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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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間話 鬼というもの 第1章 父親というもの

 雨は嫌いだった。


 若い頃から好きではなかったが、最近は特にそうだった。


 雨の日は調子が悪い。


 娘の調子も悪くなる。


 気圧だの湿度だの、そういう話ではない。


 もっと単純だ。


 雨の日は、消えやすい。


 中森安行はそう思っていた。


 地下のアジトは静かだった。


 地上の音はほとんど届かない。だが換気口の奥から聞こえる鈍い水音だけは消えない。壁際の解析装置が低く唸り、古い蛍光灯が時折明滅する。


 机の上には黒い瓶が並んでいた。


 十本。


 二十本。


 三十本。


 大きさは様々だった。


 どれも中身は黒い。


 液体のようにも見えるし、光を吸い込む泥のようにも見える。


 残穢薬だった。


 残響から抽出した残穢を精錬し、人間が摂取できるよう加工したもの。


 本来なら存在してはいけない薬。


 だが、それが無ければ娘は消える。


 だから作る。


 正しいかどうかなど関係ない。


 娘が生きるなら使う。


 それだけだった。


 中森は一本を持ち上げる。


 瓶の底で黒い粒子が揺れている。


 生き物みたいだった。


 実際には違う。


 人間の未練だ。


 怒りだ。


 恐怖だ。


 後悔だ。


 そういうものを煮詰めた残り滓。


 気持ちのいい代物ではない。


 だが今さらだった。


 何年も前に気持ち悪さなど捨てている。


「……今日はどうだ」


 誰もいない部屋へ呟く。


 返事はない。


 当然だった。


 娘はここにはいない。


 別の場所で眠っている。


 眠らされていると言った方が正しい。


 目覚めている時間より眠っている時間の方が長い。


 そうしなければ保たない。


 存在が薄れる。


 記録が消える。


 記憶が抜ける。


 人間としての輪郭そのものが崩れていく。


 神降ろし。


 祀社はそう呼んだ。


 中森は今でもその言葉が嫌いだった。


 神を降ろす。


 大層な名前だ。


 実際にやっていたことは人体実験に過ぎない。


 使える器か。


 壊れる器か。


 それを試しただけだ。


 結果として娘は呪われた。


 原澤伸によって祀社は壊滅した。 


 その残党が今になってまた動き出した。

 

 だから中森は今も追っている。


 金のためではない。


 情報のためでもない。


 復讐ですらない。


 ただ終わらせたくない。


 娘を。


 それだけだった。


 机の端に置かれた写真立てを見る。


 古い写真だった。


 高校の入学式。


 笑っている少女。


 その顔はまだ消えていない。


 だが昔より少し薄く見える。


 気のせいではない。


 本当に薄くなっている。


 だから中森は薬を作る。


 残穢を集める。


 滅殺者へ仕事を流す。


 祓屋へ情報を渡す。


 全部同じ理由だった。


 助けたい。


 それだけだ。


 扉が開いた。


 重い鉄扉だった。


 地下特有の軋む音が響く。


 中森は振り返らない。


 誰が来たのか分かっていた。


「戻りました」


 水谷真だった。


 黒いコート。


 長い髪。


 肩には八咫刃。


 相変わらず愛想がない。


 相変わらず死神みたいな顔をしている。


「遅かったな」


「現場が遠かったので」


「嘘つけ」


 中森は笑う。


「途中で梓の嬢ちゃん助けてただろ」


 水谷が黙る。


 数秒。


 それから答えた。


「偶然です」


「便利な言葉だな」


「事実です」


「そうかよ」


 中森はそれ以上追及しなかった。


 どうせ否定する。


 最近ずっとそうだ。


 何度助けても。


 何度庇っても。


 本人は認めない。


 認めたくないのか。


 本当に分かっていないのか。


 中森にもまだ判断がつかなかった。


 水谷は壁際へ立つ。


 座らない。


 いつものことだった。


 中森は葉巻へ火を付ける。


 煙がゆっくり上がる。


「飲むか?」


「結構です」


「堅ぇな」


「勤務中です」


「真面目か」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてねぇ」


 短い沈黙。


 葉巻の煙だけが揺れる。


 やがて水谷が口を開いた。


「中森さん」


「何だ」


「祀社は何をしているんですか」


 中森は煙を吐く。


 予想していた質問だった。


 最近の現場を見ていれば当然だ。


 愛音。


 寄生体。


 鬼。


 回収。


 繋がらない情報が増えすぎている。


 そして、第三層。


 核。


 いよいよ隠し切れない場所まで来ていた。


 中森は葉巻を灰皿へ置く。


 火はまだ消さない。


「何をしてると思う?」


「分かりません」


 即答だった。


「ただ」


 一拍。


「残響を集めている」


「ああ」


 中森は頷く。


「集めてる」


「愛音に」


 再び沈黙。


 換気扇が回る音だけが聞こえる。


「なら」


 水谷が続ける。


「あれは一体何なんですか」


 中森は少しだけ目を細めた。


 平山愛音。


 祀社が抱える残響を吸収する器。


 少女の姿をした何か。


 人間に見える。


 だが人間ではない。


 残響にも似ている。


 だが残響でもない。


 中森は机の引き出しを開く。


 古い紙束を取り出した。


 黄ばんだ資料。


 手書きのメモ。


 乱雑な人体図。


 そして。


 四十八の名前。


「説明してやる」


 中森は資料を机へ広げた。


「まず鬼の話からだ」


 葉巻の煙が静かに天井へ昇っていく。


 雨はまだ止んでいなかった。

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