間話 鬼というもの 第1章 父親というもの
雨は嫌いだった。
若い頃から好きではなかったが、最近は特にそうだった。
雨の日は調子が悪い。
娘の調子も悪くなる。
気圧だの湿度だの、そういう話ではない。
もっと単純だ。
雨の日は、消えやすい。
中森安行はそう思っていた。
地下のアジトは静かだった。
地上の音はほとんど届かない。だが換気口の奥から聞こえる鈍い水音だけは消えない。壁際の解析装置が低く唸り、古い蛍光灯が時折明滅する。
机の上には黒い瓶が並んでいた。
十本。
二十本。
三十本。
大きさは様々だった。
どれも中身は黒い。
液体のようにも見えるし、光を吸い込む泥のようにも見える。
残穢薬だった。
残響から抽出した残穢を精錬し、人間が摂取できるよう加工したもの。
本来なら存在してはいけない薬。
だが、それが無ければ娘は消える。
だから作る。
正しいかどうかなど関係ない。
娘が生きるなら使う。
それだけだった。
中森は一本を持ち上げる。
瓶の底で黒い粒子が揺れている。
生き物みたいだった。
実際には違う。
人間の未練だ。
怒りだ。
恐怖だ。
後悔だ。
そういうものを煮詰めた残り滓。
気持ちのいい代物ではない。
だが今さらだった。
何年も前に気持ち悪さなど捨てている。
「……今日はどうだ」
誰もいない部屋へ呟く。
返事はない。
当然だった。
娘はここにはいない。
別の場所で眠っている。
眠らされていると言った方が正しい。
目覚めている時間より眠っている時間の方が長い。
そうしなければ保たない。
存在が薄れる。
記録が消える。
記憶が抜ける。
人間としての輪郭そのものが崩れていく。
神降ろし。
祀社はそう呼んだ。
中森は今でもその言葉が嫌いだった。
神を降ろす。
大層な名前だ。
実際にやっていたことは人体実験に過ぎない。
使える器か。
壊れる器か。
それを試しただけだ。
結果として娘は呪われた。
原澤伸によって祀社は壊滅した。
その残党が今になってまた動き出した。
だから中森は今も追っている。
金のためではない。
情報のためでもない。
復讐ですらない。
ただ終わらせたくない。
娘を。
それだけだった。
机の端に置かれた写真立てを見る。
古い写真だった。
高校の入学式。
笑っている少女。
その顔はまだ消えていない。
だが昔より少し薄く見える。
気のせいではない。
本当に薄くなっている。
だから中森は薬を作る。
残穢を集める。
滅殺者へ仕事を流す。
祓屋へ情報を渡す。
全部同じ理由だった。
助けたい。
それだけだ。
扉が開いた。
重い鉄扉だった。
地下特有の軋む音が響く。
中森は振り返らない。
誰が来たのか分かっていた。
「戻りました」
水谷真だった。
黒いコート。
長い髪。
肩には八咫刃。
相変わらず愛想がない。
相変わらず死神みたいな顔をしている。
「遅かったな」
「現場が遠かったので」
「嘘つけ」
中森は笑う。
「途中で梓の嬢ちゃん助けてただろ」
水谷が黙る。
数秒。
それから答えた。
「偶然です」
「便利な言葉だな」
「事実です」
「そうかよ」
中森はそれ以上追及しなかった。
どうせ否定する。
最近ずっとそうだ。
何度助けても。
何度庇っても。
本人は認めない。
認めたくないのか。
本当に分かっていないのか。
中森にもまだ判断がつかなかった。
水谷は壁際へ立つ。
座らない。
いつものことだった。
中森は葉巻へ火を付ける。
煙がゆっくり上がる。
「飲むか?」
「結構です」
「堅ぇな」
「勤務中です」
「真面目か」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてねぇ」
短い沈黙。
葉巻の煙だけが揺れる。
やがて水谷が口を開いた。
「中森さん」
「何だ」
「祀社は何をしているんですか」
中森は煙を吐く。
予想していた質問だった。
最近の現場を見ていれば当然だ。
愛音。
寄生体。
鬼。
回収。
繋がらない情報が増えすぎている。
そして、第三層。
核。
いよいよ隠し切れない場所まで来ていた。
中森は葉巻を灰皿へ置く。
火はまだ消さない。
「何をしてると思う?」
「分かりません」
即答だった。
「ただ」
一拍。
「残響を集めている」
「ああ」
中森は頷く。
「集めてる」
「愛音に」
再び沈黙。
換気扇が回る音だけが聞こえる。
「なら」
水谷が続ける。
「あれは一体何なんですか」
中森は少しだけ目を細めた。
平山愛音。
祀社が抱える残響を吸収する器。
少女の姿をした何か。
人間に見える。
だが人間ではない。
残響にも似ている。
だが残響でもない。
中森は机の引き出しを開く。
古い紙束を取り出した。
黄ばんだ資料。
手書きのメモ。
乱雑な人体図。
そして。
四十八の名前。
「説明してやる」
中森は資料を机へ広げた。
「まず鬼の話からだ」
葉巻の煙が静かに天井へ昇っていく。
雨はまだ止んでいなかった。




