がある」


 一拍。


「残響も」


「人間も」


「空間も」


「記録も」


「全部だ」


 水谷は黙って聞いている。


「歪んだものは戻ろうとする」


「壊れたものは均衡を取ろうとする」


「世界そのものがそう出来てる」


 葉巻。


 煙。


「転位侵界は、その力を借りる」


「世界へ修正を頼むんじゃない」


「世界自身へ仕事をさせる」


 中森は苦笑した。


「だから代償がいる」


「タダで済む訳がねぇ」


 水谷は思い出していた。


 最近の梓を。


 歩き方が変わった。


 物を落とす。


 手元を見る時間が増えた。


 触って確認する癖も増えた。


 そして。


 何でもない顔で笑う。


 隠しているつもりなのだろう。


 だが隠し切れていない。


「感覚が消えてる」


 中森が言った。


 水谷は返事をしない。


「痛覚」


「触覚」


「身体位置感覚」


「温覚」


「情緒反応」


 指を折る。


「まだ途中だ」


「もっと削れる」


 静かな声だった。


「使えば使うほどな」


 水谷の手が僅かに動く。


 八咫刃の柄へ触れる。


 無意識だった。


「……昔」


 中森が言った。


「俺は言ったことがある」


—————————————


 煙が揺れる。


 地下室ではない。


 別の雨の日だった。


 原澤伸。


 穏やかな男。


 真面目な男。


 そして誰よりも祓屋だった男。


 中森は葉巻を咥えながら言った。


 あの子は危ない。


 感受性が高すぎる。


 真っ直ぐ過ぎる。


 放っておくと世界側へ行く。


 転位侵界へ触れる。


 そう言った。


 原澤は否定した。


 まだ早い。


 そんな場所へは辿り着かない。


 そう答えた。


 だが。


 中森は思っていた。


 違う。


 早い遅いじゃない。


 向こうが選ぶ。


 そういう類のものだと。


 煙だけが残る。


————————————


「……当たっちまった」


 中森が呟いた。


 苦い声だった。


「最悪の形でな」


 水谷は黙っていた。


 原澤のことは知らない。


 だが。


 結果だけは見ている。


 梓は削れている。


 それは事実だった。


「本人は分かってるんですか」


 中森は笑った。


 短く。


 乾いた笑いだった。


「分かってるだろ」


 一拍。


「だから使う」


 水谷が目を細める。


 中森は続ける。


「真名井梓って人間はな」


 葉巻。


 煙。


「自分が削れることより」


「目の前で誰かが壊れる方を嫌がる」


 静かな声だった。


「だから止まらねぇ」


 地下室が静かになる。


 雨音だけが遠い。


「昔、高野山にな…」


 中森が突然言った。


 水谷は顔を上げる。


「高野山?」


「強力な残響が出た」


 短い説明だった。


「一人の祓屋が向かった」


「そいつは戻らなかった…」


 それ以上は語らない。


 名前も出さない。


 誰なのかも言わない。


 ただ。


 中森の目だけが僅かに暗くなった。


「死んだんですか」


 水谷が聞く。


「わからん」


 即答だった。


「死体も無ぇ」


「記録も無ぇ」


「痕跡も無ぇ」


「だから気持ち悪い」


 煙が揺れる。


「消える時は何か残る」


「残響なら残穢が残る」


「人間なら死体が残る」


「だが何も残ってねぇ」


 中森は葉巻を見た。


 赤い火。


 小さい。


 だが消えていない。


「……だから嫌なんだ」


 その声には珍しく疲労があった。


 水谷は何も言わない。


 中森がこんな顔をするのを見たことがない。


 いつも飄々としている。


 いつも不遜だ。


 だが今は違う。


 本当に嫌がっている。


 それが伝わった。


 中森は葉巻を灰皿へ置く。


 灰が落ちる。


「鬼は厄介だ」


 低い声。


「祀社も厄介だ」


 さらに続く。


「だがな」


 少しだけ笑った。


「俺が今一番嫌なのは」


 水谷を見る。


「真名井の嬢ちゃんが平然と転位侵界を使ってることだ」


 地下室が静かになる。


 機械音だけが響く。


「本人が一番危険性を理解してる」


 一拍。


「それでも使う」


 中森は目を閉じた。


「そこが怖ぇ」


 誰も答えなかった。


 水谷も。


 換気扇も。


 雨音も。


 何も答えない。


 ただ。


 最近の梓の姿だけが頭へ浮かぶ。


 笑う。


 歩く。


 祓詞を使う。


 そして少しずつ削れていく。


 それでも止まらない。


 中森は小さく息を吐いた。


「さて…次はお前のことだな」


 そう言って。


 初めて水谷へ視線を向けた。

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